ACT 2




 桜の季節も終わり、すっかり葉桜となった桜の木々と深緑の眩しい睦月。
 都心の騒がしい喧騒からは想像も出来ないほど静かで穏やかな郊外の住宅地が、豊かな緑に囲まれて軒を連ねている。

 その中でも一際目を引く古びた洋館…。

 周囲の家とは全く雰囲気の異なるその建物は、周辺をグルッとレンガの塀で囲まれ、青々としたツタを縦横無尽に生い茂らせている。

 いつも開け放たれている背の高い格子扉から続く芝生の先にあるのが、二階建てで渋い色合いのレンガが印象的な、左右対称(シンメトリー)の洋館だった。
 造りと雰囲気は重厚な北欧建築で、年月が経てば経つほどその設えの良さを肌で感じる事の出来る風情が漂っている。

 格子扉を入って建物の横を通り抜け裏手に廻ると、そこには小じんまりとした庭が広がっていた。
 手入れの行きとどいた花々と様々なハーブの香りが漂い、ちょっとした小庭園といった風な趣がある。
 その庭に面して配されたガラス張りのリビング・ルームのカーテンが勢い良く引き開けられ、掃き出し窓の戸が開いた。

 それまで夜の色と香りを充満させていた部屋の中に、白々と空け始めた朝の淡い光が満ち満ちて、澄んだ冷たい清冽な空気が流れ込む。

「んーーーーーッ!やっぱ朝の空気は美味しいなーー!!

 開け放たれた戸から庭に出た一人の少年が、その伸びやかな細い腕をめいいっぱい天へと伸ばし…シャツの裾からはだけた細い腰が肌理の細かいすべらかな肌をさらす。

 冷たい空気を胸いっぱい吸い込んで、深呼吸する少年…。
 日の光を受けてキラキラと輝く銀色の髪。
 その少し伸びかけの髪の間から覗く大きな瞳も、銀色に生き生きと輝いている。

 銀色の髪がまとわりつく細い首筋や、髪をかきあげる華奢な指先も、透き通るほどに無垢な白さを放つ肌の色で、わずかにある細かな産毛も朝陽を受けて金色のヴェールをまとっているかのような輝きを放つ。

 まるで大聖堂のフレスコ画に描かれた天使…。
 そう言っても過言ではない少年…桜杜 みことである。

 みことのこの容貌は、一見、外国人のようにも見えるが実は先天性白子(アルビノ)による先天的色素欠乏症だ。
 自然界でも稀に見られる白蛇などの突然変異体と似たような体質で、体中の色素が生まれつき薄い。

 だが、その変異性はそのままみことの出自とも言えた。
 みことの父は千年桜の精霊で、母は普通の人間…という世にも稀な半精霊の人間であった。

 その千年桜に封印されていた鬼が復活するという事件が起こり、それを解決すべくやって来たこの家の主、鳳 巽(おおとり たつみ)と運命的に出会い、自分の中に眠っていた力の覚醒と、聖獣”白虎”を従える…いう運命を受け入れた。

 そして、その力を使って仕事を手伝うと言う名目の元この巽の家にやってきて、居候を始めて早一ヶ月ほどの月日が流れようとしていた。

「さて…と、水撒き水撒き…と!今日もいい天気になりそうだなー!」

 鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で、みことが庭の隅にある散水栓に繋がれた水撒きホースをクルクル…と伸ばして水撒きを始める。
 同時にその背後の空間がねじれたように歪み…突然、音もなく冴え冴えとした青い瞳の黒衣の青年が現れた!

 この家の主、巽がいつも肌身離さず首から下げて身につけている母親の形見だと言う銀色のロケット…その中に封印されている『オーディンの指環』。
 その指環に憑いている二羽の大ガラスの妖し…巽の駆使する式神、前鬼(ぜんき)と後鬼(こうき)のうち、前鬼の方だった。

「…おいっ!お前、今日は俺の当番の日だろう!?なぜいつも頼まれもしないのにその仕事をやっているのだ!?」

 突然声を掛けられたみことが、驚いて振り返った。

「ぜ…前鬼!?もうっ!ビックリするから急に現れないでよ!それに、僕は『お前』じゃありません!『みこと』だってば!何回言ったら分かるの!?」

 銀色の瞳を大きく見開いて、ちょっとムッとした表情で前鬼に食って掛かる。
 いつもは上から下まで黒一色の服装の前鬼が濃紺のデニムのエプロンを身につけ、腕組みをして、みことを睨みつけている。

「俺に名前で呼ばれたかったら、もっとちゃんと勉強するんだな!それより、さっきの質問に答えろっ!」

 ”勉強”という言葉にみことが『うっ…!』と絶句する。
 というのも、この家にやって来てすぐに、巽から言い渡されたのだ。

「みこと、お前があんまり勉強が好きじゃない、ってのはよく分かった。けど、俺の本業は翻訳の仕事だ。こっちの方も手伝いたいというのなら、せめて歴史と辞書引きくらいは出来ないと話にならない。俺と前鬼と後鬼で少しずつ教えてやるから、もう一回ちゃんと勉強し直しだ!」

 と。
 そんなわけで、この一ヶ月の間、毎日のようにもう一度学生時代の復習をやらされているのである。

 巽の副業(と、本人は言っているが、どう考えてもこちらが本職としかみことには思えない)呪いや霊障、妖しや憑き物、その他もろもろの不可思議な現象…の仕事を受け、解決する。
 その仕事を手伝う…という事でこの家にやって来たみことであったが、とりあえずまだ仕事の依頼も来ないので、巽が本業だと言い張る翻訳の仕事を手伝う羽目になったのだ。

