始発恋愛〜バレンタインSS〜
Bitter & Sweet
「……へ…ぇ、凄い、見事な手さばき…!」
思わず感嘆の言葉が洩れた。
目の前にあるのは、ガラス壁で区切られた小さな厨房。
僕が勤める百貨店の中に入っているテナントの一つである、洋菓子とチョコの専門店の厨房だ。
季節は2月。
世間様は俗に言うバレンタイン・・なんていうイベントで盛り上がっている真っ最中な上、明日がバレンタイン本番!という事もあって、大賑わいだ。
このチョコの専門店は、僕が居るパン屋のテナント店の斜め向かいにあって、毎日目にするし前を通っている場所だった。
でも、これまでは思い切り素通りで…特に気にする事も立ち止まった事もなかった場所…。
だけど、今年は…。
「……浩介の奴、チョコ好きだったよなぁ」
そんな独り言を呟きつつ、視線はガラス張りの厨房の中に釘付けだ。
バレンタインなんて関係ない…と思っていたけど、チョコ好きの浩介が喜びそうだよな…なんて思ってしまったのが運の付き。
いつの間にやら厨房の前で足が止まり、そこから動けないでいる。
厨房の中、大理石張りの台の上で溶かされたチョコが鮮やかな手さばきで型に流し込まれ、テンパリングされていく。
三分の一量ほど張られたチョコが固まると、今度は違う種類のチョコが流し込まれ、最後にもう一種類…。
合計三層になって固まったチョコが、次の瞬間パンッ!とばかりに型を返されて、見事に同じ量で三層になったツヤツヤのチョコが現れる。
僕も仕事でこの時期はチョコを多用するから、チョコの扱いの難しさは心得ている。
ほんの僅かな混入物、僅かな温度差…そんな物でこの、チョコ本来のツヤというものが見事になくなってしまう。
一見無造作にやっているようにしか見えない、このテンパリング作業が如何に神経を使い、如何に技術を要するものなのか…感嘆の吐息が漏れるのも仕方ないだろうと思う。
だいたい、パン屋は菓子屋に向かない・・・と言われる事が多い。
それは、パン屋の作業全般が洋菓子などの細かく気を使う作業とは違って大雑把…なところが多い、という一点に集約される。
洋菓子店がパンも作って好評を得る…というのは聞いても、パン屋が洋菓子を作って評判になる…というのはあまり聞かない。
繊細で気の使う作業の多い洋菓子は、パン一辺倒だった者からすると、ここまで気を使うのか!?と、その細かな作業に目を見張ってしまうほどの物なのだ。
「しっかし、ホントに無造作にやってんな、この人。しかもまだ若そう…?」
再び洩れたそんな独り言と供に、視線をチョコから作業している真っ白な厨房服の男に向けた。
熟練した手さばきなのに、その横顔はまだ若々しい。
僕よりは年上なのは明白だけど、でも…まだ30前後?のように見えた。
だいたい百貨店なんかでこういうガラス張りで客から丸見え…という場所で作業する人間っていうのは、見目が良い…っていうのが暗黙の必須条件だったりする。
特に洋菓子やチョコなんて、客の大半が女性客だ。
イメージが一番重要視されるだけに、その男も浩介張りにイケメンで、落ち着いた大人な雰囲気のある男前だった。
浩介もこんな場所に立って、この真っ白な厨房服に山高帽なんか被ったら、きっともの凄く見栄えがしてかっこいいんだろうなぁ…なんて事を考えつつその男の顔を見つめていたら、不意に視線をばっちりと合わせられ、にこやかに笑いかけられた。
その、笑顔がまた…!
ちょっと大人な雰囲気で、なんだか包み込まれるような…そんな包容力のある温かな笑顔で…!
思わず一瞬、見惚れてしまった。
でも、次の瞬間ハッと我に返った僕は、不躾に見つめてしまっていたことに気がついて、真っ赤になって慌てて視線を反らし、逃げるようにしてその場を去った。
バックヤードに駆け込んで、ロッカールームで作業服から私服へ着替えながら、さっきの人が作ったチョコなら、きっと美味しいだろうなぁ…と思って、浩介のためにあの店でチョコを買ってやったら喜ぶかな?なんてことを考えていた。
「ただいまー」
いつものように玄関ドアを開けると、
「遠矢さん!おかえりなさい!」
と、今にも振ってる尻尾が見えそうな勢いで、僕より大きな大型犬(と、最近思うようになってきた)の浩介が駆け寄ってきて抱きついてくる。
「ちょ、お前、ホントにいい加減その抱きつきクセ直せ!」
「やだ。だって、帰ってきた時の遠矢さんが一番良い匂いがするんだもん」
そう言って、俺のうなじ辺りに顔を埋めて深呼吸なんてする。
コイツは僕の身体に染み付いたパンの匂いが一番好き…らしいのだ。
でも、僕から言わせれば、浩介の付けてる微かな香水の方がよっぽど良い匂いで…。
こうして抱きつかれるのが本当は嫌じゃない…のは、僕も家に帰って一番最初に浩介のこの匂いに包まれたいから…なんて思っているだなんてことは絶対に秘密だ。
でも…!
