僕の彼








ACT 2






彼と初めて会ったのは、14歳の時だった。


「光、今日からこの人が新しいお父さんよ」


唐突にそんな事を告げた母は、そんな風に突拍子もない事を言ってくるのが日常茶飯事…という人だった。
でも、さすがに内容が内容だっただけに、そう言われて僕は何と答えてよいか分からなくて、呆然と母の横に座って微笑みかけてくる彼を見つめた。

僕は、父親の顔を知らなかった。
母はいわゆるシングルマザーというやつで。
父親は死んだ…といって、何一つ僕に話してはくれなかった。

だから、いきなり今日からお父さんよ…と言われても、戸惑いと困惑ばかりが先だってどう対応したらいいのかすら分からなかった。
そんな僕の心情を見透かしたかのように、彼は僕の目線まで屈み込み、『よろしくね、光君』と、手を差し出してきた。
間近で見た彼の顔は細面で繊細で、今まで見てきた男の人の誰よりも綺麗だった。
差し出された指もすごく長くて細く、母の指より綺麗なんじゃないか?とさえ思った。

でも、それよりなにより、その声音が…すごく優しくて耳に心地良かった。
男の人にそんな風に名前を呼ばれたのは初めてで、なんだかくすぐったくて気恥ずかしかった。

再婚相手とはいえ、母より一回り若く、僕と10歳違い。
継父というより、兄という方がしっくりきたし、実際、一緒に居ると必ず兄と間違われた。

そんな見た目もあってか、彼は僕が父と呼ぶことに違和感があるだろうから…と、自分の名前で呼ばせてくれた。


「玲(あきら)さん」


その名を呼ぶ声音に、別の感情が滲むようになったのは、いつからだったろうか。

母は、イベントプランナーとして辣腕を振るいながら僕を育ててくれた事もあり、とても活発で奔放な所があった。
その上、息子の僕から見てもかなりの美人。
そんな事もあってか、仕事の依頼はひきも切らずとても忙しい毎日を送っていた。
彼と結婚したからと言って、特に生活態度が変わったわけでもなく…逆に彼が居るからと、今まで僕に気を使って断っていたんだろう出張の仕事も引き受けて全国を飛び回り、家には滅多に帰ってこなくさえなった。

彼は彼で、そんな母とは全く違ったサイクルを結婚前と変わらず維持していたようで。
母と同じ系列会社の経理に勤めるサラリーマンだった彼は、決まった時刻に出勤し、決まった時間に家に帰ってきた。
僕から見ていても、あきれるほどのすれ違いな夫婦生活。

きっとすぐに離婚を言い出すに決まってる。
そう思っていたのに、どうやらその互いを縛らない自由さに引かれて結婚したようで、離婚なんて言葉が二人の口からでることもなかった。

それに僕も、物静かでとても大人な雰囲気の彼と一緒に過ごす時間がとても気に入っていた。
家の中に自分以外の誰かがいて、一緒に買い物へ行き、一緒にご飯を食べ、一緒にテレビを見る。

そんな平凡で取るに足らないこと。
でも、いつも一人きりで過ごす時間が多かった僕にとっては、ようやく得られた宝物のような物だった。

けれど。
そんな平凡で幸せな日常が、ある日、一変した。

母親が出張先で吐血して緊急入院し、末期の肺癌だと宣告されたのだ。
昔からヘビースモーカーだった母は、時々咳きこんでいたりしたけど、『ただの風邪よ』と笑って言う母の言葉を信じて疑わなかった。
実は短期の入退院を今までにも何度か繰り返していて、それを出張だと偽っていたことも。
僕に心配させないために、母がずっと嘘をついていたのだと知った時には、もう、手遅れだった。

最後の一週間、彼は仕事も休んでずっと母に付き添ってくれていた。
ずっと…彼の長くて細い指が、薬の影響でむくんだ母の手を握っていた。

母が亡くなった夜、泣き続ける僕を彼はずっと抱きしめてくれていた。

『大丈夫、俺がずっと光君の側に居るから』
『絶対、君を手放したりしないから』

僕が泣き疲れて眠るまで、その言葉が何度も何度も耳元に落とされた。
彼以外身寄りがない僕にとって、その言葉はどんな言葉よりも安堵感を与え、そして…恐ろしかった。

だって僕は、母の死というこの上ない悲しみを味わいながら、同時に彼を独占できる…という喜びを味わっていたから。
母と彼が二人で一緒にいるのを見ると、何だか嫌で…何かと理由をつけては二人の間に割って入っていた。
始めのうちは、母を取られるのが嫌なんだろう…って自分で理由付けをしてその行為を正当化していた。
でも、本当は違ってた。

だって、それまで彼以外の男と母が一緒に居るのを見た時は、そんな風に嫌だな…なんて思ったこと、なかったから。
相手が、彼だから。
彼だから、僕は二人の間に割って入るような真似をした。

その事を自覚したのが母に彼が付き添った最後の一週間。
ずっと母の手を握り続けている彼の指を、僕はいつしか直視できなくなっていた。
何か、僕には決して入り込めない絆のような…そんなものを二人の間に感じて、凄く嫌だった。
母一人が彼を独占することに、いつしか苛立ちさえ覚えるようになっていった。

そして、もしもこのまま母が死んでしまったら…?
彼はもう、僕と一緒に居る必然性がなくなってしまう…!

