雨夜の月
夕方になって、急に雲行きが怪しくなってきた
ようやく秋らしい風が吹き始め、その風に、去り行く夏を肌で知る
不意に吹きぬけた風が、夏の余韻を残した風鈴の音を誘う
心もとなく鳴った澄んだ音色に、村田 紀之(むらたのりゆき)が、縁側の襖の柱に寄りかかって眠っていたかに見えた顔を上げた
「・・・・・ああ、もう片づけなあかんな」
心ここに在らず・・・といった虚ろな瞳で風鈴を見上げ、呟いたまま微動だにせず、視線だけを空に向ける
茜色、臙脂色、朱鷺色、紅梅色・・・・
様々に色合いを変化させつつ空一面を覆っていた夕焼けが、湧き上がってきた闇色の雲に、その色を蝕まれていく
虚飾に彩られた華やかさが、ゆっくりと失われ・・・再び音色を誘った風が、肌寒ささえ覚える物に変わった
「・・・・・・秋は人肌が恋しい・・・というけれど、あの人もそう思うんやろうか・・・?」
”あの人”と呟いた時、紀之の眉間に知らずシワが寄っていたことに、本人は気がついているのだろうか
ふと肌に感じた、まとわりつくような湿気
ようやくと腰を上げた紀之が、軒先に吊るされていた風鈴に手を伸ばす
「紀之坊ちゃん、そろそろお支度は整のうてはります・・・?」
よく磨きこまれた板張りの縁側を、シュシュ・・・と衣擦れの音と共に小走りで歩いてきた、ふくよかな体つきに温和な笑みを湛えた和服姿の老女が、紀之の姿を捕らえた途端、キリリと眉を吊り上げた
「まあ、まあ、まだそんな格好なままで・・・!ほんまに困ったお人・・!」
「相変わらずせわしないなぁ・・絹江さんは。今夜は雨になるよって「観月の茶会」は中止やろ?」
「雨・・・!?」
慌てたように絹江と呼ばれた老女が、縁側から見える空を見上げる
つい先ほどまで鮮やかな色合いを誇っていた空は、既に鼠色へとその色を変えていた
「・・・・・まあ、ほんまに!最近の天気予報も当てになりしません!ほな、確認とってきますよって」
そう言った絹江が、踵を返して戻っていった
その後姿を見送った紀之が、手にした風鈴を「チリン・・・」と鳴らす
「・・・・夏も終いの「雨夜の月」か・・・星も見ぃへん「雨夜の星」でもあるんやな」
呟いた紀之が、濃淡の色合いを濃くした濃鼠色の空を、虚ろな眼差しで見上げていた
・・・・カタン
裏木戸を開けた紀之が、小脇にススキと三角に盛られた月見団子を持って、バサッと傘を広げる
「・・・まあ、坊ちゃん!?そんな物持ってどちらへ行かはるんどすか?」
不意に掛けられた声に、紀之が振り返る
「ああ、絹江さん・・ちょっと離れの茶室で「雨夜の月」観月を・・・」
「お一人で?そりゃ、奥様もお嬢様と赤ん坊とお里帰りで居てはりまへんけど・・・」
「せやから「雨夜の月」観月や、言うてるのに・・!」
「・・・ああ!」
ようやくと意味を理解したらしき絹江が、ポンッと手を打つ
「雨夜の月」とは、雨で見えない名月の事を言うが、もう一つ
恋人の姿を想像するだけで実際には見られない事も、例えて言うのだ
「ほんまに仲が良ろしおすな。雨で滑りますよって、足元にはあんじょう気ぃつけて」
はいはい・・とばかりに絹江に会釈を返した紀之が後手に木戸を閉め、危なげない足取りで薄暗くぬかるんだ飛び石を進んでいく
茶室の軒先で傘をたたみ、茶室独特の狭い戸口を開け、スルリ・・・と滑らかに膝を動かし、中へと入り込む
村田の家は寂び茶の祖・村田珠光の流れを汲む、茶道の名門
紀之は家元である「宗和(そうわ)」の名を継ぐ後継者として、育てられてきた
この離れの茶室は普通の茶室とは違い、紀之の希望で部屋全体を大きく取り、大きく取った格子窓もある
炉があり、茶室としての機能を供えてはいるが、どちらかといえば”離れ”といった趣が強かった
そう、”茶室”と称した実質は紀之の離れ部屋・・・
大きく取ってある格子窓の障子から、庭にある灯篭の明かりが射し込んでいて、室内は思ったより視野が効く
