ACT 3




 階下から染み入るように聞こえてくる歌声。
 一番最初にみことと会った時、巽はこれと同じ歌の旋律を聞いた記憶がある。

 風に乗って運ばれてきた、本当にかすかな歌さえない旋律…。
 普通の人間だったら、絶対に聞こえなかったであろうその僅かな歌声を巽は聞き分けたのだ。

 その歌声に目を覚ましたらしき巽が、まだ闇の気配を残す部屋のベッドの上で身じろいだ。
 まるで胎児のように丸まって、さなぎの様に蠢き返す。

(毎朝、飽きもせずよく歌うな…)

 一瞬、母親譲りの灰青色の瞳を薄っすらと開け、いつも肌身離さず付けている形見の銀色のロケットを確認し、再び瞳を閉じてその歌声に耳を澄ます。
 2階で寝ている巽の部屋までは、本当に微かにしか聞こえてこない歌声なのだが、みことの場合、ただの声だけではなく心の中に染み入る用に広がる波動…ともいうべき特殊な力が備わっている。

 歌に乗せてその力を発動する。

 それまでその手に触れる物の邪気の強さに無意識に反応し返すしか術を持たなかったみことが、ようやく自分の持つ浄化の力をコントロール出来るようになった方法だ。
 それはとても暖かく、遠い昔に母親の胸に抱かれた時の思い出を思い起こさせてくれる波動でもあった。

 巽がその歌声を聞きながら、まるで子守唄を聞いているかのように再びまどろみ始める。
 巽にとって、すでにそれは二度と手放せない安らぎになりつつあった。



「前鬼ーーー!!ご飯できたーーー?」

 水撒きと草抜きを終えたみことが、泥だらけの両手をブラブラしながらリビング越しにキッチンの方を覗き込む。

「出来てる…ってお前!ちゃんと手を洗って来い!!そんな泥だらけの手であちこち触るなっ!俺の仕事が余計に増えるだろう!?」

 あからさまにムッとした表情で、前鬼が声を荒げて言い募る。

「今行こうとしてたの!それに、どこも汚してないってば!!」

 負けずにみことも前鬼を睨み返して、スタスタと洗面所へ向かった。
 ジャブジャブと思いきりよく石鹸を使って泡を洗い流していると。

「ピンポーン…」

 と、玄関のチャイムが鳴った。

「…え?こんな朝早くに一体誰だろう?」

 まだ朝の7時を廻ったばかりである。
 みことは怪訝な表情で玄関に向かった。
 間口の広い玄関に配された戸口のステンドガラスに、黒っぽい人影が映っている。

(…あれ?外の格子扉を通れたってことは、杉ジイの許しをもらってる人ってことだよね?じゃ、巽さんの知ってる人…なのかな?)

 ”杉ジイ”とは、この洋館の”家守り”。
 家の中心に、まるっきり場違いな純和風の部屋があり、その和室の片方の壁一面をなすほどに巨大な、縄文杉の大黒柱があった。
 その杉に宿る老精霊のことである。

 そのため、家全体が杉ジイの張る結界で覆われており、杉ジイの許しのない者は外の格子扉から中に入る事すら出来ない…ようになっていた。

 桜の木を父に持つ半精霊のみことにとって、この老精霊は今や本当のお祖父さんのような存在になり、お互いに心を許せる本当の肉親ような付き合いが始まっていた。

 みことが顔を引き締め、玄関の扉を引き開けた。
 そこには、ダーク・グレイのスーツに身を包み、黒いサングラスを掛けた長身の男が立っていた。

 体格はどちらかと言えば、男にしてはちょっと細身かと思われたが、スーツの上からでもしなやかな筋肉がバランスよくついているのが見て取れる。
 決して筋肉質…というわけではなく、必要な所に必要なだけの無駄なく鍛えられた体…といったところだ。

 パッと見は30代後半のように見えるその男の体からは、周りを圧倒するオーラのような”気”が発散されていて、みことが思わず後ずさる。

「…あ、あの、どちら様…でしょうか…?」

 その男の放つ独特な威圧感に押され、みことの顔は固まり声が上ずってしまっている。
 ス…ッと、一部の隙もない仕草でみことを観察した男が、口を開いた。

「これは…あなたが桜杜みこと様ですね?初めまして、私は鳳家の御当主様のお守り役で御崎 海人(みさきひろと)と申します。以後、お見知りおきを…」

 慇懃に一礼を返す仕草の中に、流れ出た声音と同じ柔らかさが滲んでいた。
 黒いサングラスのせいで目の表情までは分からなかったが、見た目の年齢とはギャップのある物言いと、ズンッと腹に響くような心地良いテノールの声音で喋る口元には、優しげな笑みが浮かんでいる。

