ACT 3

 

突き抜けるように高く、すがすがしい空気で満たされた早春の朝。

早咲きの桜がその青い空に色を添えている。

気ぜわしく行きかう人々の流れに逆らって、一人、大きなスポーツバックを肩に担ぎ上げた青年がその早咲きの桜を見上げていた。

『・・・ええ色やなぁ・・。青い空に冴える薄紅色・・!これぞ日本の心やで!』

よく日に焼けた健康的な肌に、キラキラと好奇心旺盛な子供のような輝きを放つ黒真珠の瞳。

桜に向かっていかにも嬉しげに笑った口元から白い歯がこぼれた。

周りを行きかう、空を見上げるゆとりもない人々の不審そうな目をものともせず、こぼれた歯をそのままに目を細めて・・どこまでも高い青い空を仰ぎ見る。

『・・・っはっ・・・くっしゅんっ!!』

派手に大きなくしゃみをしたはずみに、手にしていた一枚の紙切れがハラリと落ちた。

『・・なんでやろなー・・?空見上げるとくしゃみがでるんは・・・』

ヘラ・・っと人懐っこい満面の笑顔を浮かべて足元に落ちた紙を拾い上げる。

『・・・にしても・・・!住所だけでは頼りないなぁ・・。電話・・したかてあの巽が素直に道教えるわけないやろし・・。こら意地でも見つけださな男がすたる・・!』

その青年の書いたらしき角ばった太い文字が、白い紙の上で窮屈そうに並んでいる。

達筆の域に達したその文字は、一つの住所と一つの電話番号を綴っていた。

ピンッと指先でその紙を弾いた青年の瞳にフツフツと闘志が湧き上がる。

『高野の坊さんを舐めんなよ!待っとれ!巽・・!』

大袈裟にバッグを再び担ぎ上げ・・ヒョイッと片手を上げて、桜に向かって手を振ると・・迷いのない足取りで歩き始めた。

 

 

 

朝日の光を遮る分厚いカーテンが、その厚い布地すら通して照らす朝日の薄闇の光の中で微かに揺らぐ。

その揺らぎを引き起こした空気の振動・・・

耳をつんざく無機質な電話の呼び出し音が鳴り響いていた。

暗がりの中・・モゾ・・ッとうごめいたベッドの膨らみがその音を拒否るかのように布団を強く引きかぶる。

けれど・・・

いつまでたっても鳴り止まないその音に・・・遂に業を煮やしたかのように、薄闇の中でもはっきりとその輪郭を描き出す陶器のように滑らかな腕が、正確に電話の位置に伸びた。

受話器を上げ、即座に切ろうとした瞬間、

『いつまで寝とんねんっ!!お天道様、とっくに高いとこに居んねんで!?さっさと起きんかいっ!!』

ガラの悪い関西弁が部屋中の空気を震撼させる。

ピクッ・・と受話器を持った長い指に力がこもり・・・

そのまま引き被った布団の中に受話器を引き入れた腕が視界から消えた。

『・・・誰だ・・お前・・・』

起き抜けの・・・最高に不機嫌な声が低くこだまする。

『誰?やて!?この声聞いたら一発で分かるやろ!?俺や俺!!辻っ!つ・じ・そ・う・ま!!この名前を忘れたとはいわさへんで〜〜!』

一気に力が抜けるような陽気な声と、部屋中にこだまするような声量に・・その受話器を遠ざけた腕が再び布団から突き出され、もう一方の腕が頭を抱える。

『お〜〜〜い?聞いてんのかぁ〜〜?』

能天気に響き渡るその声に・・・

『・・・ハァ・・・・ッ』

と、深いため息をついた・・・鳳 巽がムクッと起き上がり、

ベッドの端に腰掛けて、うなだれたまま髪をかきあげる。

その拍子に、胸元からこぼれた銀色に輝く小ぶりなロケットが薄闇の中で輝きを放った。

『・・・・朝っぱらから騒々しい・・。何の用だ?くだらない用事なら、ただじゃおかない・・・!』

返答次第で、有無を言わさず切ってやるっ!