「っ!わ、ばか!よせ、やめ…!」
うなじ辺りに寄せられた浩介の唇が、自然とそのまま耳朶に触れ、首筋から頬の方へと上がって来て…当たり前のように唇を塞がれる。
僕より大きなその胸の中に、しっかりと抱き寄せられているせいで逃げ出すことも叶わずに、つい、その流れのままにキスを受け入れてしまう。
それは凄く気持ちが良くて、決して嫌じゃない…むしろ、気持ちが良すぎて困るくらい。
だけど。
だけど、僕の方が浩介より年上なのに、なんだかいつもこんな風に浩介のペースに流されて、浩介の思い通りに…浩介にのめり込んで入っている自分が、居て。
時々、それが無性に悔しくて、堪らなくなる時がある。
浩介は今、大学の3回生で、僕と出会うきっかけになった、叔父が経営しているというホストのバイトを今でも辞めずに続けている。
バイトをする理由だった大型バイクの代金分はとっくに稼ぎ終わっているし、僕に会う為だったという理由は一緒に住んでいるんだからもう関係ないはずなのに、なぜ?と思ったけど、よく考えたら今一緒に住んでるこのマンションの家賃は結構良い値段で、折半しているその値段は、僕が以前一人暮らしのときに払っていた金額とそう変わらない。
まだ大学生で職に就いているわけでもない浩介が、その金額を捻出するためには、バイトをせざる得ないのだ。
昼間は学生している浩介にとって、深夜から明け方にかけてのバイトは効率よく稼げる良いバイト先…のようだった。
おまけに僕を職場まで送っていくことを日課にしている浩介は、僕が起きる時間までに必ず帰ってきて、バイクの後に乗せて送ってくれる。
それが最初の口約束…だったとはいえ、電車だってあるんだから無理するな…と言って止めさせようとしたけど、浩介は電車の中で居眠りする僕を心配して、絶対にバイクの後の指定席から降ろそうとはしない。
今ではそれが当たり前になって、もう、言い出す気にもならないけれど…最近、そのホストのバイトを辞めて欲しいと思うようになってきていた。
送ってもらうときに密着する浩介の身体から香る…浩介のものじゃない、違う香水の香り。
それが客のものなんだって言う事は、言われなくたって分かる。
その度に、なんだか胸が苦しくなってしまうのだ。
自分以外の誰かが、こんな風に香りが移ってしまうほど浩介の近くに居た…その事実が。
今、こんな風に浩介自身の香水の匂いしかしない…その胸の中に居る時でさえ、その時の胸の痛みが甦ってきて、居たたまれなくなってくる。
だから。
「…っ、止めろって言ってるだろ!」
思わずキツイ口調で浩介の胸を押し返し、今にも身体が反応しかけそうになるほど気持ちの良いキスを、無理やり解く。
「ちぇ、遠矢さんのケチ」
そんな風に言って、浩介がその年に似合わない大人びた雰囲気とはかけ離れた、幼げな口調の言葉を吐く。
さっきの『だもん』口調もそう。
見た目とは違うギャップのあるモノ言いと、子犬のように甘えてくる態度…。
その、甘えてくれてる…という感覚は見た目が全然幼い容姿である僕からすると、もの凄く嬉しい感覚で。
だから余計に、自分以外に甘えたりだとか、笑いかけたりだとか…そんな浩介を想像するだけで、嫉妬というどうしようもない感情が湧き上がって来る。
……どうするんだよ、自分より年下に、こんなに惚れて!
いつか、浩介が僕に飽きたら…?
僕は、年上らしく大人として対処できるのか?
みっともない自分を曝さずに済むのか?
そんな思考になるのを止める事ができないでいる。
居たたまれなくて、浩介から逃げるように自分の部屋に入った途端、その僕の後を追いかけてきていたらしき浩介に、背後から覆い被さられるようにしてベッドの上に押し倒された。
「っ!?なに…!?」
「…今日、どっか寄った?」
うつ伏せ状態で押し倒されて、首を無理やり捻じ曲げて背中越しにギュッと抱きしめてくる浩介に聞くと、どこか不安げな…でも何かを期待した顔つきでそう聞いてきた。
「…え、どっか…って?」
「…遠矢さん、いつもと違う匂いがする。パンじゃない、チョコの匂い…」
「え…あ……っ!」
思い当たる事のあった僕がハッとした様に上げた声に、浩介が少し目を眇めて僕の目を覗き込んでくる。
「どこ、寄ってたの?」
「ば…っ、寄ってないよ!今バレンタインフェアーでチョコ系のパン作ってるから…!そのせいだろ!」
「…違う、ここ最近のその匂いじゃない」
「え?」
「…遠矢さん、チョコ買った?」
「っ、か、買ってない!」
「…じゃ、寄っただけ?」
「寄ってないってば!」
「…うそつき」
「な…っ、うそなんかじゃ…っ!?」
言い募ろうとした途端、腰辺りにあった浩介の手がゆっくりと胸元に這い上がってきて、シャツ越しに胸の突起を探り当てられた。
「ちょ、こぉす…け、やめ…っ」
「…俺にチョコ買ってやろうかな…?とか思った?」
なんだってコイツはいつも僕の行動を見透かすしてくるんだか!そう思って、絶対に認めてなんてやらないぞ!と思って言い返そうとするのに!
「思ってな…っ、んっ!」
突起を探り当てた浩介の指先がギュッとシャツ越しにそこを摘み上げてくる。
「や…っ、浩介、やめ…ろ!」
必死に身をよじって逃げようとするも、背後から覆い被さるようにして全体重で圧し掛かられているせいで、ビクともしない。
「やめて欲しかったら、ホントのこと言って…?」
うなじを這っていた浩介の唇が耳朶に触れ、そんな言葉を直に熱い吐息と供に囁きかける。
このままいつものパターンで浩介に流されて行為に至ってしまったら、それこそ浩介の思うつぼで。
買ってやろう…とか喜ぶだろうな…とか思ったことを白状させられてしまう…!
