飼い犬










ACT 20







「・・・・・・・・クゥン」


耳元で聞こえた、小さな泣き声
パタパタと何かを叩いているような音
ペロペロ・・・と頬や鼻を舐める湿った感触


「ん・・・・・・?」


ゆっくりと意識が浮上してくる
なかなか開かなかった目が、ようやく開いた


「・・・・・っあ!」


ハッと意識が覚醒して、床の上に直寝していたせいで軋む身体を勢い良く跳ね起こした

目の前に、昨日公園の片隅で見つけた、衰弱して意識不明だった・・・仔犬
どこかのバカヤロウに面白半分に痛めつけられた・・・小さな身体

連れて帰って
みっちゃん先生に診療してもらって

『・・・今夜がヤマだね。これで意識が戻らなかったら・・・あきらめるんだよ?』

そう言われて
とてもじゃないけど放って帰るなんて、出来なくて

昨夜は仔犬に寄り添って、一緒に寝た

その仔犬が、まだ立ち上がれなくて寝そべったままだけど、一生懸命尻尾を振って、俺の頬を舐めてた・・・!


「良かった!お前、意識戻ったんだ・・・!」


思わず叫んだら


「ほらほら〜、大声出さないの。その子がビックリしてるでしょーが」


いつもと変わらない、呑気な声音が頭上から落とされた
呑気なんだけど、凄く、ほっとする声音

だって

ほら

振り向いたら、いつもそこに

ふんわり・・・と笑う、みっちゃん先生の笑顔

こんな風に柔らかで
その辺の女の人なんかより断然美人なのに

その内側は
背中に棲んでる鳳凰のように
触れただけで火傷するくらい、熱くて激しい・・・不思議な人


「あ・・ごめんなさい。で、あの、助けてくれて、ありがとうございました!!」


床に頭をぶつけそうになる位の勢いで頭を下げ・・・礼を言った
今はまだ、何も出来ないけど
いつかきっと、恩返しがしたい・・・そんな思いも込めて


「どーいたしまして。で、その子の診療代とこれからの入院費用、その他諸々・・・ジュン君のバイト代から天引きね♪」

「・・・いっ!?う・・・ぅぅ・・・し、仕方ないか・・・」

「で、もう一つ、いいかなぁ?」

「・・・へ?なに?」

「急がないと、授業、遅刻だよ?」

「えっ!?」


慌てて腕時計を見たら、もう・・・!!


「うっそ!もうこんな時間!?今日の授業、大好きな吉村先生なのに・・・!」

「だったよねぇ?ほらほら、行った行った♪」

「い、いってきまーす!」


俺は、脱兎のごとく駆け出して学校へ向かった





祐介さんに

『・・・・一年後を楽しみにしているよ』

そう言われたあの日から・・・もうじき一年





俺は、みっちゃん先生にも協力してもらって
生まれて初めて必死に勉強して

大学生になった



そう

真柴が通ってたのと、同じ大学
俺は、薬学を専攻した

多分

田島に捕まって、あんな目に合わなかったら
俺は、こんなに一生懸命勉強なんてしなかった・・・と思う

どんなに忘れたくたって、忘れたりなんて出来やしない
だったら
忘れる必要なんて、ない

いつか

誰かが俺と同じような目にあった時
助けて上げられるように

みっちゃん先生や祐介さんにもらった・・・たくさんのものを、いつか、誰かに、伝えられるように


俺は、一生、忘れたりなんて、しない









俺の大好きな吉村先生の授業は、もの凄く人気が高くて、いつもその授業は座る所がなくなるくらい、いっぱいになる

だから、いつもは早目に行って席を確保してるんだけど
今日は、座れるかどうかすら、あやしい

何とか

授業が始まる直前、俺は教室に辿り着く事が出来た
でも、案の定・・・というか当然というか・・・
もう教室は学生で満ち溢れていて

空いている席なんて一つも・・・・

そう思って見渡していたら、一番前の席の端っこに、ぽっかり一人分だけ席が空いていた

誰か、席を取ってるのかな?そう思ったけど
もう、授業が始まる
吉村先生は授業が始まると、途中入室を認めない

周囲を見渡してみたけど、立ってる奴なんて居ない
席を取ってるような人間が見あたらない



・・・・・空いてる?のかな?



だったら凄くラッキーだ

今朝は仔犬も助かったし
遅刻もせずにすんだし

おまけに、席まで・・・!


「あの・・・ここ、空いて・・・・」


一番前のその席の横に座ってた奴に、声をかけて・・・

固まった



・・・・・・・・・ま・・しば!?



それが誰だか認識した途端
身体が勝手に、その場から逃げ出そうとした


だって

なんで!?

こんな、いきなり
不意討ちに
何の心の準備もなしに・・・なんて


そんなのって、ない!


