求める君の星の名は・番外編
「天満月(あまみみつき)」
「佐保子、置屋の女はね、月みたいなものなのよ」
そう言ったのは、母だった。
『月?』そう問い直した私の小さな手を、寝付いてしまった布団の中からソッと握り締め、言葉を続けた。
「日の当たる所には出られない、夜の闇の中でしか輝けないもの。だから、どうせなら天満月(あまみみつき)になりなさい。夜空を昼の太陽のように照らす、満月に。
闇を淡く照らす輝きだからこそできる、人が心の内に秘めた想いを暴くことなく抱き込んだ…そんな月にね」
それが母の最後の言葉だった。
癌であっけなく逝った母の生涯は、最後に言ったその言葉そのもののように、男のために身を引き、私を産んで、父親の事は死んだと言って一切何も語ってはくれなかった。
父を知らず、母も失くした私を引き取り育ててくれたのは、当時母が世話になっていた芸妓置屋の女将さんで、私は幼い頃から置屋に出入りする女達の雑用係として、その手伝いをしながら成長した。
新宿という場所にあったせいか、女達の出入りは引きも切らず、そして子供だった私に対し誰もが優しくまるで母親のように接してくれた。
同時にそれは、女という部分を曝け出し、男というものがどんなものなのか…ということをも見せ付けてくれたけれど。
そんな日々を過ごしていた、ある日の事。
初めてその二人に会ったのはまだ小学生の時、女達の使いで、とある高級料亭に行った時だった。
芸事に使う扇子を座敷まで届けた折、座敷の中に居た自分と同じ位の年恰好の男の子と、少し年上の男の子二人と目があった。
その座敷内での芸事遊びは彼らにとって退屈だったらしく、二人の父親らしき人物に呼ばれた私はその相手をするよう求められた。
二人の名前は村田響と村田紀之。
響の方が兄で、紀之の方が弟だと紹介された。
二人の容貌は全くと言って良いほど似ておらず…京都のお茶の家元だという肩書きにありがちな、愛人の子とか継母の子…という関係なんだろう、と、幼いながらにもその世界の水に慣れ過ぎていた私には、容易に想像が付いた。
「名前は?なんていうの?」
そう最初に聞いてきたのは響の方だった。
四つ年上だという事もあったけれど、響は年よりも妙に大人びていて、その上その容貌は見惚れるほど端整で、そして、どこか冷めた眼をしていた。
弟だという紀之は、響と比べれば見劣りはしたものの、一般的には十分申し分なく整った顔つきだった。
私より一つ年上だというのに響の手を一時も離さず、べったりとくっ付きながら私を興味深げに見つめていた。
「…はじめまして、佐保子と言います」
女将さんや女達から躾けられたとおり、客の前では礼儀正しい言葉を使い、作った笑顔を浮かべ、きっちりと礼をして返事を返した。
そんな私の態度に、響の栗色の瞳が僅かに細まり、口の端に密やかな薄笑いが浮かんだのを、私は見逃さなかった。
ザワッと一瞬で鳥肌がたった。
今思えば、考えるより先に子供らしい直感で響の持つ破滅的な何かを感じていたのかもしれない。
「佐保子?ふぅ…ん、ひょっとして春生まれ?君のお母さんって、物知りだったろう?本とか新聞、よく読んでたんじゃない?」
口の端にのせた筈の薄笑いを、私以上の偽りの笑みに変えた響がそんな事を聞いてきたので、私は少し驚いた。
確かに私は春生まれだったし、母は他の女達に比べて数段物知りで、しかも英語も話せるようなちょっとした才女で有名だった。
”天満月”という言葉も、母の口からでなければ、きっと一生聞くこともなかった言葉だったろう。
女将さんが私を引き取ったのは、そんな女の娘だったから、というのもあったらしい。
「…どうして?」
思わず、警戒心に満ちた声音で聞き返した。
「佐保子って、きっと佐保姫から取った名前だと思ったから…」
その響の答えに、紀之が不満そうな顔つきでグイグイ…と手を引っ張って言葉を途切れさせた。
