野良猫
ACT 25(光紀)
『…みず、』
猛烈な喉の渇きで意識が戻り、一番最初にそう思った。
目を開けたくても、瞼が異様に重くて目が開けられない。
カラカラに渇いた喉はひりついて、口の中も乾ききっている。
出そうとした声は、空気を吐き出すだけだった。
全身が重く、意識は目覚めても身体を動かす事は叶わなかった。
まるで、重く、粘着性のあるコールタールの中にでも沈んでいくかのような…そんな堕ちていく感覚。
どこからか香る…何かの甘い香り。
思考が溶け堕ちていきそうになる。
けれど
不意に、思い出したように背中に走った鈍痛に、足の間を不快に濡らすヌルつく感覚に、イヤでも現実を思い知らされる。こうなった経緯が働かない脳内でゆっくりとリプレイされる。
クスリのせいで何もかも忘れ、覚えていなければどんなに良かったか…!
苦痛は快楽へとすり替えられ、身体は人形のようになっていても、どこかにまだ、プライドだけは残っていた。
このままで終わらせない、絶対に。
ずっと、そう思って耐えていた。
『…っ、ヤりたい放題…ヤりやがって…!』
悔しさと羞恥と、煮えたぎるような怒り。
塚田を含め、全部で5人。
一人を除いて見覚えがあった。
ずっと、無表情でビデオを回していた男…。
その男だけは、見かけたことのない奴だった。
「…そろそろ起きた?」
聞き覚えのない声が頭上から落とされて、重い瞼を何とか開け、その声の主を見上げた。
…こいつ!?
見上げた先にあったその顔は、ビデオを回していた男だった。
塚田の仲間とはとても思えない、身なりのキッチリとした、生真面目そうな…。
「可哀相にね、議員の息子でいいとこのお坊ちゃんで、世間知らずで苦労知らずだったのに。塚田のせいで全身傷だらけで、その上、精液まみれだなんて」
憐れんだような声音と眼差し…だけど、そこに隠すことなく滲んだ蔑みに、カッと身体が熱くなった。
身体さえ動けば、飛び起きて殴りかかっている所だ。
「…身体、動かないだろ?でも、気絶してた分クスリを吸わないで済んだのかな?あいつらより正気みたいだ」
クス…ッと笑って男の口元に浮かんだ笑みに、ゾッとした。
どう言っていいか分からないけれど、人の皮を被った悪魔…そんな笑み。
男の動いた視線を追うように、向かい側へと視線を向けると、薄暗い部屋の中、事務机などが端に寄せられて作られた広い空間に、たくさんの缶ビールや酒ビンと共に塚田達が転がっていた。
それぞれ壁に寄りかかったり、大の字に寝ていたり…しているけれど、一様にその目に正気がない。
どこを見ているのか分からない、どんよりとした意識のない目。
どうみても、クスリのやりすぎで正気を失った時の目だ。
「睡眠導入剤を酒に混ぜたら、面白いくらいすぐに寝込んだよ。後は、香を焚くのと同じ要領でクスリを部屋いっぱいに充満してやった。こいつら全員、夢の中だよ」
さっきから微かに香っている甘ったるいような・・・変な匂い。
昨夜打たれたクスリはもう抜けているはずなのに、いまだ動かない身体は、焚かれたクスリを吸い込んだせいらしい。
…なんだ?こいつ?塚田の仲間じゃなかったのか!?
クスクス…とさも可笑しそうに肩を揺らして塚田達の有様をあざ笑っている男の意図が見えなくて、感じる悪寒に身体が強張った。
塚田達の比じゃない。
こいつ、普通じゃない。
「あ、そうだ。君のペンダント、結構いい値で売れたよ。おかげでいい酒が買えた。こいつらの最後の晩餐にはもったいないくらいのね」
売った!?
あれを!?
それで酒を買っただと!?
怒りで頭の中が真っ白になりつつも、そいつが言った言葉尻に眉間にシワが寄った。
…最後の晩餐?なに、それ?
その俺の疑問を表情で見て取ったのか、男がゆっくりと身を屈め、俺の顔を覗き込んでくる。
「ねぇ、君もこいつらが憎いだろ?散々痛めつけられて、犯されてさ。殺してやりたいくらい、憎いだろ?」
「…っ!」
「こんな奴ら、殺しておいたほうがいいんだよ。生かしておいたら、また、俺や君みたいな犠牲者が増えるだけだ。そう思うだろ?」
…俺や君?何?こいつもなにか…?
「だからさ、君、殺しちゃってよ。人の人生むちゃくちゃにしたくせに、その顔さえ覚えてない、最低な奴らをさ」
「ッ!?」
思わず目を見開いて男を凝視した。
視界いっぱいに写る男の顔には、罪悪感の欠片もない、満面の笑み。
笑う顔の中でその目だけが笑わず冷め切って、冗談でもなんでもない事を俺に伝えてくる。
「大丈夫…きみは議員の息子、何をやったって親がもみ消してくれるだろ?それに、ほら、これ」
男が指差した先にあったのは、こいつが昨夜撮り続けていた、ビデオ。
「警察が何かうるさく言ってもさ、これ見たら君がどんな目にあったか一目瞭然。誰も罪になんて問わないよ。もっとも…そうなったらなったで、警察とか検事とか、大勢がさ、可哀相…とか言いつつ好奇の目で見るんだよね。君が犯されてるシーンをさ」
クスクスクス…
聞こえてくる耳ざわりな笑い声に、怒りというより、憎悪で神経が焼ききれそうになる。
…なんで、こいつ、こんな…っ!?
