卒業U (舵&七星編)
ACT 2
正門とは反対側の、校舎裏。
そこから校舎を出た舵と七星が、駐車場への近道である築山へと歩き出した時だった。
「…舵!」
不意に背後から駆け寄ってくる気配と共に、聞き覚えのある声音でその名を呼ばれた舵が振り返る。
「…伊原?」
舵が思ったとおりの人物…伊原が必死で駆けてきたことを物語るように息を弾ませながら、言った。
「っは、…っ、舵、ちょっと、話があるんだけど…!」
意味ありげな眼差しで言った伊原の言葉に、舵がチラリ…と七星に視線を投げ、先に行っててくれる?と、訴えてくる。
その視線にわかったよ、と小さく頷き返した七星に舵が車のキーを投げ、それを受け取った七星が伊原に向かって『じゃ、またな!』と、笑顔で手を振った。
そんな七星に伊原が慌てたように『あっちに行ってもメールしようぜ!』と笑って手を振り返す。
駐車場へと続く曲がり道を七星が曲がり、舵の視界からその姿が消えた途端、舵がいつもの見惚れるような笑みを浮かべて伊原を振り返った。
「…卒業おめでとう、伊原。俺に話って、何かな?K大の発表は明後日だったよね?」
「…うん、ありがと。で、その事なんだけど、俺さ、受かっててもK大には行かない。学園系列のS大に行く事にしたんだ」
「…え?」
告げられた舵が、驚いたように眼を瞬いた。
「俺、教師になる!」
「え!?教師!?」
「うん!俺さ、舵みたいな教師になるって、決めた。この桜ケ丘学園の教師になる!」
「…っ、俺…みたいな?」
「そ!俺みたいなバカのささやかな夢を、頑張れば出来るんだって教えてくれて、叶えてくれたのは舵だぜ?俺、ずっと自分が何をしたいのか…何をすればいいのか分かんなくてさ、悩んでたんだ。だけど、舵と出会って初めて勉強が好きになった。大嫌いだったはずの勉強がさ、楽しくなったんだよ。
でもさ、そういう事を教えてくれる先生って、なかなか居ないじゃん?舵みたいな先生が居たんだって、俺、他の奴に教えたくなったんだ。だから、俺、教師になる!教師になって、俺みたいなバカだって勉強のやり方次第で楽しくなるんだって事を教えてやるんだ!」
「い…はら…!」
これ以上ないほどに大きく目を見開いた舵が、驚きというよりも込み上げてきた喜びで胸がいっぱいになり、言葉を詰まらせた。
舵が教師になった本当の理由…それは自分が生きていたという証を生徒の中に刻み込み、それを拠り所にして自分の過去から逃げ続け居場所を得る…という、身勝手極まりない最低の理由だった。
けれど、その根底にあったのは、高校時代の恩師との出会い…だ。
舵の事を気にかけ、親身になってくれた教師…あの出会いと思い出とが無かったら、舵は教師になろうなどと決して考えはしなかっただろう。
あんな風な…あんな先生になりたい。
例え動機は最低な理由だったとしても、気持ちを突き動かしたきっかけは、その一言に尽きる。
でもまさか、昔自分が抱いたその気持ちが、こんな形で自分へと返ってくるだなんて…!
舵にしてみれば、伊原の言葉はまさに青天の霹靂、驚愕以外の何物でもなかった。
「ごめんな、あんなに受験勉強につき合ってくれたのに。でも、舵のおかげで俺、ようやく夢が持てたんだ。今までずっと、白石と一緒に居られることばかり考えてきた。けど、やっぱそれじゃダメだろ?もう舵も浅倉も居なくなっちゃうし、俺もちゃんと成長しなきゃ白石の足を引っ張ることになっちまう。それだけは…俺、それだけは嫌なんだ…!」
…俺のおかげで、夢が持てた?
ただただ、いつやってくるか分からない”死”に怯え、いつかその時がやって来ても、教えた生徒の過去の記憶の断片に残っていればいい…!
そんな風にしか思っていなかった自分が、誰かの未来に…夢に、関われるなんて!