「佐保姫って、なに?教えて!」
まるで、響の関心を自分に取り戻そうとするかのようだった。
そんな紀之の髪をポンポンと軽くいなしたかと思うと、響が私に向けていた偽りの笑みとは全く別の、思わず見惚れるほどの笑みを紀之に向かって注いだ。
「佐保姫っていうのは、神話に出て来る春の女神のことだ。きっと、いい女になるよ…」
前半の言葉は紀之に向かって微笑みながら…
そして後半の言葉は、私に向かって、あの、密やかな薄笑いを浮かべながら…
それが、二人との初めての出会い、だった。
それから
年に数度、響と紀之が連れて来られる座敷には、必ず私も呼ばれるようになった。
特に何をするわけではなかったけれど、大人の夜の世界を身近に知る子供だった私は周囲の子供とは相成れず、そして茶の家元の子として、その伝統文化を幼い頃から身につけさせられる響と紀之もまた、そうだった。
置かれた世界は天と地ほどの違いがあったけれど、周囲から浮き、孤独を知った子供…という点では私たちは等しく仲間だった。
他の大人達に言えない、学校での愚痴や習い事や芸事や茶の練習の愚痴…。
会える時間は僅かで、話すべき話は尽きる事がなかった。
けれど
気がつけば話をするのは紀之と私ばかりで、響はただ静かにそれを聞き、紀之が『ねえ、兄さん、そうだよね』『兄さんはどう思う?』と、必ず話に引き入れるために話しかける事に答えを返すのみだった。
二人の関係は、確かに兄である響が上で、紀之は響に心酔していた。
二言目には『兄さん』と響を呼んで、響もまた呼ばれる度に紀之に笑み返していた。
響が見つめる物を見つめ、響が関心を示す物に等しく関心を寄せる…紀之が欲しがる物は、全て響の物だった。
それは年を経るごとに顕著になっていった。
そして気がつけば、紀之が欲しいと言えば、それはいつの間にか響の物から紀之の物へと変わっていた。
一見すれば、紀之が言うワガママが全て通り、響はただそれに従っているように見えた。
本妻の子が紀之で、愛人の子が響…と聞けば、誰もがその処遇に納得し疑問すら抱かなかった。
でも、本当はそうではなかった。
紀之が、それを欲しがるように。
まるで、ゲームでも楽しんでいるかのように。
響が、仕向けていたのだ。
そして私はその事に対し、苛立ちを覚えるようになった。
響は完璧に紀之を支配していた。
視線一つ、指先一つ…それだけで紀之を操り、翻弄する。
紀之は響に支配される事を望み、響は紀之を支配する事で自分から離れられないように仕向けていた。
自分が望む物を全て紀之に与え、与える分だけ、紀之の心を奪っていく。
響は求めても決して得られない、満たされる事のない虚無感を味わいながらも、紀之に与える事を止められない。
紀之は響が欲しがる物を欲し、結果、響からそれを奪う罪悪感に苛まされながらも、それを奪わずにはいられないのだ。
お互いがお互いを傷つけあい、分かっていて、それを止めようとはしない。
そうでもしなければ確められないほどの、強い歪んだ感情。
それは間違いなく、愛情だった。
年に数度…ではあったけれど、二人の関係を間近に見続けていて、それに気づけないほど私もバカではなかった。
そして、気づけるほどに二人を、好きになっていた。
どうにかしたかった。
初めて得られた友達で、大好きな仲間だったから。
けれど、私は一番大事な事を忘れてしまっていた。
そんな子供じみた想いで済んでいた時期は過ぎ、共に、男と女として扱われる年齢に達していた事を。
響の思惑の中に、自分も既に取り込まれていた事を。
自分が、芸妓置屋の女だったと言う事を。
ある時、紀之がトイレに立った隙に私は響に聞いてしまった。
「…どうして、なんでも紀之さんが欲しがるように仕向けるの?好き合ってるくせに、どうして、そんなに傷つけあわなきゃいけないの?」