戸口から入った紀之が軽く髪に掛かった雨露を払うように顔を上げた途端
ギクリ・・ッと、その動きを止めた
格子窓に寄り掛かるようにうずくまった黒い人影が、紀之を見つめていた
「・・・・・よう」
低く響く声音
薄闇の中で爛々と輝く双眸
その声と、その夜行性の獣のように底光りする双眸に、紀之の喉がヒクリッと震えた
「っ、に・・いさん・・・!生きて・・・!?」
「・・・ご希望に添えなくて残念だったな」
紀之が”にいさん”と呼んだこの男
実際は、紀之とは腹違いの兄に当たる
京都でもその名を知らぬ者が居ないほどの旧家であり、資産家でもある村田の家の中にあっては、妾や愛人・・といった存在は黙認されたも同然の存在
故に芸者や舞妓、ホステスに至るまで、様々な女達が村田の複雑な後継者争いに絡んできた
後継者筆頭は、当然正妻の子供にあるが、その子の出来不出来、家元の意志によってその不文律は何度となく覆されている
紀之は正妻の子であり、後継者筆頭としての類稀な才能も持ち合わせていた
だが、兄であるこの男もまた、小さい頃は神童と呼ばれるほどに”茶人”としての才能を発揮していた
例えるなら、兄は早世の天才型、紀之は大器晩成の努力型
そして愛人の芸子の子であった兄は、やはりその才能を妬まれ、天才であったが故にそこに執着心も見出せず・・・
お定まりのように、ある日突然、村田の家から姿を消した
数年後、不意に姿を現した時には、なにやら胡散臭げな商売と関わっていて・・・銃で撃たれたらしき傷の療養の間や、金をせびりに、ふらりと村田の家に戻ってくるようになっていた
今、紀之の前に姿を見せたように、本当にふらりと、何の前触れもなく
前回姿を見せた時、
戦争真っ只中の地域に行くと言って、姿を消していた
そんな経緯と、前回姿を消す前に起こった出来事・・・それが紀之の兄を見た時の反応の元凶だった
そんな紀之の心情を代わって表しているかのように・・・
降りしきる雨音は、止む気配を見せない
息をすることも忘れたかのような張り詰めた空気に、雨音が重さを加えていく
不意に動いた黒影の男の腕が、カンッと格子の障子窓を開け放ち、その向こうにあったガラス窓をも開け放つ
動く・・・という概念すら喪失した紀之が、微動だにせず見つめる中、男が開け放った窓枠に腰を下ろし、この季節にはまだ早いだろうと思われるコートのポケットから、タバコを取り出し火をつけた
「・・・・灰皿ぐらい置いとけよ。気のきかねー奴だな」
フーーーッと紫煙を吐き出した灯篭の明かり越しの横顔には、薄暗さの中でもその際立って整った容貌と、人というより獣に近い鋭い眼光が見て取れる
「・・・なにを・・・しに戻って・・・!?」
開け放たれた窓のせいで、一層大きくなった雨音と濃密さを増した雨の匂いに、ようやく五感を取り戻した紀之が掠れた声を絞り出す
「・・・・あの女、孕んだんだってな」
『ガタンッ』
紀之が思わず畳についていた片膝を立てた途端、前に置いていたススキ入りの花瓶が転がった
「・・・お前のその面が見たくてな」
紀之の問いに、男が壮絶な薄笑いを浮かべて答えを返す
「どうして・・・っ」
「・・・「雨夜の月」か。茶を立てに来たんだろう?入れろよ、飲んでやるから」
紀之の問いを無視した男が、先ほどの薄笑いから一転、見惚れるような笑みを浮かべる
「っ、答えてください!どうして・・・どうしてあないな事を・・・!?」
「・・・茶を立てろよ。飲んだら答えてやる」
「答える方が先や!!」
血が滲むほど唇を噛み締め、紀之が男を見据えている
「・・・俺は、お前が茶を立てるのを見るのが好きなんだ。お前が立てた茶しか俺は飲まない」
紀之の言葉もその態度も、まるっきり目に入っていない風に、男が笑みを崩すこともなく底光りする獣の瞳で、紀之を捕らえたまま離さない
その笑みも、自分を捕らえるその瞳も
紀之以外に注がれる事のないもの・・・それを嫌というほど知る紀之には、抗う術がない