なのに

グイ・・・ッ!!と反転しようとしたその腕を取られて引っ張られ
そのまま、真柴の隣に、座らされてしまった

と、同時に

ざわついていた教室がシーーンとなって、いつものにこやかな笑みを浮べた吉村先生が、教壇の前に立った

いつものように授業が始まり
俺は、長椅子と長テーブルの作りのその席で

その長椅子の上に、取られた右手を押し付けるようにして、真柴に、握りしめられていた


心臓が
痛いくらい、脈打ってる


真柴の顔を見たのは、ほんの一瞬
でも、もうそれだけで、それが真柴だって分かるのには十分で

視線が合いそうになって
慌てて逃げ出そうとしたから、まだまともに顔を見ていない

真柴の顔を見るのが怖くて
顔が上げられない

自然と視線が、俺の手を包み込むようにして握り締めている真柴の手に行く


少し、皮膚の色が薄くなった
少し、痩せたような気がする


でも、よく考えてみたら

こんな風に、真柴に、手を握られたのは、初めて・・・だ

一番初めに、真柴と会った時
あの時も、顔を上げる気力も目を開ける気力もなくて

唇に押し当てられた、真柴の指・・・
その指を、舐めたのが、全ての始まり

それから
真柴の手で身体を洗われて

その手で
その指で

何度も、なんども、イカされて
その気持ちよさを、刷り込まれた

でも
今、この手に感じるのは

あの・・・生きてて良かった・・・って、そう思えた
あの、陽だまりの暖かさと同じ

俺の手より一回りは大きくて
手だけなのに・・まるで全身を包み込んでくれているみたいな気さえする



・・・・・・・・凄く、心地良くて・・・あったかい



もう二度と
失いたくない、温もり

あの時
自分からこの手を離して出て行った・・・その愚かさを、今更ながらに実感する




みっちゃん先生と祐介さんみたいに
離れてても、真柴が生きててくれれば、それでいい

そう、思えるようになれればいい・・・!
そう思って、この一年、努力した

でも


少しでも真柴に、近付きたくて
俺の知らない真柴の事が、知りたくて

同じ大学に入って

真柴が取ってた授業
真柴が好きだった教授
真柴が好きだった場所

真柴の匂いを
真柴の痕跡を

そんな物ばかり追い求めて
何をするにも、真柴の事が真っ先に浮かんでた


だから

真柴がこの授業に居たって、全然不思議じゃない

だって

真柴が、一番好きだった授業で
真柴が、一番好きだった教授だから

そして俺も、真柴が好きだったものが、好きになっていて
一緒に居た頃は全然分からなかった真柴の事が、こうして離れてみて、ようやく見えてきた

おぼろげに輪郭が見えてくると
もっとはっきり見たくなる

幻影だけを追うだけじゃ、満たされなくなる
離れている事が、苦しくて、寂しくて

堪らなくなる



今改めて考えると

我ながら、よく我慢できてたな・・・と感心する



そんな事ばかり考えていたら
いつの間にか、授業が終わっていたようで

三々五々に周囲の学生達が、教室から出て行く

でも

俺の手を握りしめてる真柴の手が、緩む事はなくて
真柴自身も、動こうとしない

ようやく、真柴に会えたのに

ずっと

ずっと・・・

真柴の幻影ばかり追っていたのに

いざ、本物を前にすると怖くて仕方がない


だけど


今なら

真柴が何を考えてるか・・・分かる
多分、俺と一緒

凄く、顔が見たいんだけど、怖くて

聞きたいこととか
言いたいこと

そんなものがありすぎて、言葉に出来ない

こうして隣に居ることが夢なんじゃないかと思えて

手の温もりがあんまりにも心地良くて



・・・・・動けない



二人とも同じ思いなら

今度は

俺が


「・・・帰ろ」


まだ下を向いたまま、そう言った


「・・・え?」


戸惑ったような・・・真柴の声音

この声だけで、さっき思ったことが間違いじゃないって、確信できた

だから、今度は


俺が

真柴を

俺だけの、飼い主にする


「連れて帰ってよ。俺、放し飼いは無理みたい・・だから」


ゆっくりと顔を上げ、真柴と視線を絡ませ合う



・・・・・・やっぱり、そうだ



見つめる真柴の瞳にも、俺と同じ不安と怖さの色が滲んでる

でもその色合いが、ゆっくりと溶けて、消えていく


以前より一層シャープになったその顔に
以前より一層迫力を増した笑みが浮かぶ



「ただいま・・・潤也」

「おかえり・・・涼介」



ずっと・・・呼びたかった、その名前


呼んだ名が・・・目に見えない鎖になって


俺を、繋ぎ
真柴を、繋ぐ


その瞬間、俺達はようやく、動き出せた




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