聞いた瞬間、響の表情が一変した。
いつも人当たりの良い作った笑みが浮かんでいたその口元がニヤリ…と上がり、とんでもなく酷薄な薄笑いが浮かんだ。
あの時ほど自分の愚かさを呪った事はない。
それは、聞いてはいけないことだった。
人の心の奥底にある、決して人が触れてはならない、コト。
『天満月になりなさい…闇を淡く照らす輝きだからこそできる、人が心の内に秘めた想いを暴くことなく抱き込んだ…そんな月にね』
あの、母の最後の言葉…。
あれは、このことだったのか…と、その時、初めて私は理解した。
聞くべきではなかった。
気がつかない振りをしなければいけなかったのだ。
「…へぇ、気づいてたの?やっぱり君は賢いね」
聞こえたその声音に、ゾクッと背筋に悪寒が走った。
いつもの声と180度違うと言っても過言じゃないほどの、冷たい声音。
見据えてきた栗色の瞳には、人とは思えない獣の近い輝きが宿り、私は蛇に睨まれたカエルのように動けなくなっていた。
「でも、もう手遅れだよ?君が一番の致命傷になるんだ。言ったろう?いい女になる…ってね」
伸びてきた指は、もう子供の指ではなく、力強くて大きい男の指だった。
その指が頬を辿って首筋に触れ、うなじへと届いた瞬間グイッと引き寄せられ、唇をふさがれた。
抗う事など不可能だった。
驚きと怯えで強張り、目を見張った私を、一瞬面白そうに栗色の瞳が見下ろしかと思うと、強引に見せかけて触れただけの唇を離し、その瞳は視界の端に写った、別の物を見ていた。
僅かに開かれた襖の隙間から、その様子を固まって見ていた、紀之を。
その口元に、凄絶な薄笑いを浮かべながら…。
今も私は考える
男と女の間に恋愛を超えた感情は育たないものなのだろうか?と。
私が響に対して抱いていた感情が一体なんだったのか…。
私は未だに理解できないでいる。
ただ、紀之と共にその存在を欲した。
どうにかして、その存在を自分たちと繋ぎとめておきたかった。
何一つ、持とうとしなかった響のために、何かを持たせたかった。
自分たちのもとへ帰ってくる、その理由を。
それからほどなくして、私は行儀見習いという名目の元、村田の家に行く事になった。
実際は、村田家に買い上げられたのと同じだった。
紀之が、私を欲しいと望んだのだ。
響が私に関心を持っているかのように、紀之に見せ付けたから。
あの日以来、私たちの関係はただの子供で仲間だった関係から、男と女の関係へと…響によって否応なしに変えられてしまったのだ。
望まれたとはいえ、それは単に紀之の希望に過ぎず、とりあえず私は紀之の母のもとに置かれる事になった。
村田家の細々とした祭事や行事を教えられ、使用人として働きながら、もともと習い事の一つとしてやっていた茶も、本格的に習い始めた。
村田の家で暮らし、茶を習い始めて、私はなぜ、あんなにも紀之が響に心酔しているか…その理由をようやく理解できた。
響は、天才だった。
茶に対する才能だけではない。
学業もスポーツも、身のこなしも、社交性も、女の扱いも、悪ふざけも…その一挙一動、全てを完璧にこなし、全ての人の目を惹き付け、魅了した。
誰もが響と関わる事を望み、その才能と端整な容貌を褒めそやした。
そんな響を紀之は羨望の眼差しで見つめ、群がる他人を前に『兄さん』と誇らしげに呼んだ。
まるでその一言で響は自分だけの物だと、そう、宣言しているかのように。
反面。
響は求められるままに完璧に全てをこなしながら、同時に全てに醒め果てていた。
それらは全て、響の出自に起因していた。
響の母親は芸者上がりのいわゆる愛人で、私同様買い上げられて村田の家に入り、響を産むと同時に姿を消してしまったのだという。
しかもどうやら響の父親は村田の当主ではなく、どこの誰かも分からない…という事だった。
