卒業U (舵&七星編)
ACT 3
「伊原…!」
昨夜は一睡もできなかったせいでコックリコックリ…と舟を漕ぎつつ、裏庭の縁側に座ってボーーーっとしていた伊原が、呼ばれたその声に『…へ?』と、顔を上げた。
「浅倉…!?」
伊原の家は昔ながらの古い一軒家で、祖父母も一緒に同居している。
小さいながらも裏庭があり、その周囲は手入れの行き届いた生け垣で囲まれ、裏木戸のある一か所だけから中の様子が伺えるようになっていた。
その裏木戸の側に立った七星が、よう!とばかりに片手を軽く上げて伊原を呼んだのだ。
「え?なに?どうしたの!?」
慌ててサンダルに足を突っ込んだ伊原が縁側から降りて、裏木戸の前まで走り出た。
「浅倉、どしたの?何か用?」
心底驚いたように言いながら、伊原が裏木戸を開け七星を中へと招き入れる。
「…教師になるんだって?」
裏木戸を後ろ手で閉めながら、七星が不意にそう聞いた。
「え!?」
とりあえず縁側の方へ案内しようと歩きかけた伊原が、ハッとしたように振り返る。
「…舵から聞いたのか?」
「ああ」
「そっか。なんか、らしくなくて笑っちゃうだろ?」
はは…と耳朶を染めた伊原が、頭を掻きながらバツが悪そうに視線を泳がせる。
「ホントにな、ぜんっぜん、らしくねぇよ」
聞こえた七星の、その怒気を孕んだ言葉に、伊原が『え?』とばかりに顔を上げた。
目の前に、眉間に深いシワを寄せ、険しい眼差しになった七星が居た。
「あ…さくら?」
「ふざけんなよ、伊原。自分がやってきたことの結果をまともに見る事もしない奴が、教師になんてなれるわけないだろ!お前、あれだけ受験勉強だって言って舵に時間を使わせたのは何だったんだよ!?」
「…っ!」
鋭い声音、険しい眼差し。
伊原が初めて見る、自分に対して向けられた七星の怒った表情に、思わず息を呑んで後ずさる。
そんな伊原を更に責め立てるように、七星が一歩踏み出して言い募った。
「白石の側に居たいなら、何で対等の位置に立とうとしない?何で何もしないままあきらめられるんだよ?それでお前は本当にいいのかよ!?」
「い…いいわけない、いいわけないよ、俺にだってそれくらい…分かってる!けど…!」
「けど、何だよ?」
「俺、浅倉みたいに頭良くねぇし、白石みたいに写真が上手いわけでもねぇ、何にもないんだよ!浅倉だってそう思うだろ?」
「そんなわけないだろ!お前は苦手だった勉強を努力して頑張って俺達と同じクラスになったし、白石があれだけ良い写真が撮れたのだって、お前が側に居たからじゃないか!それに伊原はその場の空気読むのが上手くて皆を笑わせられるし、誰とでもすぐ仲良くなれる。そんな事、誰にでもできる事じゃない」
「勉強はまぐれだよ!白石の写真だって俺なんかが居なくても撮れる!人を笑わせられるからってそれが何だよ?何の役に立つ?なんの意味もねぇだろ!!」
吐き捨てるように言った伊原が俯き加減で悔しげに唇を噛みしめ、拳を両脇でギュッと握りしめた。
「伊原…、」
言いかけた七星が、ハッとしたように口を噤む。
俯いたままの頬を伝って落ちた涙が、ぽた…と伊原の顎の先から滴り落ちた。
慌ててゴシゴシ…!と握りしめた拳はそのままに腕で涙を拭いさり、気恥ずかしげに視線を下向けたまま伊原が言葉を続けた。
「ずっと…幼稚園の頃からずっと白石の側に居て、白石が見る物を一緒に見てきた。白石が夢を叶えていく事が俺の夢だったんだ。だけど、大学ってさ、試験に落ちたら行けないじゃん?白石だけ受かって俺が落ちたら…?って思った途端、凄く怖くなった。俺、自分だけ落ちたら、すげぇ落ち込んでボロボロ泣いちまう。白石に笑って『おめでとう』なんて、絶対言えねぇ。白石の夢が叶う第一歩なのに、それを喜んでやれない自分が居る事に気が付いて、凄く、怖くなったんだ」
「そりゃ、もしも自分が落ちればって考えれば誰だって…!」
「違うよ、浅倉」
「え…?」
「違う。違うんだよ…俺が怖いのは、俺自身の狡(ずる)さなんだ」
「狡さ…?」
訝しげに眉根を寄せた七星に、伊原がようやく顔を上げ、しっかりと視線を合わせてきた。
「俺、本当は昨日白石に会うまで、合格発表だけは白石と一緒に見に行こう…って思ってたんだ。すごく怖いけど、でも、絶対頑張って白石におめでとうって言ってやろうって。だけど、あいつ…浅倉の事、一番の親友だって言ったんだ。浅倉の事は好きだけど、そういう好きじゃないって。俺はさ、浅倉…白石にとって浅倉は、憧れの初恋の相手なんだと思ってたんだ。だから、一番の親友は俺だ!って思い込んでた。だけど、そう思ってたのは俺だけで、白石の中で俺は一番なんかじゃなかったんだ」