これ以上の喜びが他にあるだろうか?
徐々に小さくなっていく伊原の言葉に、震え始めたその肩に、思わず舵が手を伸ばしてその体を抱き寄せる。
伊原の、白石に対する想いには、舵も気がついていた。
いつも陽気に振る舞い、人をからかってばかりで、なかなか本音を見せない…そんな伊原の性格は、舵自身とよく似ている。
そして、ずっと親友で七星を通して繋がってきた不確かな白石との絆…それに縋って、それが消えてしまう事に不安を抱き怖がっている点も、七星に対する舵の想いと同じだ。
「…一緒に居られなくなってもいいのか?伊原?」
「…っよく…ねぇよ…!けど、浅倉が居なくなったら…俺、どんな顔してあいつの側に居たらいいんだか…すっげぇ分かんなくて…今までの関係が変わっていくのが、すげぇ怖くて、どうしたらいいかマジ分かんねぇんだよ…!」
「…伊原、」
「はは…、おかしいよな、自分で分かんないなんて。でも、分かんねぇんだ。なんで…普通に、今までどおりに居られないんだか。さっき、白石に同じ大学に行かねぇ…って言ったらさ、もうまともに顔見れなくなって避けちまうし…」
とうとうボロボロと涙をこぼして泣き出してしまった伊原の身体を、舵がギュッと更にきつく抱きしめていた。
自分も伊原と同じくらいの子供だったら、きっとこうして誰かに何もかもぶちまけて縋って、思い切り泣いてしまいたかっただろうから…。
「…きっと白石はさ、一人でも浅倉を追いかけていける…けど、俺は…俺は…自信ない。舵も浅倉もさ、またいつかこの街に帰ってくることもあるだろ?きっとその時、白石も…。だからさ、俺、教師になってこの街で待ってるよ。皆が帰って来る時に居場所がいるだろ?俺…その居場所くらいになら、なれそうだから…!」
舵が居場所を求めて逃げ出したのは逆に、伊原は自らが居場所になることで、現実から逃げ出そうとしている。
同じく教師を志したはずの夢が、また逃げ場所になっていいはずがない。
もう二度と、自分と同じ過ちを繰り返させてはいけない。
ひとしきり泣いた伊原の呼吸が落ち着いた頃、舵が抱きしめていた腕を解き、その顔を覗きこんで言った。
「ああ、もう、ほら!泣くな!伊原!」
伊原の両肩に手を置き、しっかりしろ!と言わんばかりに軽くその体を揺する。
「白石の側に居たいんだろう?」
「…っ、うん」
「あいつが目を輝かせて良い写真を撮るのを、見ていたいんだろう?」
「うん、一緒に見ていたいよ。これから先も、ずっと…!」
「それは白石の事が好きだからだろう?親友としてじゃなく」
「…そう、なのかな?自分でも良く分かんないんだ、自分の気持ちが。ただ、白石の横に居るのが俺じゃなくなったら?って思ったら、なんかもう、どうしようもなくここが痛くなって…!」
そう言って顔を歪めた伊原が、胸元の、心臓のあたりの制服を鷲掴みにする。
舵にもその痛みは覚えがある。
出会ったばかりの頃、七星に持っていた写真を誤解されて決別を言い渡された…あの時のあの痛み。
もしも…もしもあの時、今までと同じようにあのまま逃げて終わっていたら…今、こんな風に伊原の前に立つ事も、七星と一緒に卒業を迎える事もなかっただろう。
俯いてしまった伊原の髪をジッと見つめていた舵が、不意にクシャ…ッとその髪をかき回し、体ごと反転させてドンっとその背中を押した。
「逃げたら、後悔するぞ、伊原!お前のそれは、逃げてたら一生分かんないままだ。答えが知りたいんだろう?」
そう言った舵を、伊原が振り返る。
「…んだよ、答えって。もう教師でも先生でもないくせに!」
「甘いぞ、伊原。卒業したってお前は俺の生徒だよ」
「え、」
ぽかん…とした顔つきになった伊原に、舵が意味ありげな笑みを投げた。