それでも当時、村田の当主夫婦の間に子供がなかったこと、当主が響を溺愛した事などから、響は実子として届けられ、後継ぎとして認知された。
ところが、その3年後に紀之が産まれ、事情が一変する。
どんなに才に溢れた天才だったとしても、何の血の繋がりもない事を知る者達からすれば、響は認めることなど出来ない赤の他人、ただの余所者。
響のものだったはずのモノは全て奪われ、紀之に与えられた。
その、人を惹き付け魅了する才能だけを除いて。
村田の家の中において、響は常に余所者で居場所がないように見えた。
そしてそれは、同じ部外者であり、置屋の女でしかなかった私にも言えることだった。
そんな私に紀之は気を使い、毅然とした態度で私を村田の家の重圧から守ってくれた。
例え響が関心を寄せたから…だったとしても、紀之はきちんと私を一人の女として扱い大事にしてくれた。
それは私にとっても好ましく、そんな紀之を好きだと思う気持ちに偽りはなかった。
けれどそれは同時に、等しく同じ物を求める同志としての奇妙な連帯感…というものも、育てていった。
心の奥底で、どうして?と思いながらも、その姿を追わずにはいられない…そんな衝動。
どんなに求めても、決して得る事が出来ない…響という存在に密かに焦がれる者同士としての。
村田の屋敷の中には、どこの古本屋か?と思えるほどの本で埋めつくされた部屋があった。
一番最初にその部屋の本の整理と掃除を言いつけられた私は、奥まった場所にあり滅多に人の来ないその部屋が、気に入った。
母の影響で本を読むことは大好きだったけれど、なかなかじっくりと本を読む機会などそれまでなかったから、仕事の合い間を縫ってはその部屋に通っていた。
その部屋が幼い頃から神童ともてはやされていた響のために…と作られた唯一の部屋だということを知ったのは、その部屋で響と鉢合わせした時だった。
いつものように言いつけられた用事を全て済ませ、束の間に得られた自由時間、私はその部屋に入り込んだ。
天井まである作り付けの本棚に一杯に詰め込まれた本は、ジャンルもバラバラで推理小説から小難しそうな専門書まで…飽きる事のない品揃えだったと言っていい。
以前読みかけていた本を取り、部屋の一番奥にあった大きな出窓に向かった。
そこに腰掛けて温かな陽射しを浴びながら本を読むのは気持ちがよく、その部屋の特等席だった。
そこに、思わぬ先客、響が居た。
「っ!」
思わず息を呑んで立ち尽くした私を、既に部屋に入ってきた時点から気がついていた風に、響がジ…ッと見据えていた。
「…掃除以外で勝手に人の部屋に入るのはどうかと思うけど?」
「え、ここ…、響さんの?でも…」
「誰の部屋とも言われなかった…?だろうね、俺の物なんてこの家の中には何もないから」
その一言で、ここがもともとは響のために…と作られた部屋だったのに、紀之が生まれて以来、そんな事を認める人間がこの家の中には誰一人居ないのだ…という事を実感させられた。
どうしよう…と思った。
こんな場合、この場を立ち去った方が良い、そして二度とここへこない方が良い…そう、頭の中では分かっていた。
けれど、それだけ言って、フイ…と広げていた本に視線を落とした響の横顔が…。
今まで一度として見た事のない、どこか陰りのある寂しさを滲ませていた。
いつもの、ただ貼り付けているだけの笑みとも違う、あの、怖気立つほどの冷たさを滲ませた薄笑いとも違う…何の作り物の表情も貼り付けていない、何もない…素の、表情…。
そう思ったら、勝手に身体が動いていた。
何一つ、その口から自分の物だと言わなかった男…そんな男が、初めて自分の物だ…と認めるに近い言葉を吐いた。
それは、この場所が響の中で特別な場所だという事を示唆している。
掃除以外で人が来る事もないこの部屋が、唯一、素になれる、一人きりになれる、そんな場所…だから?