 ところが、それが全然役に立たないという事が発覚し、みことも必死に復習を始めたのである。

「イ、イジワル前鬼!!僕だってちゃんと頑張ってるのに!!だいたい、前鬼って巽さんの式神なんでしょう!?何でそんなに人間の勉強してる事を知ってるのさ!?」

 前鬼の問いかけを無視して、みことが常々疑問に思っていたことを口にする。

「…フン!悪いか?俺と後鬼はずっと巽と一緒だった。お前たちのいう、『学校』とやらにもな!そこで見聞きしたことだ。当然覚えるし、理解もするだろう!?」

 フフン…ッ!と、いかにも小バカにしたような目つきで前鬼がみことを見下ろす。
 みことは、その前鬼の目つきに更に機嫌を損ねてふくれっ面になっている。

「…って、そんな事はどうでもいい!お前はどうして毎日朝早くから起きて水撒きをしているのだ!?」

 前鬼が再びイライラと質問する。

 「え?どうして…って?その…ずっと新聞配達してたから、朝は早く目が覚めちゃうの!眠れないし…それなら何かした方がいいでしょ?それに、この庭好きだから。皆伸び伸び育ってて、とっても気持ちいいから…!」

 膨れっ面を一変し、嬉しそうにみことが笑顔で庭を眺める。
 そのみことの言葉に前鬼が一瞬目を見張り、フン…ッ!ときびすを返してリビング横のキッチンに向って歩き出した。

「…なら、その仕事、お前にやらせてやる!…それと、お前!自分の当番の日の他の仕事、もっとちゃんとやれ!!」

 そんな捨て台詞を残して、家に中へ入って行く。

「い〜〜〜〜〜〜〜〜だっっ!!」

 みことが前鬼の後姿に向かって、悔しげにしかめっ面を投げた。

「そのうち絶対、前鬼より上手くなってやる!掃除も洗濯も、ご飯作るのだって!見てろっ!!」

 ブツブツ…と不満そうにそんな事を呟きながら、みことが再び水撒きを再開する。
 そんなみことの肩を、ツンツン…と、誰かが突っついた。

「…れ!?後鬼(こうき)!?どしたの?今日は後鬼の当番の日じゃないよ?」

 先ほどの前鬼と瓜二つで緑色の瞳を持つ式神…後鬼がみことの後ろに立っていた。
 この、後鬼と前鬼、それに巽とみことの4人でその日の家事を当番制で行っている。
 今日は先ほどの青い瞳の方、前鬼の当番の日であった。

 みことの後ろに立っている後鬼が緑色の瞳を細めて、ニコニコと笑いかけてくる。
 前鬼と顔や容姿はそっくりなのに、漂う雰囲気と言葉使いは正反対と言っていいほど全く違っていた。

「うん、知ってるよ。それより、さっきの前鬼の顔、見た!?」

「えっ?顔?前鬼の?」

 後鬼の言っている意味が分からず、みことがキョトンとした表情を向ける。
 後鬼は緑色の澄んだ瞳を更に楽しそうに細め、笑顔で言った。

「なんだ、見てなかったの?前鬼のあんなに照れた顔、二度と見れないかもしれないのに…!」

「照れる!?前鬼が!?うそっ!!何で!?」

 みことが矢継ぎ早に後鬼を質問攻めにする。
 後鬼はそんなみことが可笑しくて仕方なさげに、クスクスと笑い声を上げた。

「だって、この庭作ったの前鬼だよ?この庭の事、”好き”だとか”気持ちいい”とか、面と向って誉めたの、みことが初めてだから…!」

「ええっ!?これ…造ったの、前鬼なの!?」

 みことが唖然として庭を見つめる。
 いつもイジワルで、口を開けば憎まれ口しか言わない前鬼からは想像できないほどきちんと手入れの行き届いた、心休まる本当に居心地の良い庭なのだ。

「僕…巽さんか後鬼が造ったんだとばっかり…!」

 みことが、まだ信じられない…!といった表情で後鬼を見つめる。

「だから、言ったろう?前鬼はああ見えてもの凄くシャイなんだ。”天邪鬼”とも言うかな?その辺、見抜いてあげなきゃ…ね?」

 みことに向かって軽くウィンクすると、後鬼はフ…ッと空気に溶け込むように掻き消えてしまった。

「…シャイ?天邪鬼…?」

 みことが後鬼の残した言葉を繰り返して、盛大にため息を落とす。

「は〜〜〜〜〜〜〜だめ!全然実感湧かない!信じられないよ…!」

 あきらめ顔で再び作業を再開したみことが、フッと手を止めた。

「…アッ!でも…この水やり、やって良いって言ったよね?そういえば初めてだなあ…前鬼が僕に対して何か”やって良い”って言ったの…!」

 その事に気がついて、みことはちょっとだけ後鬼の言った”シャイ”の意味が分かったような気がした。
 それが嬉しくて、つい、いつもの鼻歌が口から滑り出る。

 よく学校の合唱コンクールなどで歌われる『翼を下さい』だ。
 みことの一番のお気に入りの曲らしく、毎朝水をやりながら歌っていた。
 母親譲りの天性の歌声の持ち主であるみことの声に、庭の花や草木の精霊たちも心地良さげに耳を傾けた。




トップ

モドル

ススム