僕の彼








ACT 1







その魚には、目がなかった。


真っ暗な水の中に浮かぶ、魚の形をした、真っ白な物体。
目だと思われる部分には、それらしい物は何もない。

窪みも。
あるべき瞳も。

ただあるのは、白々とした膜とも皮膚とも分からぬ物に覆われた、薄っすらと透ける起伏だけ。

どこかの洞窟の底にある地底湖に棲んでいるんだと、部屋の入り口に書いてあった。

一切の光が射さず、真の闇に覆われた異質な世界。

その部屋は、出来うる限りその暗闇の世界を模して作られた擬似空間だった。
かすかなフットライトと、それに反射してかすかな道を示す、安っぽい蛍光塗料の道標。

頭上は、真の闇。

その闇の中で、目のない魚が泳いでいる。

ゆらゆらと。
流れさえない真っ暗な水の中を。

ゆらゆらと。
漂うように。

目がないくせに。
自分も、他の物も見えないくせに。

闇の中でその存在を主張し、白々と輝く生き物。

ここに居るんだと。
見て欲しいんだと。

そんな矛盾したものがその姿に見て取れた。


似ている…と思った。
妙に、心惹かれた。


真っ暗闇の中、微動だにしない僕の存在を確めるように、不意に肩越しに彼の腕が回され、ギュッと抱き寄せられて…ドキッと心臓が跳ねた。


「…ここに居ると目なんて役に立たないね」


そう言った彼の言葉に、この行動はただ単に僕が居ることを確認する為だけの所為なんだ…と跳ねた心臓が萎え、替わりに泣きたくなるくらい悲しくなった。

そして同時に、彼が好きなんだ…と、はっきり自覚した。

だけど、そんな気持ちで彼を見ちゃいけない。
今、泣いちゃいけない。

そう思ったら、その言葉が口をついてでてしまっていた。


「…あんな魚になりたいな」


あんな風に誰にも見られることのない真っ暗な深い場所で。
あんな風に静かに。

彼と、一緒に。
彼と僕だけで、居られたら。

言ってしまってから、変な事を…!と焦った瞬間。


「…一緒に、なろうか?」


そんな言葉が頭上から降ってきて、思わず『え?』と、聞き返してしまっていた。

辺りは本当に真っ暗で。
すぐ近くにあるはずの彼の表情すら分からなかった。

一瞬の間のあと。


「…だって、一人じゃ寂しそうだから」


そんな答えが返ってきた。

優しい人。
彼は、そんな人。


「…そろそろ、帰ろうか?」


そう彼に言われて、僕は思わず唇を噛みしめた。
抱き寄せられた彼の手の力強さと、密着して伝わる彼の体温。
ここから出れば、それは失われる。

そして、忘れなくちゃいけない。
今抱いている、彼への想いと共に…。

だって、彼は。


「保護者同伴でも、門限は一緒なの?」


泣きそうな気持ちを押し隠して、明るい声音で子供らしく問いかけてみる。


「光(ひかる)君まだ高校生だし、洋子(ようこ)さん、その辺うるさかったから…」


苦笑交じりで彼が言う。
だって、彼は。


「母さんの一周忌だからって、言い付け守らなくてもいいと思うんだけど?」

「未だに尻に引かれてるって言いたいのかな?」

「そう!」

「はは…、それでも良いよ。ま、一応光君はまだ子供ですから…!」

「もう18だって!」

「まだ18でしょ!」


くすくす…と笑いながら彼が僕の肩を抱いたまま通路を進み、”出口”と安っぽい蛍光塗料で書かれた暗幕に手をかける。

夢の終わり。
闇を追いかけるように後ろを振り返ると、目のない魚が僕を見ていた。


…目のない魚、そこで僕の想いを代わりに抱いて、泳いでいて。


思わず想ってしまった、願い。
眩しい外のネオンの光が、現実へと僕の心を引き戻す。
ペットショップ横に併設されていた”地底湖の神秘展”…先に誘ったのはどちらだったろう?
光に満たされた世界に出ると同時に彼の手が離れて、彼の温もりが消失する。


「眩しい…!光君、目、大丈夫?」


僕を見る、彼の優しい眼差し。
チクッと駆け抜ける胸の痛みも、いつの間にか胸に馴染んでいる。
偽りの微笑みを浮かべてその眼差しに応えながら、彼の名を呼んだ。


「…はい、玲(あきら)さん」


彼…というのは正しくない。
継父。

母の、再婚相手の名を。






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