そうなる事を否定できなくて、浩介もまたそんな僕を見透かしている…!そう思うと、なんだか無性に腹が立ってきた。
「浩介っ!」
僕は押し倒されたまま、思い切り声を張り上げて、拒絶の色合いを滲ませてその名を呼んだ。
その僕の声音に怯んだように、一瞬、突起を弄っていた浩介の指先の動きが止まる。
「遠矢さ…」
「何がホントの事だよ!そんな風に言うんなら、明日はバイクで送らなくって良いよ!」
「え!?」
「久々に始発で行く!居眠りされるのが嫌だったらそこどけ!今日はもう寝るんだから!」
「まって遠矢さん、俺、そんなつもりじゃ…」
「うるさい!もう決めたんだ!そこどけってば!!」
叫んで、覆い被さっていた浩介を弾き飛ばす勢いで起き上がった。
「それに…チョコ関連のパンってさ、神経使うこと多くて大変なんだ。お前もたまには気ぃ使えよ」
背中を向けたまま、そんな言葉を吐いていた。
本当は、そんな事ない。
浩介はいつだって、年下のクセに凄く気使いする奴で…僕が本当に疲れてる時は、抱きついてくるだけでそれ以上の行為を仕掛けてこようとはしない。
だからこそ、ホストなんてバイトが出来てるんだって、分かってた。
でも、だからこそ、悔しい。
いつだって浩介はどこか余裕があって、僕ばかりがそんな浩介に一方的にのめり込んでいってるみたいで、堪らない。
「……遠矢さんが、そう、言うなら」
今まで聞いた事がない、もの凄く心細そうな声だった。
思わず振り返ってしまいそうになった衝動を押し殺して、嫌で嫌で堪らない自分を、これ以上浩介に見られたくなくて、言いたくもない言葉が口をついて出ていた。
「…疲れてんだ、今日はもう寝るから、さっさと出てけ!」
「…うん、ごめん…なさい」
今にも泣き出してしまいそうな…そんな浩介の声音を残してドアが閉められる。
そのドアが閉まる音と供に耐え切れずに振り返って、『浩介!』と呼びかけそうになったその言葉を呑み込んで唇を噛み締めた。
なんで、こんなに僕は大人じゃないんだろう?
なんで、浩介に、あんな…心細そうな声を出させてる?
なんで…!
自分の不甲斐なさに、情けなさに…泣きたくなってくる。
その時にふと浮かんだのは…あの、厨房の中から向けられた包み込むような笑顔。
僕は、あんな笑顔を浩介に向けたことがあっただろうか?
見ているだけで安心できて、ホッと出来る…包み込むような大人の笑み…。
どうして…。
どうして、あの人は、あんな風に笑えるんだろう?
どうすれば、あんな風な笑みを浩介に向けられる?
どうすれば、あんな風にもっと大人になれる?
そんな想いを抱えながら、僕は眠れない一夜を過ごした。
次の日、夜中にいつものようにバイトに行った浩介は、僕が送らなくていい!と言い放った言葉どおり、朝の僕の出勤時間になっても帰ってこなかった。
浩介の『おはよう、遠矢さん、起きて』という目覚まし代わりの声と、必ず落とされる目覚めのキス…。
その温もりと、あるべきはずの存在が欠如した…朝。
一緒に住む前までの6年間は、それが普通で当たり前…だったのに。
なのに、なんだろう?
この、今までにない空虚な感覚は?
触れ合う体温がないだけじゃない…心が芯から冷え切っていくかのような感覚。
いくら言ったからって、本当に実行すんなよな!
そんな、身勝手な怒りと憤りを感じてしまった自分に対する嫌悪感。
「…だめだ、こんなんじゃ!もっとちゃんとしなくちゃ!」
ペシッ!と頬を叩いて乗り込んだ久々の始発電車は、以前と変わらず人はまばらで…。
一定の間隔を空けて決まった不文律が出来上がっていた。
僕が以前座っていた指定席は、まだ空いたまま…で。
まだ数ヶ月の月日しか経っていないのに、なんだか懐かしいなぁ…と感慨に耽りながらその場所に座り、浩介が心配していた居眠りなんて、二度とするもんか!と心に固く決めていた僕は、向かい側の窓から見える朝方のまだ薄暗い車窓の風景を眺めていた。
いつも浩介が乗ってきていた、あの、3番目の駅でドアが開き、男が一人乗り込んでくる。
僕は視線をその横の車窓を向けていたから、そいつの顔なんて見ていなかった。
ところが…!
「…あれ?おはようございます」
そんな言葉が頭上から落とされて、驚いて顔を向けると、そこに、あの、チョコの厨房の中から向けられた包み込むような笑みがあった。
「あ…!チョコと洋菓子の店の…!?」
「良かった、覚えててくれましたか…!横、座っても良いですか?」
「え、あ、はい、どうぞ」
突然の事でわけが分からないまま、その人が横に座り、あの笑みを浮べたままニコニコと僕に笑いかけてくる。
「あ…の、なんで、僕の事?」
僕は昨日の今日で、それに印象深いその笑顔をたまたま覚えていたから、すぐ分かった。
でも、ただの通りすがりに見ていただけの僕の事を、なんで?と思ったのだ。
「あ…、やっぱり気づいてませんでしたか。フェアーとかイベントがある時は始発出勤になって、以前は時々お見かけしてたんです。それに店も斜め向かいですからね、顔くらい覚えもするでしょう?」
「…そ、そう…ですよね、はは…」
思わず苦笑いが浮かんだ。
僕はちっとも他の店の人の事や、顔なんて、見てもいないし覚えてもいやしない。
「…もっとも、あなたは全然見てなかったみたいですけどね?」
そんな僕の態度に確信を得たように、その人がいっそう笑みを深めて笑いかけてくる。
「う…すみません、その通りです…」
思い切り恐縮して慌てて視線を落とす。
なんだろう…この人の笑顔は本当にあったかくて、冷たかった心がほわっと温まってくる。
どうして、この人は、こんな風に笑えるんだろう?