「いつでも相談にのってやるから答えは必ず自分で出せ、伊原。教師を目指すのなら、逃げ場所にするんじゃなく答えを出すためのものにしろ!お前なら、やれるよ!」
かつて伊原が、七星の後を…白石の夢のために…追いかけたい!と言い募ったあの時と同じ言葉尻で、大丈夫だから!と舵がエールを送る。
「っ!?…んだよ、舵って、ホントに詐欺師だな」
「最上の褒め言葉だ」
あの時と同じ言い回し、言い返し方。
言いあった二人が、不意に肩を揺らして如何にもおかしそうに笑い合う。
…そうだった、舵も浅倉も居なくなるわけじゃない…いつだって前を見れば、前へと進もうとする限りそこに居る。
そのことに思い至った伊原が、ホッとしたように小さな吐息を吐いた。
「俺、舵に会えてホントに良かったよ!」
「それは俺の台詞だ、伊原」
最後にそう言って、伊原が笑って手を振りながら体育館のある方へと駈け出した。
『さよなら』の代わりに『またな』と、言い合って。
その背中が見えなくなるまで見送った舵が、駐車場へ向かおうと歩き出した瞬間。
「…っ、舵!」
不意に剣呑な雰囲気を含んだ鋭い声音でその名を呼ばれ、舵がハッとしたように振り返った。
「!?白石…!?」
どう考えても、今までの伊原とのやり取りを見ていたんだろう…としか思えない位置取りで校舎の影から飛び出してきた白石に、舵が驚いて息を呑む。
舵を見据える白石の表情には、一目でそれと分かる怒りの色が滲んでいた。
「あんたなんて、居なきゃ良かったのに…!そうすりゃ浅倉だって伊原だって…!」
「しらい…し?」
「あんたなんて、大っきらいだ!」
捨て台詞を吐いて、白石が脱兎の如くその場を逃げ出した。
「ちょ…っ!待て、白石!!」
あわてて呼び止めた舵だったが、見る間に走り去って視界から消えたその背中に、追っても無駄か…と追いかけようと踏み出した足を止め、盛大な溜息を吐きだした。
「あちゃ…、あれはどう見ても誤解してる…よなぁ」
白石が居ただろう場所から聞きとれた伊原との会話は、そう多くなかっただろう。
舵の取った行動だけを目の当たりにしたら、それはまるで別れを惜しむ淡い恋心を抱いた生徒と教師…と誤解されても仕方がない最悪の状況だと言えた。
「しっかし…大っきらい…かぁ。俺みたいな教師になる…って言われた後にそれは無くないか?」
実を言えば、舵は今まで面と向かって大っきらいだ!…なんていう言葉を言われたことがない。
舵みたいな教師になりたい…という言葉もしかり。
初めて聞いた言葉が、まさに天国か地獄か…というほどの雲泥の差。
「まいったなぁ…」
複雑な表情を浮かべた舵が、最後の最後でまさかあの二人組の事でこんなに悩むことになろうとは…!と嘆息しつつ、七星の待つ駐車場へとたどり着いた。
「はあぁぁぁぁ……」
浮かない表情のまま舵が車の中に乗り込んできたかと思うと、シートの背もたれに深く沈み込んで盛大な溜息を吐く。
「…?なに?どうかしたのか?」
「…大っきらい、だと」
「は…ぃ?」
「白石の奴に大っきらいだって言われた」
「はぁ!?なんで!?って、伊原じゃなくて白石?」
確か呼び止めたのは伊原だったはずじゃ?と言う疑問符を浮かべつつも、相手が伊原だろうが白石だろうが舵にそんな言葉を吐く理由が七星には皆目見当がつかない。
驚いている七星の方へ向き直った舵が、先ほど起こった出来事を簡略に説明した。
「…と、まあそんなわけでね」
「なるほど、つまり誤解を招くような行動をとった、あんたの自業自得ってことか」
伊原を抱きしめていた…という事実に、眉間にしわを刻んだ七星が冷たく言い放つ。
「なーなーせ〜!」
情けない声を上げた舵に、七星あきれたように嘆息した。