「一番の親友?俺が?どう考えたってそれは伊原だろ!」
意外そうに眼を見開いて言い募った七星に、伊原が苦笑する。
「俺もそう思ってたよ、浅倉。でもさ、白石の中では違ってた…あの言葉を聞いた時、一瞬頭の中が真っ白になったよ。じゃあ、俺は何なんだ!?って。一番の親友だって思ってたのは俺だけで、白石にとって俺はただの二番目以下の友達でしかないのかよ!?って。むちゃくちゃ腹が立って悔しくて…俺、その時何考えたと思う?もし、俺がK大に行かないって言ったら、一番の親友だったっていう浅倉と俺と、どっちを取るんだよ!?って、そう思ったんだ。最低だろ?」
「お前!?まさか教師になりたいって言ったのも…!?」
一瞬にして怒りの色を見せつけた七星の表情に、伊原が慌てて首を横に振る。
「それは本当だって!自分の夢ってものが何もなかった俺が、初めて持った夢。これは嘘なんかじゃない。でも、教師にならK大に行ったってなれるだろ?俺はさ、白石の中で占める俺の割合…っていうのを試したんだ。俺が行かないって言ったK大に、あいつは平気で行くのかな?って。俺に側に居て欲しいって思ってくれるのかな?って…さ」
言い終えた伊原が、ハァ…ッと肩で大きくため息を吐く。
よく見れば目の下にはクマが出来、目も充血して赤いままだ。
それに気が付いた七星もまた、小さく吐息を吐いて肩を落とした。
「…で?白石を試したものの何の連絡もなくて、昨日からロクに寝てない…ってとこか?」
七星の図星の指摘に、伊原が今にも泣き出しそうな笑みを浮かべて小さく頷き返す。
「はは…やっぱ白石にとって俺は、居なくなったって何とも思わない、どうでもいい奴だった…ってとこ?」
「それで?」
笑って誤魔化そう…としているのが見え見えの伊原の口調に、七星が敢えて冷めた視線と言葉で真っ直ぐに伊原に見つめて問いかけた。
「え?それで…って?」
「それでどうするんだ?ってこと」
「どうする…って、そんなの…」
「白石から連絡がないから…っていうのを理由にして、自分は何もしてないくせに白石のせいにして、逃げる気か?」
「べ、別に白石のせいになんてしてない…!」
「してるだろ。そうじゃなかったら、何でそんな泣きそうな顔してんだよ?」
「ッ!?し…してねぇよ!!」
カァ…ッと顔を赤らめた伊原が、七星の真っ直ぐな視線から逃れるようにそっぽを向く。
「…そのままお前は何もしないつもりか?」
聞こえた七星の静かな声に、ビクッと伊原の肩が揺れる。
伊原だって分かってはいるのだ、このまま待ってたってダメだってことぐらい。
でも、確かめることが怖くて…怖くて、たまらない。
今だって、着ているジャージのポケットに手を突っ込んで、そこに忍ばせた携帯を握り締めることぐらいしかできない。
「お前の気持ちはよく分かるよ、俺も舵のせいばかりにして、自分から何一つ求めようとはしなかったからな」
「え…浅倉も…?」
ハッとしたように振り返った伊原の前で、七星がジ…ッと胸元まで掲げ上げ握りしめた自分の手を見つめていた。
「怖かったんだ。何かを求めて、それを失うことが。まだこの手に掴んでさえいないって言うのにな。でもな、伊原、失う事を恐れていたら、何も手に入れられない。自分からそれを求めて、欲しがらない限り、この手は空っぽなままなんだ」
「空っぽなまま…」
呟いた伊原が、ポケットの中で握りしめた携帯に力を込める。
確かに掴んだ、形あるもの。
だけど、それだって、伊原自身が欲しがって求めなければ、何の役にも立たないただの無機質な冷たい箱でしかない。
「それが欲しかったら、ちゃんと欲しがれよ、伊原。ちゃんと欲しいって言わなきゃ、誰にもお前の求めてるものが分からないし伝わらない」
「…言わなきゃ、伝わらない…?」
「ああ。俺は、お前とずっと友達でいたい。お前と白石、二人ともだ。この先もずっと、離れ離れになっても変わらずお前たちと友達でいたいって思ってる」
そう言って、七星が胸元で握っていた手を伸ばし、伊原の前でその手を開いた。
「これが俺の欲しいもの。伊原はどう?遠く離れても友達のままでいてくれるか?」
思わず見惚れるほどの…あの舵の笑みともどこか似た笑みを浮かべた七星が、そんな風に言う。
広げたその手に、欲しいと言ったそれを掴ませてくれるか?…と。
今まで一度だって、そんな風に七星から言われたことがなかった。
言われたことがなかったから、七星がそんな風に思ってくれているなんて、知らなかった。