「…お邪魔します」
そう言って、出窓の縁に腰掛けていた響の窓下の壁に背を預けて座り込み、本を広げた。
「っ!?おい…」
「お邪魔だったら、そう言って?私もここで本が読みたいだけだから」
一瞬だけ見上げた響の顔には、初めて見る困惑の表情があった。
読んでいた本は”遺伝子病と最新治療”とかいう小難しそうな専門書。
相変わらずよく分からない趣味…と思いながらも、自分の本にすぐに視線を落として、興味のない風を装った。
案の定、響は何も言わなかった。
自ら出て行くこともしなかった。
決して受け入れられたわけではなく、ただ、響自身が自分でここは自分だけの場所だと…そう認めてしまうことを恐れたのだろう…と思った。
なんとなく、その手に何かを得ることを恐れているような…そんな気がしてならなかった。
それから時々、その部屋で響と一緒に過ごすようになった。
一緒に過ごす…本当に、ただその言葉どおり、一定の距離を保って互いに干渉する事もなく、黙って好きな本を読む…。
ただそれだけの事…けれど、私はその時間が好きだった。
恐らくは、紀之も、他の誰も知らない…響の無表情ともいえる、何の感情も貼り付けていない、素顔。
何を考えているか分からない、まるで何かを演じているかのような響ではない、本当に何も考えていない響が居る事を確認すると、妙に安心した。
どう言えば良いのか分からないけれど、無理をしていない…そんな風に感じてホッとしたのだ。
お互いにお互いの存在を認知しない…それはいつの間にかこの部屋で過ごす時の暗黙の了解…のようになって行った。
そのうちに慣れて来たのだろう…響は天気が良く暖かな日には、窓辺にもたれて居眠りすらするようになった。
そこで眠っている時の響は、本当に無防備で安心しきっているように見えた。
だから、響が眠った事に気がつくと、私はソッとその部屋から出て行った。
そんな無防備な姿を晒す事を、きっと響は望んでいないだろう…と思ったし、紀之にさえ見せないだろうそんな姿を、紀之の居ない所で一人で見る事に、抵抗があったから。
そして、もう一つ。
響に対して芽生えつつあった、女としての部分を戒めるために。
いつだったか、私が一人で本を読みながらうたた寝してしまっていた時、目覚めると響が窓辺に寄りかかって眠っていて…私の身体の上には響が着ていたらしきジャケットがかけられていた。
一瞬、夢を見ているのかとさえ思った。
響は誰か他人が自分の行動を見ている時は、望まれるままに優しさを見せつけていたけれど、それは望んでやっていることではなかった。
だから、誰に望まれるわけでもない…こんな風な優しさを示す事が信じられなかったのだ。
誰も見ていないというのに。
互いに存在を認識しないはずなのに。
どうして?と、悲しい気持ちになった。
どうして、本当の自分を偽るのか?と。
どうして、その優しさを隠すのか?と。
それともこれも、響の企む破滅のためのただの所為にすぎないのか?と。
『君が一番の致命傷になるんだよ』
そう言った響の言葉を、私は一度として忘れた事はなかった。
なぜなのかは分からなかったけれど、響のその言葉を聞いたとき、この人は一体何を壊したいのだろう?と怖れを感じたのだ。
幼馴染みで子供だった関係から男と女の関係になっても、それでも私達の中にあった、”等しく仲間”という関係性は消えることなく存在し続けていた。
どんなに歪み切り、捻れていたとしても、響は紀之を愛し、紀之は響を愛していた。
そんな二人の心の奥底に秘めた秘密を知りつつ、それでもそんな二人を私も愛していた。
いつか、響はこの危うい関係性の元に成り立った均衡を破り、粉々に壊してしまいたいのだ…と、その事に気が付いたのはいつだったろうか。
なぜなら、その関係を創り上げたのは、響自身だったから。
一番最初に、女と男としての自覚を芽生えさせたのも、響だったから。
何も得る事を望まない男…そんな男が自らそんな物を創り上げた理由…それは、壊すため。
それ以外、何があるというのだろう?