と言わんばかりの迫力で・・・巽が受話器を握る指先に力を込める。

『そーんなツンツンした言い方せんでもええやん!相変わらず愛想のない野郎やな。それはそうと・・・随分と念入りな結界張ってんねんな?入りとうても入られへんやん!』

その言葉に、巽の灰青色の瞳が大きく見開かれる。

『・・っ!?お・・い、お前・・まさか・・・・』

『ピンポン!ピンポ〜ン!ただ今俺の目の前に、なーんや白い壁でグルッと囲まれたけったいな建物が建っとんねん。しかも強力な結界つきや!根性悪いでー!鳳 巽くん?』

『な・・っ!?』

驚愕の表情に変わった巽が弾かれたように立ち上がり、分厚いカーテンに手を伸ばし開け放つ。

高い格子窓から一気に朝日のまぶしい光が注ぎ込み、巽の視界が一瞬真っ白になった。

その光を遮るようにかざした手の下で、しかめられて細まった瞳に・・・開け放たれた格子扉の外側に立って手を振る、辻 綜馬のにこやかな笑顔が飛び込んでくる。

『・・・な・・んで、お前、この家が・・・・!?』

2階にある寝室の窓から見下ろすように綜馬を見つめた巽の瞳の中で、綜馬の表情が一瞬、キッ・・と引き締まった。

『・・・高野山金剛峰寺、大僧正じきじきのご指名による代理人・・・辻 綜馬や!鳳本家の代理人に話がある!』

先ほどまでのふざけた口調から一転した真剣な声音が、一瞬にして静寂を生む。

『・・・なるほど・・・そういうわけか・・・・』

掴んだままのカーテンを握る巽の手が、グッと更にそのひだを寄せた。

『なーなー!それよりそれより早、この結界解いてんか?無理やり破ってこの家守っとる杉の木のじっちゃんに嫌われたないしなー!』

再び、へら・・・と笑った綜馬が軽い口調でその結界の主をあやまたず指摘する。

『・・・さすが・・高野山金剛峰寺、次期大僧正候補と言われるだけの事はある・・・か。ちょっと待ってろ!』

そう言って唐突に電話を切ると、格子窓から巽の姿が見えなくなった。

受話器を元の位置に戻した巽が、まだ薄闇の残る虚空に向かって鋭く言葉を放つ。

『前鬼!後鬼!』

途端に闇の中から滲み出るように・・・二つの黒い影が現れた。

『なんだ?』

と、斜めに構えた尊大な雰囲気で立つ、鋭いサファイヤの輝きを放つ青い目をした前鬼が言う。

『お呼びですか?』

と、その前鬼の肩に手を置いて、エメラルドの輝きを放つ緑色の目をした後鬼がその目を細めて言う。

『杉ジイに結界を解くように言って、綜馬を杉ジイの部屋へ案内してやってくれ。俺は顔でも洗ってくる・・・』

『承知・・!』

二人同時に短く答えると、かき消すように姿が見えなくなった。

その二人が消えた空間に向かってため息をついた巽が、振り返って分厚い辞書や資料が山と積まれた机を見つめる。

『・・・・依頼以外の仕事も終わって、ようやくゆっくり出来ると思ったのに・・・・!』

着替えるために手をかけた襟元で・・・銀色のチェーンが微かに揺れた・・・。

 

 

ステンドガラスが美しく配されたドアの中・・・

重厚なオーク材が惜しげもなく使われた、古風な北欧建築。

そこにあちこちと改装が加えられ、今風にアレンジされた使い勝手の良さそうな玄関先で、その雰囲気とは程遠い・・・にぎやかな関西弁が響き渡っていた。

『おおっ!?前鬼?後鬼?おっと・・!その緑色の瞳は後鬼の方やったな!式神君たちも元気そうで何よりやん。・・・で?前鬼の方は相変わらず、ムッツリ不機嫌野郎のままか?』