僕には、絶対出来ない。
もの凄く、羨ましい…。
「…ですから、昨日は驚いたんですよ?今までまったく素通りだったのに、急に痛いくらいの眼差しで見つめられて…。もの凄く緊張してしまって、失敗しなかったのが不思議なくらいです」
続けられたその言葉に、『え!?』と顔を上げた。
だって、昨日の手さばき…!
あれで緊張してた!?
失敗しないかとヒヤヒヤしてた!?
あんなに無造作に、見惚れるような動きでやってたのに!?
「ウソ…だって、あんなに…」
「ホントですよ?それくらい熱い視線でしたからね」
「え!?あ、熱いって、そんな…!」
僕は一気に真っ赤になった。
だって、あの時、本当に浩介の事しか考えてなかったのだ…。
思わず作り方を覚えて、手づくりチョコとか上げられたら良いよなぁ…とか思ってしまうほどに。
「…どなたか、チョコをプレゼントしたい方でも?」
「え…と、はい…まあ…」
「ひょっとして、以前お見かけした…背の高い綺麗な顔立ちの…?」
「っ!」
思わず目を見開いてその人を凝視し、固まってしまった。
「…図星、ですか。素直な方ですね」
そう言って、耐え切れなくなったようにクスクス…と肩を揺らして笑い始める。
「や…!あの、そうじゃなくって…!」
慌てて否定の言葉を吐いてみたものの、さっきの間抜けなほどに肯定した表情を見られた後では、どんな言い訳したって滑稽なだけだ。
それ以上言い募る事も出来なくて、火が吹きそうなほど真っ赤になって項垂れていたら、不意に、
「…遠矢さん?」
その人に名前で呼ばれて、心底驚いて顔を上げた。
「え!?」
「ああ、すみません。他の方が皆そう呼んでたものですから、つい、覚えてしまって…。遠矢さん、で間違ってませんよね?」
「…っ、」
思わず警戒心でいっぱいの眼差しを向けてしまう。
だって、確かに職場の皆からそう呼ばれていたけど、そんな名前まで覚えられるほど誰かを気にかけるなんて…そんなの、普通じゃない…気がする。
「警戒…させてしまいましたか?ですよね、すみません。正直に白状しますと…百貨店勤務になってあなたをお見かけしてからずっと、気になってたんです」
「っ!」
思わず座っていたシートの端いっぱいにまで身を引いてしまった。
「あ…!誤解しないで下さい。あの…似てるんです」
「…似てる?」
「はい…私が以前、チョコを渡し損ねた人に…」
「え…」
そう言ってジ…ッと膝の上で組んだ手を見つめる横顔は、凄く、切なくて。
とても嘘を言っているようには見えなかった。
「え…と、不躾ですが、あの、その人って…男?」
「…はい。普通日本じゃ男が誰かにチョコを上げたいなんて思わないでしょう?ですから、昨日のあなたの視線の熱さから、ひょっとしてそのお相手も…?と思ったものですから」
「日本じゃぁ…って?」
「ここの勤務になるまでは、ウィーンで洋菓子研修していたんです。欧州でのバレンタインでは、男女関係なく好きな人に贈り物をする日、なんですよ。チョコに限らず…ですが」
「へ…ぇ、そうなんだ。え?じゃあその人って外国人!?」
「いえ、日本人です。ピアノ留学してた学生で…」
「学生!?じゃ、まさか、年下!?」
「ええ、年がいもなく…恥ずかしい話なんですが」
「っ、そんなことない!」
思わず声高に叫んでしまったいた。
一瞬、同じ車両の中に居た数人の視線が痛いほど突き刺さる。
「す…すみません…」
同じくその視線に曝してしまっただろう…居たたまれなさに、実を縮こまらせてしまう。
だけど、この人は全然そんな事気にしていない風に穏やかに微笑みかけてくる。
僕にはきっと出来ない…せいぜい愛想笑いを浮かべて誤魔化すだけで、相手をホッとさせるこんな笑みなんて…。
「いえ…ひょっとして、遠矢さんのお相手も年下なんですか?」
「…う、はい…学生…です」
「それは…ちょっとビックリですね。遠矢さんの方が年下だとばかり…」
「…やっぱり?」
思い切り肩を落とし、ハァ…っと盛大にため息を吐いた僕に、慌てたようにその人が言い募る。
「あ、でも大事なのは中身であって、外見では決して…!」
「はは…ありがとうございます。え、と…そういえば名前をまだ…」
「ああ、ほんとだ!佐野(さの)と言います。佐野 文隆(さの ふみたか)。今年で30になります」
「うわ、僕より6つも年上…!どうりで大人なわけだ!」
「え…!?遠矢さん24ですか!?十代とは言いませんがまだ二十歳そこそこかとばかり…!」
「はは…、いえ、大抵そう言われるんで…」
やっぱり、苦笑しか浮かばない。
言われ慣れてることなのに、どうしてもっと余裕の笑顔が浮べられないんだろう。
そんな風なことを思っているうちに電車は終着駅に着き、佐野さんと一緒に職場のあるフロアへと向かった。
同じ始発で仕事をする時もあるなら、一度くらい入り口とか通路で一緒になりそうなものだが、よく聞けば喫煙者の佐野さんはいつも駅の構内にある喫煙所で一服していて…そのせいで時間差が出来ていたのだ。
朝の早い時間帯はロッカールームも開いていないので、作業服に着替えるのも職場の厨房だ。
他に誰も居ない…というのもあって、僕はいつも店のレジ辺りで特に隠れる事もなく堂々と着替えていた。
でも今日は佐野さんが居るから、厨房の中まで入って外から見えない位置で着替えなきゃな…なんて思っていたら!