ちゃんと言ってくれたからこそ、それを知ることができる。
自分もそれを望んで良いんだと、心から求める事が出来る。
一瞬、唖然とその手を見つめた伊原の喉が、ゴクンと大きく上下した。
「あ…っ、もちろん!俺もこの先ずっと浅倉と友達でいたいよ!」
一気に笑顔を咲かせた伊原が、ポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、両手で差し出された七星の手をギュッと握り返す。
ポケットの中で掴んでいた冷たく無機質な携帯とは全然違う、凄く温かで力強く握り返して来てくれる七星の手。
確かに掴んだその手のぬくもりから、この先何があっても絶対に失わない…そんな不確かだけど絶対的なものが伝わってくる。
「…お前なら、大丈夫だよ、伊原」
「え…?」
「お前、頑張ってたじゃないか。俺と舵が会える時間を減らすくらい、必死で受験勉強してただろ。だから、ちゃんと合格発表見に行って来い」
そう言って、七星が握った手に力を込めてくる。
「いいな!?」
続けられた、有無を言わせぬ口調での念押し。
「え…、あの?浅倉、ひょっとして何かすげぇ不機嫌…だったりする?」
「当たり前だ。あの時、俺のことよりお前たちの事を優先されたんだぞ、おまけに舵にあんな顔せさやがって…!」
「あんな…顔?」
「っ、なんでもねぇよ。とにかく、ちゃんと見て来い!!」
少し耳朶を染めてそう言い放った七星が、言いたかったのはそれだけだ…!と言わんばかりに握手したその手を解いて帰ろうとする。
その七星の様子を間近に見た伊原の瞳にいつもの悪戯な輝きが宿り、解こうとした七星の手を再び掴んできた。
「ちょっと待った!な、最後に一つだけ聞かせて!」
「なに…?」
その伊原の瞳に宿った輝きに気づいた七星が、警戒気味に腰を引く。
「舵とは、どこまでヤった!?」
「は…ぁ!?」
伊原の瞳の輝きとニヤリと上がったその口元に気づいて、一気に茹でダコの如く耳の先まで真っ赤になった七星が、思わず固まって伊原を凝視する。
「キス…は当然ヤってるよな?そこから先は?まさか、もう最後までヤっちゃったとか!?」
「お、おおお前っ、何言ってるんだ!?」
それこそ足の先まで真っ赤になっただろう…そのあからさまにうろたえた七星の様子に、伊原が驚いた様に思わず掴んでいた手を離した。
「う…そ、もう最後までヤちゃったのかよ…舵の奴、見かけどおり手ぇ早っ!」
「見かけどおりってなんだ!?か、舵はそんな軽い奴なんかじゃないぞ!」
つい真剣な表情で叫んでしまった七星に、伊原がフ…とニヤニヤ笑いを消し去って呆れた様な柔らかな笑みを浮かべた。
「ったく!本気で怒んなよな。でもさ…ホント、変わったよな、浅倉。舵ってさ、やっぱすげぇ奴だよ。浅倉にそこまで惚れさせるんだから」
「伊原…」
「俺さ、白石に対するこの気持ちが浅倉や舵のそういう好きなのかどうか、まだよく分かんないけど…側に居て、一緒に笑っていたい。白石が撮る写真を、これからもずっと、一番最初に見たいんだ」
「…お前な、それを俺に言ってどうするんだよ?白石に直に言え!っての!!」
からかわれた腹いせ!とばかりに、七星がグイッと指先で伊原の鼻先を摘み上げる。
「イッテテテテ…ッ!バカ!鼻が曲がったらどうすんだよ!?」
「その程度で曲がるような鼻かよ!ったく!自分の事に関してはチキンなくせに、他人事に関してはズケズケと…!」
「はは…ホントだよな。でも…明日は見に行くよ、合格発表。結果を確かめて、落ちてても受かってても、その足で白石に会いに行く。うまく言えるかどうか自信ないけど…ちゃんと伝えるよ、俺の気持ち」
「ばーか、絶対受かってるって!お前も、白石も。白石と一緒に教師になるっていう夢、叶えろよ」
「うん…ありがと、浅倉」
「礼を言うのは俺の方だよ、伊原。舵の奴、お前が教師になるって聞いて、凄く喜んでた。舵のためにも絶対教師になれよな!」
「…浅倉、それってまるで舵の嫁のようなノリだぞ?言ってて恥ずかしくね?」
「どいつもこいつも同じことを…!誰が嫁だ…!!」
こめかみにピキッ!と青筋を浮かべた七星が不機嫌絶好調な怒声を響かせながらも、最後は笑って『じゃあな!』と別れを告げる。
振り返ることなく去っていく七星の後姿が見えなくなるまで見送った伊原が、『…けど、男同士で最後までって、どうヤんだ?』と、さすがに聞くに聞けなかった疑問を呟いていた。
読んだよ、という足跡代わりに押してくださると嬉しいです。
続きはもうしばらくお待ちください…<(_ _)>