痩身の体にぴったりとした黒い装束。

セミロング程度に伸ばした黒い・・濡れ羽のような艶やかな髪を後ろ手でくくり、緑色の瞳をわずかに細めた後鬼の軽やかな声が答える。

『ええ、おかげさまで・・・。僕たちは以前のまま、何も変わってはいませんよ?こちらです。どうぞ・・・』

和やかに微笑んで・・・家の中心にある、いかにも場違いな純和風的装いの部屋へと案内する。

『・・・・しっかし!ほんまに不思議な家やな・・・。北欧建築と今風の設備、そこにいきなり純和風・・やもんな。ま、巽らしいと言えば巽らしいか・・・』

綜馬がキョロキョロと目線を走らせている間に、後鬼が役目は終わった・・・とばかりにかき消すように消えてしまった。

『・・・・・あ・・・れ?相変わらず愛想なしやなぁ・・・。ま、前鬼よりは全然ましやけどな・・・・』

ヒョイッと肩をすくめて呟くと、和室の襖の前でキチッと正座をし、ピン・・ッ!と背筋を伸ばした。

白いポロシャツに茶色の革ジャンとデニムのストレート・ジーンズ。

そのラフな服装によく似合う、短く刈り上げた短髪。

いかにも体育会系・・・!といったしなやかな筋肉を忍ばせた無駄のない体躯。

人懐っこそうでいて、ピンっと一本筋の通った太い眉と、真っ直ぐな・・黒真珠のような輝きを放つ双眸。

不用意に喋りさえしなければ・・・結構真面目な好青年・・・に見える辻 綜馬は、襖に向かって真剣な面持ちで野太い声を発した。

『はじめまして・・!高野山金剛峰寺代理、辻 綜馬と申します。若輩者ですが、よろしくお見知りおきを・・・!』

ぺコンッ・・!と頭を気持ちよく下げると同時に、襖の戸が音もなくスッ・・と開かれた。

『・・・・・許す』

どこからともなく、重々しい威厳に満ち溢れた声が響いた。

『失礼致します・・・!』

短くそう答えた綜馬がスタスタ・・と和室に入り、部屋の真ん中でドカッと腰を下ろして胡坐を組んで座った。

目の前に・・・巨大な大黒柱!とも言うべき柱。

和室の片方の壁一面がその巨大な柱で支えられていた。

その・・・あまりに常識を逸脱した巨大さに目を見張り、息を呑んだ綜馬であった。

『・・・ふぉっふぉっ・・・面白い奴じゃなぁ・・お主。高野の小坊主にしては、肝が座っとるわい・・・』

大黒柱の中心付近がグニャリ・・と澱み、シワに埋もれたと言っていいような・・・老人の顔が浮かび上がってきた。

なんともいえない、深い、優しい眼差しで綜馬を見つめている。

『・・・いや、お褒め頂いて恐縮です。しばらくの間巽の奴を借りますので、留守をよろしくお願い致します・・!』

そう言って、綜馬が深々と頭を垂れた。

『ふぉっふぉっ・・・。好きなだけ借りていけ。なにやら・・・あ奴にとって大きな変化がありそうな気配が漂うておるわい・・・それが吉となるか凶となるか・・・おもしろそうじゃのぉ・・・・』

シワだらけの顔に更にも増してシワが寄り、楽しげな笑い声をあげる。

『・・・・勝手に人の未来を予見して遊ぶのはやめてくれないか・・・?杉ジイ・・・!』

いつの間に現れたのか・・・

白いコットンシャツとブラック・ジーンズで細身の体を包んだ巽が、襖口に佇んでいた。

『よおっ!巽!相変わらず無駄にかっこいいやっちゃなぁー!翻訳家・・・なんちゅう地味な仕事辞めて、モデルにでもなったらええのに・・!おまえやったら、あっちゅう間にスーパーモデルになって稼ぎまくれるでー?』

『・・・・お前・・ちっとも変わってないな・・・』

深い溜息と共に、ウンザリ・・・と言った顔つきになった巽は・・・明るい部屋の中で見ると綜馬の言うとおり、これ以上整いようがないと思われるほどに整った顔立ちをしている。

その、一目で異国の血が混ざっている事を伺わせる彫の深い顔立ちに、灰青色の切れ長の瞳は・・・思わず視線を釘づけにするほど、神秘的で迫力のある容貌を作り上げていた。

大黒柱の顔が揺らいでその気配を消しつつ・・・巽の方を向いて杉ジイが言った。

『巽よ・・・お前さん次第で大きく変わる・・・自分に、正直にな・・・・』

『・・・正直に・・・ね・・・・』

巽が眉をひそめて呟き返す。

その呟きに大きく頷き返した老人の顔が、グニャリ・・・と澱んで・・・それっきり沈黙した。

『・・・さて!杉のじいさんに挨拶も出来たし!本題の話に移ろか!?』

ポンッと膝を打つように勢いよく立ち上がった綜馬が、スタスタと巽の横を通り過ぎ、和室を出ると・・・迷いもなくリビングのソファにドカリッ・・と腰を下ろした。

『・・・・よく・・この家が分かったな・・・?』

綜馬の後を追うようにリビングに入った巽が、カウンターキッチンに寄りかかりながら・・・まだ眠そうな目元をほぐす。

『うん・・?お前んとこの婆さんに聞いてきたんやけどな。えらい不親切な教え方で迷ったで。まあ、近くまで来たらこの結界やろ?普通の家でそんなもん張っとるとこあらへんやんか・・・?』

それを聞いた巽の口元に微かな笑みが浮かぶ。

『お前・・・!鳳のおばあ様、一番苦手じゃなかったか!?よく聞きに行く気になったな・・・?』

『あほうっ!俺かて行きたくなかったわっ!!』

ムッとした顔つきになった綜馬が、巽を恨めしそうに見上げた。

『さんっざん、からかわれてオモチャにされたわっ!今回は表の仕事として正式に高野から鳳本家への依頼やったんや!せやのに、本家に行ってみたら、お前はそこに居らへんし、分家の奴らには嫌味言われるし・・!おまけに婆さん、めんどくさいとか抜かしてお前の住所と電話番号だけ教えて追い出しやがった・・・!』