「…ああ、そうだ。遠矢さんに言っておこうと思っていたことがあったんです」
フロア手前にあるチョコ売り場で『じゃあ、』と別れようとしていた時、佐野さんが言った。
「出来れば着替えは奥の厨房の中でお願いします。不可抗力とはいえ、つい、視線が釘付けになってしまいますから…」
「え…?」
「いえ、少し後でこのフロアに来た時、いつも遠矢さんが着替えの真っ最中で…良い目の保養ではあるんですが、もしも私が遠矢さんの恋人なら、絶対許さないと思うので…」
「っ!!」
どこか穴があったら入りたい…!というのは、こういう時の事を言うのだろう。
僕は足の先まで一気に、それこそ瞬間湯沸かし器並な勢いで真っ赤になった。
「ご、ごめんなさい!お見苦しいものを…!」
「いえいえ、とんでもない。こちらにしてみれば眼福もので…」
「さ、佐野さん…っ!!」
「はは…、じゃ、見てしまったお詫びに、どうでしょう、その年下の恋人君に上げるチョコ、作らせていただけませんか?」
「え!?」
「何かお好みのチョコがあれば…」
言いかけた佐野さんの言葉を遮って、僕は言い募っていた。
「あの!僕が作る…なんてこと、出来ますか!?」
「え、」
「佐野さんに作ってもらったら、きっと美味しいチョコになるって思います!でも、あの…下手でも良いからあいつのために作ってやりたいんです。僕、今まであいつに何にもしてやれてなくて…昨日も佐野さん見ながら自分で作れたら良いなぁ…って、そう思ってたから…!」
「…本当にお好きなんですね。その人の事が」
「え?!い、いえ、そんな…っ」
僕はこれ以上赤くなれないだろう…というほど真っ赤になって俯いた。
でも、ほんとうにそう。
今まで浩介以上に好きになった奴なんて居ない。
それなのに…!
昨日の自分の取った大人気ない行動と言動が、情けなくてたまらない。
僕の身勝手で言い募ったのに、浩介は全然悪くないのに…!
あんな、今にも泣き出しそうな声音で声で『ごめん…なさい』と言わせてしまった。
謝らなきゃいけないのはこっちの方。
なのに、いつも年上…っていうのが引っかかって、なかなか素直に謝れないのだ。
「じゃあ、こうしましょう。実は私も一つ作りたいチョコがあるんです。それを作るのを手伝っていただいて、そのチョコをそのお相手君に…」
「いいんですか!?」
「ええ、是非。バレンタイン当日は厨房も早く終わるので、そちらの仕事が終わったら寄ってください」
「はい!分かりました。じゃ、夕方に!」
そう言って僕は慌てて自分の厨房に駆け込んだ。
結局その日は忙しくて、佐野さんの厨房に行くまでに思わぬ時間がかかってしまい…浩介に上げるチョコが無事に出来上がったのは、終電ギリギリの時間帯だった。
「すみません、こんな時間になってしまって…!」
佐野さんの手伝いをしながらチョコを作っていて…気がつけば閉店時間を過ぎ、最終電車の時刻になっていた。
「いえ、とんでもない。遠矢さんが作りたいって言ってくださらなかったら、私もこのチョコを作る気にはなれなかったですから…」
そう言って、佐野さんが手の中にあるシンプルで飾り気のない包装で包んだ小さな箱をジ…ッと見つめている。
佐野さんと一緒に作ったそのチョコは、キャラメル風味のヌガーの中に洋酒を入れ、ビターで濃厚なチョコでコーティングするという、大人な味のチョコだった。
手の平にすっぽりと包めるほどの小さな箱に、シンプルな包装…浩介の事が好きなんだけど、声を大にしてそれを伝えられない僕にはぴったりな包装だった。
だけど、この包装を選んだのも佐野さんで。
ビターでほろ苦いチョコでコーティングした中にある、甘く蕩けるヌガーと度数の高い洋酒…も、なんだか大人な雰囲気の中にある佐野さんの甘さと激しさを表しているような気がした。
「あの…このチョコって、ひょっとして…渡せなかったっていう?」
「ええ。その時に作った私のオリジナルです。あれ以来一度も作ったことなかったんですが…」
それ以来一度も?
でも、じゃあなぜ、今、自分用の物まで作って、持って…?
そんな僕の疑問符いっぱいの視線を受け、『はは…』と苦笑を浮かべた佐野さんが、着ていたコートのポケットから封書をを引っ張り出した。
それは、外資系の格式が高いことで有名なホテルの、バレンタイン・ピアノリサイタルの招待状だった。
そこにグランドピアノと一緒に写っていた、新進気鋭の若手のピアニスト…!