 礼儀正しいその身のこなしと意外に優しい喋り方と声音に、みことがホッとしたようにな笑顔を浮かべた。

「…あ、こちらこそ、初めまして!でも、なんで僕の事ご存知なんですか?」

「それは…」

 喋りかけた御崎の声を掻き消すように、2階の方から陽気な笑い声と巽の慌てたような声が響いてきた。

「…ちょっ、おばあ様!悪ふざけもいい加減にしてください…ッ!!」

「あはは…!おっかしー!巽ってばどーしてそう生真面目なの!?せっかくのいい男がそんな事じゃだいなしよ!」

 高いトーンの女の声と、からかって楽しんでいるような声音がこだまする。

「…えっ!?女の…人!?」

 みことが驚いて振り向き、2階へ駆け上がった。

「巽さん!?」

 バンッと、勢いよくみことが巽の部屋のドアを開けると、ベッドの上で、巽が若い…それももの凄く美人で大人の色気を体中から発散させた女…に、襲われている!?といっても過言ではない光景がみことの視界に飛び込んできた。

 巽の上にのしかかるようにして…あまつさえ、その襟元をはだけさせていた女が、みことの方に振り返った。

「あらっ!あなたが”みこと”君!?キャーッ!可愛い…ッ!!」

 ピョンっとベッドから身軽に飛び降りると、いきなり硬直しているみことに抱きついてきた。

「ほんッとに可愛いっ!!きゃー!肌なんてつるつるよ!ねぇ、ねぇ、こーんなつまんない巽なんて放っておいて、おねーさんと遊ばない?」

 抱きついたまま、みことのほっぺたにほお擦りし、にこやかに至近距離で微笑む。

「…え!?あ、あの…ッ!?」

 みことは抱きつかれて硬直したままどうしていいか分からずに、巽に不安げな視線を投げた。

「おばあ様!悪ふざけが過ぎます!!いい加減にしないと、この家への出入りを禁止にしますよ!!」

 巽が怒った口調で言い放つ。
 その巽のほほには、べったりと口紅の跡がつき、はだけられた胸元にはキスマークさえ浮かんでいる。
 ス…ッと肩をすくめた女が、

「ほんっとに頭が固いんだから!一体誰に似たのかしらね!?」

 と、独り言のように呟いて、みことの額に軽くキスを落とす。

「…えっ!?」

「おばあ様…ッ!!」

 巽の咎めるような声音が響き、みことが一瞬にして茹でダコの様に真っ赤になって、目の前の女の顔を見つめた。

 そのみことの視線を受け止める女の瞳は妖しいまでに輝いていて、捉えられたら最後、自分から反らすことなど不可能だった。
 女の瞳に一層艶めいた輝きが宿り、みことの銀色の瞳を覗き込んでくる。

「…美園(みその)様、お姿が見えなくなったと思っていたらこんな所まで!これ以上巽様を怒らせたら、本当に出入り禁止になってしまいますよ!?」

 やんわりとした諭すような口調で言いながら、みことの後から部屋に入ってきた御崎が、みことに絡んでいる美園の手を優しく、しかし有無を言わさぬ雰囲気で剥ぎ取った。

「…あ…んっ!もうっ!!海人まで!つまんないっ!!」

 おもちゃを取り上げられた子供のように、美園と呼ばれた女が膨れっ面になって、プイッとそっぽを向いて立ち尽くす。

 巽とよく似た端整な顔立ちに、少し顔にかかり気味にシャギーカットされた長い艶やかな黒髪と、その間から覗く黒曜石のような大きな瞳。
 女にしては高めの身長に似合った、スラッとしなやかに伸びた手足。
 スレンダーなわりに豊かな胸と、キュッと締まったウエスト。
 男女に関係なく一目見ただけで羨望の眼差しを向けてしまうであろう容貌と、その体から発散されている大人の色香とも言うべき人を引き付けてやまない何か…。
 巽にはない、妖艶さが滲んでいた。

「そんなに怒らないで下さい。困りましたね…では、如何でしょう?下でロイヤル・ミルクティーでも?先日手に入れた美味しい紅茶を持参してまいりましたので…」

 美園の手を取ったまま、御崎がドアの方へエスコートする。
 途端にパッと顔色を輝かせた美園が呆然と立ち尽くすみことを置いて、スル…ッと御崎の腕に腕を絡ませると、嬉しげに部屋を出て行った。

 部屋を出際に、御崎が巽の方を振り返り…軽く会釈を返しながら。





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