求める君の星の名は








ACT 75 〜エピローグ〜







「調子はどう?」


奥庭に設けられた大きな池

その池を見渡せるように襖が開け放たれた座敷の中、敷かれた布団の上で身を起こしていた沙耶が、水を載せた盆を持って部屋に入ってきた佐保子を見上げた

暑かった夏も過ぎ、夕暮れの迫った茜色の空に秋の気配が感じられる
その茜色の空を写して凪いだ池の水面を、時折大きな鯉の影が揺らす
吹き抜けた涼しげな風に、軒先に吊るされた夏の名残りである風鈴がチリンと鳴った


「…少し寝たら楽になったわ」


そう答えた沙耶の表情と声音には、まだどこか硬さが滲んでいる


「そう、良かったわ」


ニッコリと笑み返した佐保子が枕元に水を置き、その場に座して見るともなしに茜色の空に視線を移す
その横顔を見つめながら、沙耶がポツリと聞いた


「…知っているんでしょう?この子の父親が誰か」


問いながら、沙耶の手が無意識にまだ膨みさえないお腹に添えられる
急な体調不良が妊娠からくるもの…と分かったのが、数日前だった


「…あの茶事の後、聞いたでしょ?あの人に会ったのかって。あなたは会ってないって言ったけど、あなた…もう女の顔になってたから」

「っ、」

「私、生まれたときから芸妓置屋の子でしょ?自慢じゃないけどそういうのだけは分かるのよ」


フ…と笑った佐保子が、沙耶に向き直り静かに聞いた


「産みたいんでしょう?」


その問いに、沙耶が迷うことなく頷き返す


「あの人もきっとそれを望んでいるわ。あなたは紀之さんの血を継ぐたった一人の女だから…あの人の望みはあなたでしか叶えられないんだもの」

「あの人の、望み…?」

「ええ。紀之さんの血と自分の血を受け継ぐ子…」

「!?」


思わず目を見開いて、沙耶が佐保子を凝視する


「なんて、私の勝手な憶測だけどね。でも、例えそうでも産むんでしょう?その子はその程度の思惑でどうかなるほどの生半可な気持ちで授かったわけじゃない…違う?」


にっこりと笑ってそう聞いてきた佐保子に、改めて自分はこの人の娘なんだと…そう実感した沙耶が、肩の力を抜くようにハァ…っと大きなため息を吐いた


「ええ、産むわ。あたしがずっと欲しくて、ようやっと得られた大事な子だもの。親戚連中が何を言うてこようと負けたりするもんですか。協力してくれるんでしょう?…お母さん」


硬さの消え去った表情で柔らかく笑み返しながら、沙耶が言葉つきを変え”お母さん”と佐保子を呼んだ
佐保子が村田の家に戻っても、未だ呼んではくれなかったその呼び名で


「当たり前よ。あなたは私の娘で、生まれてくる子は私と紀之さんの孫なんだから」


呼んでくれたその名に対する答えと共に、佐保子が笑み返す


「お父さんも、そう言うてくれるかしら?」

「当然よ。あの人の望みは紀之さんの望み…きっと最後の賭けだったんでしょうしね」


そう言った佐保子が、日が落ちる前に戸締りしなくちゃね…と立ち上がり沙耶に背中を向けた
その佐保子の背に向かい、沙耶が思わず問いかけていた


「…最後の賭けって?」


その問いに、部屋の敷居の所で立ち止まった佐保子が、今にも山際に沈もうとする茜色の太陽を見つめながら答えを返す


「自分の血を繋ぐ為の最後の賭け…かしらね。貴也に子供は望めないもの。だから、見届けたかったんでしょうね、紀之さんに角膜を移植させて紀之さんと一緒に、自分の望んだ子供の誕生を」


フ…と瞳を伏せた佐保子が、その脳裏に紀之と共に焦がれ続けたその男を思い浮かべる



毒そのものだった男

その毒を持って、全てを思うがままに翻弄した男
毒だとわかっていても、魅入られ、惹き付けられる厄介な男

反面

渇ききった砂の様に掴み所のなかった男
何一つ持たず、何も望まず、何にも染まらず無色だった男


そんな男が、たった一つ、望んだもの
その誕生を、どうして望まずにいられようか



チリン…

吹き抜けた渇いた風が佐保子の艶やかな髪を揺らし、ねじれた風鈴が解けて夏の終わりを告げる
その音に誘われるように佐保子が伏せていた瞳を上げ、茜色に染まった池の水面に視線を移した
佐保子の心情を映すかのように、とても静かに水面は凪いでいた

その水面が不意に揺れ、大きく水が盛り上がった瞬間、鯉がパシャン…ッと水しぶきと共にその姿を虚空に躍らせた

沈む直前の茜色の太陽に照らし出された鯉が、キラキラと鱗一枚一枚にその最後の輝きを写して光り輝き、何のしがらみもない一瞬の自由な空に向かって跳ねる


まるで、何かを求めるように


「…きっと、その子は幸せになれるわ。皆に望まれて見守られて、その手に叶わなかった夢をたくさん抱えて生まれてくるんだもの」


振り返った佐保子がそう言って、沙耶と視線を合わせて微笑みあう



夏が終わり、秋が過ぎ、冬を超え

やがて暖かな春が来る

産まれた新しい命が、その手に求めたたくさんの物を掴み取る為に





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