「・・・・・くっ」
低く呻いた紀之が、風炉に火を入れ、湯を沸かし、澱みなく茶を立てる準備を整えていく
釜の湯がシュンシュンと松風の音と呼ばれる湯音を響かせる
その湯相を見計らった紀之が、まるで舞いでも舞っているかのように、流れるような動きで湯を汲み、茶を立てていく
響く雨音が、完璧に外の世界から、その部屋を切り離していく
その雨音さえ忘れ去るほど、一つとして無駄のない動き
全てが計算しつくされ、一部の隙もなく構成された、完璧な舞
見るものの視線を釘付けにし、その流れるような優美な動きで時を忘れさせる
それが紀之の立てる”茶”だ
月見団子を一つ、銘々皿に乗せ、男の足元に差し出す
その前に座し直した男が一口で団子を頬張り、続いて差し出された茶を喉を鳴らして一息に飲み干した
「答えてください・・・!」
男が茶碗を置くと同時に、紀之が言い募る
「・・・お前の望みを叶えてやっただけだ」
「!?」
思わぬ男の答えに、紀之が目を見開く
「・・・なにを・・・言って・・・!?」
「・・・あの女は勘付いていたぞ?お前の望みに。だから俺に抱かれた」
「な・・・っ」
「お前が見る”雨夜の月”とは、誰の事だ?」
薄笑いを浮かべた男が、紀之の顎に手を掛けてその顔を上向かせる
「お前には、あの女も、俺も、責める資格などない・・・産ませたんだからな、俺の子と分かっていながら」
男の指先が紀之の形の良い唇の輪郭をなぞるように、ゆっくりと動く
途端に紀之の体に震えが走り、目の前にある男の薄笑いと鋭い双眸から逃れることが出来ない
「俺はお前の望みをかなえてやった。だからお前には俺の望みを叶えてもらう」
「の・・ぞみ?」
「そうだ。俺の望みは憎まれること。寝ても覚めても消えることのない憎悪に満ちた心。お前はそれを俺に抱き続けろ。それが俺の望みだ」
「な・・・んで!?」
驚愕の表情を浮かべた紀之に顔を寄せ、男が触れ合うかどうか・・・という微妙な距離を保ったまま、唇を寄せて囁く
「愛情など一時の感情に過ぎん。だが憎悪は消えることなく蓄積されて、俺が死んでもその感情が消え去ることはない。憎む者の存在がある限り、俺は死なない。だから、俺はお前に何も与えない・・なにも許さない。お前は一生俺に囚われたまま生きろ」
言い放った男が、紀之の身体を突き放す
「・・・また来るぞ、お前の立てる”茶”を飲みにな」
ゾッとするほど壮絶な薄笑いを残し、男が格子窓から降りしきる雨の中へ降り立って、振り返ることもなくその姿を闇の中へ溶かし込む
『ガシャンッ』
一人残された紀之が、男の飲み干した茶碗を壁に叩きつけて男の消えた闇を見据える
触れ合いそうで決して触れ合わなかった唇を噛み締めて、畳の上に突っ伏して、慟哭する
紀之が望んだもの・・・
兄の持つ”茶人”としての才能を模倣し、自分の物にすること
兄が自分よりも関心を持っていた”茶”を、兄から奪い去ること
そして
兄の出自と同じ芸者の女を愛し、正妻に向かえ、その子を欲したこと
だがそれは兄にも、妻にも見透かされた
その報いとしての、妻の裏切り
そしてその事を知った時に芽生えた、2人に見透かされていて自分で気がついていなかった・・・願望
決して手に入らないはずの兄の遺伝子を継ぐ子供・・・
束縛することも、触れることも叶わない兄と同じ物を持つ者を、自分の手中に出来る・・・その願望
それこそが、本当に望んでいた、自分の望み
見えない恋人を思う「雨夜の月」
めったに会えない人を思う「雨夜の星」
降り注ぐ雨と止まぬ雨音が、その奥に潜む願望を、覆い隠す
そして唯一許されたもの・・・・・・
束縛されることも、触れることも、茶人としての才能を超えることも、決して許さない兄に対する、歪んだ憎悪
兄がそれを望むなら
憎み続けることで兄が生きられるのなら
これ以上の喜びなど、紀之にはあるはずもなかった
お気に召しましたら、パチッとお願い致します。