そんなある日、あの部屋に行ってみると部屋の中がめちゃくちゃに荒らされ、足の踏み場もないほどに本が散乱していた。
屋敷の中の一番奥まった部屋だったせいもあったのだろう、その事に誰も気が付いていないようだった。
一瞬、どろぼう!?と思って誰かに知らせなければ…!ときびすを返そうとして、気が付いた。
あの窓辺の下、散乱した本に埋もれるようにしてうずくまっている、人影に。
すぐに響だと分かった。
この部屋をこんな風にめちゃくちゃにしたのも…。
何があったんだろう?と思った。
ここは響にとっては特別な場所だったはずなのに。
その場所を、こんな風にしなければならないほどの…一体何が?と。
他の人に見せるわけにはいかないと、とっさに思った。
一瞬、響が泣いている様な…そんな気がしたから。
思わず後手にドアを閉めてしまってから、外に出れば良かったのに…と、後悔したがもう後の祭りだった。
その気配に気づいたらしき響が、顔を伏せたまま私を呼んだのだ。
「…佐保子」
今まで一度として聞いた事のない、震えた心細そうな声音で。
今でも私は、あの時の響の言った言葉の意味を図りかねている。
あの時、呼ばれた名前に引き寄せられるように響に近付いた私は、名前を呼んだくせにうずくまったまま顔を上げる事もせず、ただジッとしている響の身体に腕を回して抱きしめてしまっていた。
どうしてなのか、そんな事考える間もなかった。
ただ、打ちひしがれているようにしか見えないのに、それでもなお自らは決してその手を伸ばそうとしない…その頑な態度が、あまりに痛々しかったのだ。
「…なんの冗談だ」
「…ふざけるな」
「…死んで堪るか」
抱きこんだ腕の中で身体を強張らせたまま、響は何度もそんな言葉を呟いていた。
私はその言葉をただ聞き流していた。
それは誰かに聞かせるためではなく、響が自分自身に言い聞かせているような…そんな言葉だったから。
「…春の女神」
不意に聞こえたその言葉と共に腕を取られ、次の瞬間抱き込んでいたはずのその身体に抱きしめられていた。
不思議と、怯えも怖さも感じなかった。
ただ、何か縋る物が欲しいだけ…そんな気がしたから。
だから抗うことなく、抱きしめてくる腕に身を委ねていた。
春の女神…そう響が言ったとおり、少しでも響の冷え切った心と身体に温もりが届けば良い…そう思いながら。
どれくらい、そうしていただろうか。
「…やっぱり、いい女になったな」
不意にそう言って、一瞬だけ痛いほど抱きしめ、唐突にその腕を解いたかと思うと、響は振り返りもせずに出て行った。
一度も、私にその表情を見せることなく。
言い聞かせるように呟いていた言葉と、最後に言った言葉…。
それには、どんな意味が含まれていたのだろう?
その時も。
そして、今になってさえ。
私には、その真意が図れない。
その事があってから、響はその部屋に来なくなった。
それだけではない。
急に素行が悪くなり、家にもあまり寄り付かず性質の悪い連中と警察沙汰まで起こすようになっていった。
村田の親族はここぞとばかりに響を非難し、血の繋がりがないことを暗に示してあげつらい、遂には縁を切って、その存在自体を村田の家の中から消し去ってしまった。
けれど、当の響はそんな事など気にかける風でなく、ふらり…と戻ってきては恐らくは何か弱みを握っているのだろう、親族連中にまで金を無心するようになった。
響のそんな態度から、どうにかして自分に関心を引かせたかったのだろう…紀之は周囲の反対を押し切って私を正妻の座に迎えた。
それは、響と紀之と私の微妙な三角関係を綻ばせるに十分な出来事…のはずだった。
だが、響はまるでその事に触れる事を避けるように、プッツリと姿を消してしまった。
どうして?と思わずにはいられなかった。
あの、部屋をめちゃくちゃにした日、響に何があったのだろう?
あの時まで、確かに響は創り上げた物を壊す機会を伺っていたはずなのに。
それとも、あれは単なる私の思い込みに過ぎなかったというのだろうか?
その後、長女である沙耶が産まれても、響は全くと言って良いほど関心を示さず、不意に、ふらり…と現れては消える、そんな事を繰り返してばかりだった。
紀之は、見ているのさえ辛いほど憔悴し覇気を失っていた。
そうなってしまう気持ちは、私にも痛いほどよく分かった。
そんな紀之の姿を見ているのは辛かった。
あの時ほど、自分の存在の無意味さを思い知った時はない。
私には何もしてやれない。
紀之を慰める事も。
響を繋ぎ止める事も。
あの部屋で響と共に過ごした時間。
紀之と共に響と三人で過ごした時間。
二度とは戻らないあの頃に…とまではいわない。
ただ、響が完全に私たちの前から消え去ってしまう事のない様に、そうするためにはどうすればいいのか?