僕はこういう世界には無縁だからよく分からなかったけど、そのチラシの片隅に書き連ねてあるコンクール入賞歴を見れば、この写真の青年がただ者じゃないことくらいは分かる。
佐野さんが僕に似ている…と言っていたとおり、どことなく雰囲気が似ているかな?という気がする。
でも、僕なんかよりよっぽど整った顔立ちだ。
「え?まさか、この人…!?」
問いかけた僕に、佐野さんが凄く遠い目で窓を流れていくネオンの車窓を見つめながら答えを返す。
「…ちょうど私が帰国する日がバレンタインで、おまけに大きなコンクールもあった日で。せめて気持ちだけでも伝えておこうと思っていたんですが…彼、そのコンクールで優勝してしまって…。たくさんの花束とカメラのフラッシュを浴びる姿を見ていたら、とてもじゃないですが渡す事なんて出来なくなってしまって…それっきりです」
「そんな!でも、付き合ってたんでしょ!?」
「…どうかな?そう思っていたのは私だけだったかもしれないし…」
「じゃあ、この招待状は!?この彼から送ってきたんじゃないんですか!?」
「ええ、一応、会社宛に私名義で…。でも、どうせ仕事でいけないから…」
確かに、リサイタルの時間は昼間になっている。
でも、このホテルにこの青年が今夜居る事は間違いない!
しかもそのホテルは、僕が降りる駅のすぐ側だ。
電車は佐野さんが降りる駅に滑り込んでいた。
『じゃあ…』と言って立ち上がりかけた佐野さんの腕を、僕は思わず掴んで引き止めていた。
「どうして?行かないんですか!?」
「っ、リサイタルはもう終わってますし…」
「終わってたって、このホテルに今、この人は居るんでしょう!?佐野さん!何のためにそのチョコ持ってるんですか!」
「それは…っ」
佐野さんが言葉に窮している間に電車のドアは閉まり、次の駅へと走り出す。
「…ほら、座ってください。降りれなかったんですから、行かなくちゃ」
ニッコリと笑いかけると、佐野さんが観念したようにシートに座った。
「…まいったな。前に、似ているって言ったでしょう?あれ、今みたいにちょっと強引で強気で…そのくせ笑うと凄く可愛くて、凄くほっとする…そんなところがよく似てるんです」
「っ!?冗談は止めて下さい。僕の笑い顔なんて…!」
「本当ですよ?きっと遠矢さんのお相手も、私以上にそう思ってるはずです。普段しっかりしている大人だと認めているからこそ、心を許して笑ってくれると、それだけでホッとするんです。相手が特別であればあるほど…ね」
「じゃあ、佐野さんは今でもその人が特別なんじゃないですか。佐野さんの笑顔を見た時、僕もこんな風に見てるだけで心の中が暖かくなるような笑顔を、あいつに向けてやりたい…ってそう思いましたから」
「っ!?そんな顔してましたか?」
「はい、見惚れるぐらい」
「…す、すみませんでした」
カァ…と耳朶を染めた佐野さんの様子は、凄く可愛らしくて、年上なのに…いや、年上だからこそ余計に可愛い…とか思ってしまう。
そんな佐野さんを見ていて、ああ、きっと浩介も僕を可愛い…と言ってくるときは、こんな風に思ったときなんだ…って、妙に納得した。
普段しっかりしてて、ホストなんてやってて、僕なんかより全然年上に見える浩介が、その普段の様子とは180度違う…甘えてくる仕草は、僕にだけ心を許してくれてるから…?
そうか、だったら僕も、甘えてくる浩介を自分だけの物なんだ…って認めて、そんな浩介が好きなんだ…ってそう思って笑いかければ良いだけの事なんだ。
大人な包容力とか、大人な態度とか、年上だとか、年下だとか…そんなの関係なかったんだ。
ようやくそう思えたとき、電車は僕が降りる駅に到着した。
駅のホームに二人で降り立って、自然と握手を交わしていた。
お互いに向かう先はホームの反対側。
「今度こそ渡して下さいね!」
「ええ、頑張ってみます」
そう言いあった時、佐野さんがハッとした様に僕の背後に向かって目を見開いた。
「え…?」
その視線の先を追うように振り返った先…改札へと続く階段の所に、浩介が立っていた!