「だいたい、あんたは面倒見が良すぎるんだよ!俺の受験が終わった途端、俺をほったらかして伊原と白石に付きっきりだったし…!」
そう、10月にあった七星のオックスフォード受験が終わった途端、舵は伊原と白石の受験勉強に付き合うようになり、それは必然的に七星と二人きりで過ごす時間まで削る結果になっていたのだ。
とはいえ、無事にオックスフォードに合格した七星もまた、美月のもとで企業家としての勉強をする時間が増え、先にほったらかしにされた舵がその空き時間を利用して二人に付き合い始めた…ことが原因でもあるのだが。
「先にほったらかしたのは七星のくせにー…」
「…じゃ、あんたは美月さんに逆らえるのかよ?」
「…あー…ははは、遠慮する」
「それみろ」
逆らえば、後でどんな目にあわされるやら…!という美月だけに、二人が顔を見合せて、まぁそこはお互い様だな…と苦笑し合う。
「でも…まさか伊原の奴が教師になるって言い出すとは思わなかったな…」
不意に遠い目つきになった舵がそう言って、ふ…と微かな笑みを口元に浮かべた。
それは七星が今まで見たことがないほどの、どこか満ち足りた笑みで…。
そんな舵の表情を、七星が不満げに見据えた。
「…なんか、嬉しそうだな?」
「うん…そうだね。凄く、嬉しいよ。まさか教師としての俺が誰かの目指す夢と関われるなんてね…思ってもみなかったから」
噛みしめるかのようにしみじみ…と言った舵の、満ち足りた穏やかな顔。
他の誰かが、舵にそんな表情をさせた…その事実を目の当たりにした七星の中で言い知れぬ嫉妬心が沸き上がる。
…そんな顔になるのは、俺に関する事であって欲しかったのに…!
なのにその相手は、伊原。
自分の信頼する親友…だったし、伊原が舵に対して恋情を抱いているわけではないと、はっきり分かっているからまだ冷静でいられた。
でも、もしもこれが、七星の感知し得ない他の誰かだったら…?
そう思っただけで、息苦しいほどの憤りが込み上げてくる。
まさか自分の中にこんなに激しい感情が眠っていたとは…と、舵との関係をはっきり”恋人”だと切り替えた途端、自分の中で芽生えたその感情に、七星自身が驚きを隠せない。
「…ん?七星、どうかした?」
まさか自分の表情が七星にそんな感情を湧き上がらせているなんて思いもしない舵が、自分の顔をジ…ッと見据えている七星に気がついて、無邪気に笑み返す。
「…鈍感」
「…え?」
鈍感というのなら、舵の中でそれはむしろ七星の方で…。
そんな認識の強い舵からすれば、今、七星が憤るほどの嫉妬心に駆られている…だなんて欠片も思いつけない。
その舵の心情を物語るポカン…とした顔つきに、七星が憤りを落ち着かせつように一つ大きな溜め息を吐きつつ言った。
「…ったく!俺、明日伊原の所へ行ってくる」
「はぃ?なんで七星が!?」
「あんたの時間を奪って受験勉強に付き合わせたのは、伊原だろ。なのに合格発表も見に行かないなんて、そんなの俺が許さない。あんたは白石の所に行って、きっちり誤解を解いて来い!分かったな!」
有無を言わせぬ迫力で言い募った七星の態度に気押され、舵が降参ポーズで『わ、わかったよ…!』と目を瞬かせた。
生徒でなくなった…途端の七星の押しの強さに舵が一抹の焦りを感じつつ…でも、まぁ…それも嫌じゃないかも…と、惚れた弱みで口元に笑みが浮かぶ。
「…嫁さんの尻に敷かれるって、きっとこんな感じなんだろうね」
「な…っ、誰が嫁だ!!」
嬉しげに言い放った舵に、七星が瞬時に真っ赤になって言い返す。
「照れない、照れない〜♪」
「だから誰が…!」
そんな他愛のない会話を交わしながら車は静かに発進し、七星の卒業式は穏やかに終わりを告げた。