バキバキッ・・と盛大に指を鳴らした綜馬が、ギリギリと歯を食いしばっている。

古来より・・・日本を霊的に守護する役割を果たしてきた陰陽師の名門、鳳家と、霊峰高野山のもと、同じく守護を司ってきた密教集団である。

協力、反発を繰り返しながら・・・互いの立場を維持してきた者同士、あまり良い感情を持ちえるはずもない。

そんな中。

お手上げ状態になった高野山が、頭を下げて鳳家に依頼に行ったというのに・・・この扱いである。

綜馬の実力を示すにはあまりに若いその年齢と容貌・・・が、高野山の代理と言う重役を軽んじられる結果に繋がっている・・・という事も充分分かった上での綜馬のこの怒りであった。

『・・・・すまなかったな・・・。おばあ様はともかく、分家の奴らがお前に対してとった態度については・・・俺が謝る。申し訳なかった・・・』

苦々しい表情になった巽が、スッ・・と綜馬に対して頭を下げた。

『あ、あほっ!お前が頭なんか下げんなっ!ま・・・確かに分家の奴らの態度にははらわた煮えくり返ったけど・・・実力のないもんに何言われたかて気にするような玉やないんは知ってるやろーが!』

慌てたように身を乗り出した綜馬に・・・巽が顔を上げ、訝しげに眉根を寄せる。

『・・・・言われてみればそうだな・・・。じゃあ、一体何に対して怒ってる・・・?』

『おまえっ!!』

ビシッと巽を指差した綜馬が真剣な表情になって言い募る。

『何でお前が未だに本家の当主やないねん!?俺は・・・お前以外の奴、鳳の当主とは認めへんし、ましてや頭なんて下げとうもないんや!その上・・・こないなとこに引っ込んで、分家の裏の依頼ばっか受け取るそうやないか!なんで・・・・・』

言いかけた綜馬の言葉が止まる。

綜馬を見つめた巽の灰青色の瞳が・・・それ以上その事に触れるな!・・と、無言の圧力を持って底冷えのする冷たさを放っていた・・・。

『・・・・それに関しては謝る気はない。言うだけ無駄だ・・・!』

この上ない冷たい口調でそう言って、キッチンに入った巽がマグカップにインスタントコーヒーを大量に放り込んで、かなり濃い目のブラックコーヒーを入れ始めた。

その有無を言わせぬ拒絶の冷たさに・・・綜馬が大きくため息をついて深々とソファーにもたれかかる。

『・・・・あほ・・・・っ!』

小さく呟いた綜馬が、一転して陽気な声で巽の背中に言い放った。

『たーつーみー!俺、甘めのカフェオレなー!牛乳たっぷりで頼むでー!』

『・・・・・ったく!』

昔から何一つ変わらない、綜馬の天真爛漫さと・・・振り返ったときにある屈託のない笑顔に、巽が苦笑を浮かべた。

ほとんど人と関わる事をしない巽が、唯一普通の友人のように振舞えるのがこの綜馬ただ一人である。

巽がどんなに無視しようが突き放そうが・・・綜馬は今と変わらぬ笑顔と切り替えの速さでそれをいとも容易く受け入れてしまうのだ・・・。

『・・・あっ!そうや!前鬼!!玄関に置いてある俺のバッグ持って来てんか!?』

突然思い出したように虚空に向かって呼びかけた綜馬の言葉に、前鬼の返事は・・・ない。

『・・・・前鬼!取って来てくれ!』

『・・・・承知・・・』

あきれたような視線を綜馬に投げた巽が命じると・・・ものすごく不機嫌そうな低い声が返ってきた。

・・・・と、

突然綜馬の目の前に、バッグが空中から出現し、ドサリッと放り投げだされたように落とされた。

『おいっ!前鬼!もう少しましな置き方できへんのかいな!?』

ムッとした表情で、綜馬がバッグの投げ落とされた虚空を睨む。

フイッとその空間に姿を現した前鬼が、青い冴え冴えとした瞳で綜馬を見つめた。

『巽の命令でなければ誰がお前の荷物など運ぶか!持って来てやっただけありがたく思えっ!』

言い捨てると、フンッと顔をそむけて前鬼が掻き消えた。

『・・・っのやろー・・・相変わらず可愛げのない態度やな・・・・!』

ムッとした表情で虚空を睨むその仕草も・・・巽の前で何度繰り返されてきた事か・・・。

『・・・何が楽しくてわざわざケンカを売ってるんだ?後鬼に頼めばいいだろうに・・・』

巽が心底あきれた表情で、温めた牛乳をカップに注ぎ込む。

『ほっといてくれ!こう見えても俺は博愛主義者なんや!気にいらん奴でも一応声はかけとかんとな!』

ガリガリ・・と仏頂面で頭を掻く綜馬を湯気の向こうに見やりながら・・・巽の口元に自然と笑みが浮かんでいた・・・。

 

 

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