「ッ!?こう…」
呼びかける間もなく、僕と視線も合わせないまま、浩介が階段を駆け下りて行く。
「う…そだ、なんで?あいつ、今頃はバイトのはずで、こんなところに居るはず…」
わけが分からなくて茫然と呟いた僕に、佐野さんが『遠矢さん!』と鋭く呼びかける。
「え、」
「私みたいにそれっきりにしちゃダメですよ?その人の代わりなんていやしないんですから」
「あ…」
「チョコ、渡してあげてください」
その言葉と供に背中を押され、僕は駆け出していた。
「さ、佐野さんも!絶対、渡してくださいね!」
階段の所で一瞬振り返ってそう叫ぶと、佐野さんも既に向けていた背中越しに手を上げて、笑って応えてくれた。
「浩介!!」
叫んで後を追ったけど、僕より足のリーチが長い浩介が、その辺に居るわけもなく…。
でも、他に行く所などないのだから…!と思って、マンションに向かって駆け出した。
下から見上げた時には、マンションの明かりがついていなかったけど、ドアを開けた玄関口にたった今脱ぎ散らかしました…!と言わんばかりの浩介の靴があって。
ハァ…ッと、特大の安堵のため息が漏れた。
でも家の中は真っ暗で、僕は手探りで電気をつけて浩介の部屋の前に立った。
深呼吸して弾んだ息を何とか整え、ドアノブに手をかける。
「…浩介?」
ゆっくりとドアを開いて中を覗きこみ、呼びかけてみたけど…返事がない。
電気がついてないから中は真っ暗で、部屋の中に本当に浩介がいるのかさえおぼつかない。
「…浩介?居るんだろ?」
もう一度言って部屋の中に入り、壁の電気のスイッチに手を伸ばした途端、
「…っ、つけないで!」
不意にベッドがある方からそんな鋭い声音が投げられた。
伸ばした手を引っ込めて、僕は声のした方へ近付いた。
闇に目が慣れたおかげで、ベッドの中で丸まっている浩介の存在を確認できた。
「浩介、お前…バイトは?」
「……」
無言なまま答えない浩介に更に近付き、引き被っている布団に手をかけた。
「まさか、サボリなんじゃ…」
「サボってなんかない!」
そう言って、僕が触れた手を弾くように、いっそう縮こまって身を硬くする。
「遠矢さんこそ…っ」
「え?」
「なんでこんな遅く…!あいつ、誰!?」
布団を引き被ったままそんな風に言い募る浩介の姿に、僕はちょっと唖然とした。
だって、これじゃまるっきり子供じゃないか。
深夜、ホストのスーツ姿で出勤する時の浩介は、もの凄く大人びていて…クールな面差しで隙がない。
なのにどうだ?
今のこの有様は!?
大きな子供、拗ねた子犬…ああ、いや、大型犬か。
なんだか、妙にツボにはまった。
その激しいギャップに、耐え切れずに笑いが込み上げてきた。
「ク……、アハハハッ、クックック……!」
丸まった浩介の横で、僕は腹を抱えて笑い始めてしまった。
しかも、はまったツボが深くて、なかなか抑えることが出来ない。
その笑い声がカンに障ったのだろう。
不意にガバッと身を起こした浩介が布団を跳ね上げたかと思うと、笑い続ける僕をベッドの上に引き倒した。
「っ、遠矢さん!何がそんなに可笑しいの!?」
「ご、ごめ…ッ!だって、浩介、まるっきり子供みたいで…!」
「悪いかよ!?どうせ俺は子供だよ!年上の遠矢さんからしたら全然頼りなくて、ガキで、どうせ俺なんか…!」
「え…?」
僕の両肩を握りしめて悔しげに見下ろす浩介の表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。
「…こう、すけ?なに?お前…ひょっとして、年下ってこと、気にしてたのか?」
「あ…当たり前だろ!俺、まだ学生だし、金だってそんな稼げないし…遠矢さんがホストのバイト嫌がってるって分かってても、それ以外効率よく稼げるバイトないし…。でも、絶対、遠矢さんを送っていくのは俺だって決めてて…!それぐらいしか、俺に出来る事なくて…!」
「え、ちょ、浩介っ、」
「なのに遠矢さん、送らなくていいなんて言うし、連絡なしで帰ってこないし、おまけに、あんな如何にも年上な男と一緒に帰ってくるし…!」
「浩介、待てって、」
「やっぱ年上の方が良い?俺みたいなガキじゃ…」
「っの!浩介ってば!待てって!こっちの話も聞けって!」
一気にまくし立てる浩介の顔に手を伸ばした僕は、その形の良い耳を両手で思い切り引っ張ってやった。
「っ!?いっててて…っ!!」
「話聞けって言ってんだろ!この、バカ!」
「っ、だ…って、」
「まず、聞くけど、バイトは!?どうしたの!?」
「き、今日は、前から休みとってて、」
「休み?なんで?」
「だ…って、遠矢さん、俺がチョコとかもらって帰ってきたら、嫌がると思って!だから…!」
「え…?じゃぁ、なに?お前、一つもチョコもらってないの?」
「遠矢さん以外からなんて、受け取るわけないでしょ!?」
「あ…じゃ、昨日チョコの匂いがどーのって言ってたのは…?」
「だって、遠矢さん、全然そんな素振りなかったし、俺なんかじゃ上げる気にもならないのかと思ってたから、ちょっと期待して、つい…、」
「う…そ、マジで…?」
思いもよらない事実を聞かされて、再び笑いが込み上げてきた。
だって、それって、カン違いも良いとこだ。
「っ、だから、なんで笑うの?!それに、さっきの男、あれ、誰!?」
「ククク…ッ、あ、あの人は、同類」
「…は?同類?」
「そ!年下が好きになって、そいつの事がもの凄く、誰よりも好きなのに、それを伝えられなくて悩んでた、同類」
「え…、」
一瞬で浩介の表情が固まった。
きっと耳を疑ってて、言った意味の半分も分かってない…そんな表情で。