そう思った時、僕は…彼と一緒に居るために、母に生きていてほしい…!とそう願っている自分に気がついてしまった。
そんな自分が心底恐ろしく…けれど、気が付いてしまったその想いを僕は必死に押し隠し、怖くて閉じた瞳の中にあった闇の中へと、封じ込んでいた。









「…くん?光君?」


軽く体をゆすられて、ハッと目が覚めた。
あれから彼と一緒に家に帰って来て、お風呂が沸くまで待っていた…その間にソファーで眠ってしまっていたらしい。


「大丈夫?少しうなされてたし、寝汗が凄いよ?」

「え…!?」


言われて気がつくと、着ていたシャツが寝汗でべったりと湿っていた。
母の一周忌だったせいだろう…当時の事を夢に見ていたような気がする。
寝ぼけた頭でそんな事をぼんやりと考えていて、『少しうなされていたし…』という言葉に、ジワ…っと新たな冷や汗を背中に感じながら彼に言い募った。


「…っ、何か、言ってた!?」

「え?」

「寝言…とか!?」

「いや、何も言ってなかったと思うけど…?」

「そ…う…、」


心の底からホッとして、大きな吐息を吐いた。
決して知られてはいけない想い…だからこそ、無意識の時に口走る可能性は高い。


「ホントに大丈夫?朝からお墓参りして、あちこち連れまわしちゃったから疲れたよね。風邪引かせたかな?」


そう言って、彼の細くて長い指先が僕の前髪をかきわけて、額へと触れる。
僕よりひんやりとした彼の指先の体温の心地よさに、思わず目を閉じた。
閉じた視界の先に広がるのは、闇。
闇の中でだけ、僕は自分の想いを夢に見ることができる。


…叶うなら、その指に自分の指を重ねてみたい。


思うだけで決して出来ないその衝動を闇の中で描き、深呼吸してやり過ごす。
額に触れた彼の指は、しばらくそのまま動くことなく、少し上がった僕の体温を吸い続けていた。


「…やっぱり、少し熱があるね。今日はお風呂入るのやめておく?」

「え…、」


その熱さは熱のせいなんかじゃ…!と、慌てて眼を開けると、まだ彼の指は僕の額に添えられていて…驚くくらいの近距離に、彼の綺麗な顔があった。


「っ!?ぁ…、大丈夫、だから…!」


思わず跳ね上がった心臓のせいで、僕の体温も急沸する。


「やっぱり熱いよ。ちょっと待ってて」


言い募ろうとした僕の言葉を遮って、彼の手が離れたかと思うとバスルームの方へと、彼の背中が消える。
僕はその背中を見つめながら早まってしまった鼓動を整えるべく深呼吸し、彼が離れてくれたことに心底感謝した。

だけどその安堵感もその一瞬だけだった。
彼がバスルームからお湯の入った湯桶とタオルを持って現れた時、嫌な予感で背筋が震えた。


「とりあえず、その寝汗だけは拭き取っておかないと」


そう言って、彼は湯に浸したタオルを絞り僕の首筋に押し当てた。


「ほら、シャツ脱いで。気持ち悪いだろう?」


思わず、目眩がした。
彼の目の前で上半身とはいえ裸になり、彼のその手でタオル越しとはいえ撫で廻されるなんて…!
そんなこと…!!


「い、いいってば!ホントに熱なんてないから!」


叫んで、思わず彼の手を思い切り弾き返してしまった。


「ひ…かる、君…」


とても驚いて、そして…傷ついた色が彼の見開かれた瞳に見てとれた。


「ごめん、そうだよね。もう子供じゃないんだし、男同士とはいえ嫌だよね…」


そう言って視線をそらした彼の態度には、本当の親子じゃないんだし…という口にはしなかった、僕たちの間では禁句と言っていい言葉が感じられた。

そう、本当の親子じゃない。
だけど、僕と彼とは親子としてじゃなきゃ、一緒には居られない。
彼は、僕を子供としてしか見てはくれない。


「っ、そうだよ、もう子供じゃないんだから…!」


悔しくて。
悔しくて。

僕は今にも涙が溢れそうになったのを誤魔化すようにソファーから飛び降りて、バスルームへと逃げ込んだ。
汗の滲んだ服を脱ぎ捨ててバスタブに飛び込み、浴びもしないシャワーのコックを全開に開いた。

洩れた嗚咽を床を叩くシャワーの音が、掻き消してくれる。
溢れた涙はバスタブにたまったお湯が、なかったことにしてくれる。

母が亡くなったあの日からこの一年、僕は彼への想いを封印して暮らしてきた。

勘違いだと言い聞かせて。
気がつかない振りをして。

それなのに。

あの、眼のない魚が…目を閉じた闇の中に焼き付いて、離れない。
あの時見た夢を、僕に思い出させる。


『…一緒に、なろうか?』


そう言った彼の声が、いつまでも頭の中でこだまする。
意味は全く違うと分かっていても、それでも、とても嬉しかった。


「…母さん、ごめん。僕…!」


『彼が、好きなんです』


声には出せないその言葉と共に、僕は目を閉じたまま魚のように湯船の中へ沈み込んだ。





読んだよ。という足跡に拍手してくださると嬉しいです。




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