必死で響をこの家に、紀之に、自分に、繋ぎとめるための方法を考えていた。
そんな時だった。
ふらり…と戻ってきた響はケガをしていて、そのケガの療養のために一ヶ月ほど紀之の離れ茶室に留まった。
甲斐甲斐しく響の世話を焼く紀之と、ケガのせいもあるのだろう…大人しくそこに留まる響の様子を見るにつけ、疎外感に襲われた。
そこに私が入り込む余地はなかった。
響は私を視界に入れても、以前のように見てはくれなかった。
ただそこにある風景を見ているだけの、そんな眼差しでしか見なかったのだ。
けれど、意外な事にそれを感じていたのは私だけではなかった。
あれほど甲斐甲斐しく世話を焼いていた紀之にさえ、響は私と同じ眼差ししか向けていない…というのだ。
わけが分からなかった。
私に対して…ならまだしも、あの紀之にさえ…?
その時に直感した。
響は、決別するためにここへ戻ってきたのだ…と。
そしてそれは、紀之も感じ取っていたようで。
響のケガが完治するにつれ、紀之の焦りは大きくなっていった。
このままケガが完治し、響が出ていってしまったら…。
おそらく、もう二度とこの家には戻ってはこない。
そんな、確信に満ちた予感。
引き止めた所で留まる響ではない。
何一つ持たず、何一つ望まない…そんな男を引きとめる術など、皆無だった。
紀之は響を欲しがっていた。
どんなに望んでも決して手に入れられない…。
分かっているからこそ、心からそれを望んでいた。
その時、私はようやく響の真意と紀之の望み、そして、女としてここに居る事を許された…その意味に気が付いた。
響は決して、自ら望みを告げる事はしない。
紀之はそんな響のために響が欲しがる物を察して望み、手に入れる。
そして私が望む物は、二人を繋ぎ止めておくだけの、絆。
本当なら、決して望んではいけないものだった。
けれど、望まずにはいられない、そんなものだった。
ただ、自信がなかった。
本当にそれを、響も望んでいるのかどうか…が。
だから、賭けてみる事にした。
響のケガが完治した日、ちょうどその次の晩は月蝕の夜だった。
完治祝い…と称して響を見舞った私は、母から聞いた最後の言葉と、人の犯した罪を代わって受ける…という月蝕の話を響に振った。
その時だった。
それまでただの風景としてしか私を映していなかった響の瞳に、以前と同じ酷薄な輝きが戻り…私の存在を射抜くように捕らえたのは。
一番最初に私を女として扱った時と同じ、見つけた獲物を決して逃さない、カエルを捕らえたヘビのような眼差しで…。
その日の内に、響は離れ茶室から姿を消した。
けれど、私には分かっていた。
次の日の月蝕の日時、響は戻ってくるだろう…と。
だから私は待っていた。
響と共に過ごしたあの部屋のあの窓辺で。
次第に欠けて行く満月を見つめながら。
『月食は人の犯した罪悪を代わって受けてくれる。だから、私は一番重い罪を犯しに来ました』
その言葉を響に告げるために。
毒そのものだった男。
その毒を持って、全てを思うがままに翻弄した男。
毒だとわかっていても、魅入られ、惹き付けられる厄介な男。
反面。
渇ききった砂の様に掴み所のなかった男。
何一つ持たず、何も望まず、何にも染まらず無色だった男。
そんな男が、たった一つ、望んだもの。
その本当の望みを知るのは、ずい分先の事だったけれど。
それでも私は何一つ後悔などしていない。
自らが望まなければ、決して得られない…響が残した物は全てそんな望みでもあったから。
今はただ、暖かな春に生まれ落ちる新しい命の誕生を、紀之と、紀之の瞳の中にいる響と共に、待ちわびている。
全てを明るく照らす、柔らかく暖かな太陽の輝きを。
=おわり=
読んだよ、という足跡代わりに押してくださると嬉しいです。