「いいか、よく聞け!年上なのを気にしてたのは、僕の方なんだよ!何してたって、どこに居たって、浩介の事しか考えられなくて…年下にこんなに惚れて、いつか、お前が僕に厭きてどこかに行ってしまったらどうしよう…って、そんな事ばっか考えて、不安になって、どうしようもなくて!そんな情けない自分が嫌で、だから、子供みたいに八つ当たりしてたんだ…!」
「と…おやさん、うそ…」
「ホント!で、一緒だったあの人は佐野さんって言って、僕の店の斜め前の洋菓子職人!浩介に上げるチョコを一緒に作ってもらってたんだ。だから連絡も出来なくて、あんな遅い時間になって…。駅まで心配で来てくれたんだろ?ホント、ごめん。年上なのに全然気がつかない、頼りにならない奴でさ…」
「ホントに…?」
「ホントだって!チョコ出すから、ちょっと起こして」
そう言って、浩介に引き起こしてもらって、ベッドの上で向かい合わせになった所で、まだ脱がないままだったコートのポケットから、その小さな箱を取り出した。
引き倒された時のショックですっかり箱が歪んでしまっていた。
「うわ…、中身大丈夫かな?」
「早く開けて!遠矢さん!」
一転してワクワク…といった顔つきになった浩介が、目を輝かせて包装紙を破って出てくる中身を見つめている。
ほんと、浩介は餌をもらえるのを尻尾を振って待っている大きくて行儀の良い犬みたいだ。
箱は潰れていたものの、中身は外傷なしの無傷状態。
佐野さんに手伝ってもらっただけに、初めて作ったとは思えないほどツヤツヤのハート型チョコが4つ。
「凄い綺麗…!さすが遠矢さん!」
「へへ…なんたって本職の菓子職人に手伝ってもらったからな!味も凄く美味しいはずだ!」
「はずって…遠矢さん、味見してないの?」
「佐野さんが作ったのは食べたんだけど、自分のは…この4個だけしか綺麗に仕上がらなくて、味見までは…。あ、でも!佐野さんのと同じ材料だから、絶対大丈夫だって!」
「…大丈夫じゃなかったら?」
「あ、この!信用してないな!」
「やだな、信用してますって!でも、せっかくだから一緒に食べたいなぁ…と思って」
「…そりゃ、いいけど…って、浩介?」
箱の中から一つだけチョコを取ると、浩介がその箱をベッドヘッドに置いてしまう。
その一つのチョコを目の前に掲げて、浩介が意味ありげに笑った。
「こ…ぅすけ?」
「一緒に食べよ、遠矢さん」
「え、ちょ…っ」
ポイッとばかりにチョコを口の中に放り込んだ浩介の顔が、いきなり迫ってきて、避ける間もなく再び押したおされて唇を塞がれた。
唇にほろ苦いビターチョコの先端が押し当てられて、続いて浩介の温かな舌先がそのチョコと一緒になって咥内に押し入ってくる。
僕の方が下になって居るから、自分の舌で喉の奥にチョコが入ってこないように押し戻すしかなくて。
そうすると必然的に、押し入ってきた浩介の舌にいつも以上に深く絡み付いていく羽目になって。
チョコのほろ苦さを味わって、次にキャラメルの甘さとともに度数の高い洋酒を味わう頃には、酒に酔う…というより浩介とのキスに酔っていた。
「…ん、と…ぉやさん、これ、凄く美味しい…。ね、全部食べちゃって良い?」
そう聞いてきた浩介の瞳は、その”食べる”モノを前にして、襲い掛かりたいのを許可が出るまで忠実に”待て”の姿勢で見下ろす大型の猟犬…そのもので。
「…ば…っか、おまえ、どっち食う…気だよ!」
「もちろん、チョコ味に染まって、酒に酔った…遠矢さん」
「…なんかさ、浩介って、餌を前にしてよだれ垂らしてるでっかいワンコみたいだぞ?」
「…うん、犬でも良いよ。その代わり、ちゃんと餌ちょうだい、とーやさん」
そう言いながら、キスの間に外したのだろう…開いたシャツを割って、浩介の長い指先が胸元に入り込んでくる。
「…んっ、こ…の、エロ犬!いつの…間に…!」
「ぅん、俺、エロ犬がいい…。ね?いいでしょ?とーやさん」
「こ…んな、餌で良いの…かよ…?」
「とーやさんが良いんだよ…他のものなんて食べる気しない…」
「偏食大王…!」
「うん。じゃ、いただきます」
どこまでも行儀よく、そしてちゃんと僕の休みまで把握している抜け目のないでっかいワンコは、にっこりと微笑んで『バレンタインにチョコ付きパンなんて、凄い贅沢だよね』と、嬉しそうに囁いて食いついてきた。
「おはよう、遠矢さん、起きて」
いつもの声と供に唇に落とされた温かな温もりを味わって、目を開ける。
いつもそこにある一番好きな顔を一番最初に見ることが出来る幸せに、自然と笑みが浮かんだ。
「…遠矢さん、知ってた?」
「ん?何を?」
「俺、遠矢さんの笑顔が一番好き。凄く、ホッとしてバイトで嫌な事があった日も、遠矢さんが笑うのを見ると心がフワッとあったかくなるんだ」
「!?」
事も無げにそう言われて、思わず絶句した。
なんだって、こいつは、こんなに簡単に僕の心を見透かして、安心させてくれるんだろう?
「あ!ね、ホワイトデーのお返し何が良い?」
「…いらない」
「…え、そんな、遠矢さん!」
「…浩介が居れば何も要らない」
「え…」
「ほら、行くぞ!遅刻する」
「え、ちょ…っ待って、遠矢さん!もう一回言って!」
面と向かって二度も言えるか…!
真っ赤になった顔を見られまいと駆け出した僕は、急いでフルメットを被って誤魔化したのだ。
佐野さんも、無事にチョコを渡せたみたいで、来月にはまたウィーンに戻る事になったらしい。
いつか、浩介と一緒に佐野さんと、佐野さんの年下の恋人のピアニストに会いに、本場のチョコを浩介と一緒に食べに、ウィーンに行けたら良いな…と思う。
これから先もずっと、バレンタインに浩介と一緒にチョコを食べるのは、僕であって欲しいと、思う。
終わり