動かない身体、カラカラに渇いて出ない声。
自分の身体のはずなのに、全く思うようにならない。
そんな俺の身体をまるで人形を扱うようにして、男が上半身を引き起こす。
俺の背中側に廻って背後から支えられたかと思うと、脇の下から伸びた男の手が俺の手を取り、その手の中に小型の黒光りする拳銃を握らせた。
セーフティーを落とし、引き金に俺の指をかけ、男が背後から俺の腕を支えるように一緒に腕を伸ばす。
「…ほら、よく狙って。簡単だよ、そこにかけた指を引けばいいだけ。あれ?震えてるの?大丈夫だって、殺したのは君でも、クスリによる心神喪失状態…罪にはならないんだからさ」
耳元で、笑いを含んだ声が囁きかけてくる。
俺の身体が俺の意志でどうにもならないのをいい事に、俺の指に重なった男の指が、何の躊躇もなく、次々と引き金を引いていく。
骨に響く衝撃と、それに反してあまりに軽い銃声と。
全部で、4発。
転がった4つの死体。
まるで縁日の射的で的でも射るかのような…。
…なんだ?これ?
目の前で起こっていることと、思考とが、上手く繋がらない。
撃ったのは俺の意志じゃない。
それでも、引き金を引いた感触は指先に残ってる。
「いい筋してるね。百発百中!弾が2発も残ったよ」
その言葉とともに支えを失った身体が、糸の切れた操り人形のように床の上に転がる。
…クソッ!動けよ!俺の身体!!
叫び声すら上げられず、心の中で怒声を上げる。
重い体はビクともせず、握らされた拳銃を離すことすら叶わない。
唯一僅かに動く顔を必死で動かし、薄い笑みを浮かべながら俺を見下ろしている男を睨み上げた。
一度も見たことのない顔。
俺は、こいつを知らない。
なのに、なんで…!?
「…あの人を利用するだけのつもりだったのに。なのに…どうしてこうなったのかな?あの人、同じヤクザのくせに優しくて、あいつらと全然違ってて、気がついたらどうしようもなく惹かれてた。それでも、ただ側に居られれば良かった。
あの人の役に立てるなら、それで良かった。だから、あの人が遊びで誰と寝ようが平気だったんだ。それなのに…どうして、君だと…!」
ゆっくりと、男の顔から笑みが消えていく。
あの人?それって、まさか…
「…ねぇ、君、あの人とどんな顔して会うつもり?そんな薄汚れた身体を見たら、あの人はどう思うだろうね?俺だったら耐えられないけどな」
思わず、男から視線を反らした。
あの人…って、祐介さん…!
「…君は、平気なんだ?」
男が身を屈めて、反らした視線を合わせてくる。
まるで汚い汚物を見るような、蔑んだ視線。
「…4人も、人を殺したのに?」
その言葉にキッ!とそいつを睨み返す。
けど。
「…君のせいだ」
注がれた男の底冷えのする冷たい眼差しに、思わず息を呑んだ。
「本当は、もう、あいつらなんてどうでも良くなっていたんだ。なのに、君が引き戻した。君が居なきゃ、こんな事にはならなかった。君が居なきゃ、あの人もこんな事に巻き込まずに済んだ。どうして君はあの人の前に現れた?何で君はここに居る?君なんて、居なきゃ良かったのに…!」
言い放たれた言葉に、あの真っ暗な夢が脳裏に甦る。
誰も居ない。
自分でさえ存在するのか分からない。
何で俺はここに居る?
何のため?
何で生きてる?
ただその答えが欲しかった。
それだけだったのに。
俺は何をした?
引き金を引いた感触は、まだ指に残ってる。
そう、こうなったのは、全部俺のせい。
俺が居なきゃ、あいつらも死なずに済んだ。
祐介さんもこんな事に巻きこまずに済んだ。
リョーくんにあんな思いをさせずに済んだ。
祐介さんとも、もう、二度と…会えない。
会えるわけない。
「…弾はまだ残ってるよ、君にあげる。好きに使えばいい」
そう言った男が、壁際に寄せてあったイスに腰掛けた。
「そろそろ、身体も動くようになる頃だよ。ね、4人も殺したんだから、あと一人殺したって平気だろ?ついでにさ、俺も殺さない?」
「!?」
言ってる言葉の意味が理解できない。
なんなんだ?こいつ?
「俺の事、憎いでしょ?こいつらと同じくらい。だから殺してよ。俺も、あの人と二度と会えないから…。分かるだろ?その辛さ」
…ふざけるな!!
声さえでていたら、大声で罵っている所だ。
死にたけりゃ自殺でも何でもすればいい物を…!
なんだって、俺にわざわざ…!
憤った視線を向けたら、そいつがそれまでの表情を一変させ、不意に、自己嫌悪に満ちた罪悪感いっぱいの顔つきになった。
「…ごめん、君にどれだけひどいことしたか、分かってる。分かってて…止められなかったんだ。だから、君には殺す権利がある。頼むから、俺を殺してよ、そうでないと…俺、きっとあの人を殺す…もう一度会った時、蔑む視線で見られたら…!俺…っ!」
男が項垂れて髪を掻き乱す。
身勝手極まりない。
怒りを通り越してあきれる以外ない。
だけど。
きっと、もとはバカ正直で真面目な奴だったんだろう…と思った。
取り返しのつかないことをやってしまった事を後悔し、良心の呵責に苛まされて、押し潰されそうになって。
けど、自殺する勇気もなくて。
死にたいほどの自己嫌悪を抱えてる。
もしも、そんな一番嫌な自分を祐介さんに見られたら…?
背筋に震えが走る。
俺だって、そんなの耐えられない。
俺だったら、そんな自分を自分で殺す。
だけど、こいつは…。
自分で死ぬ勇気さえない、こいつは…!
きっと、祐介さんを、殺す。
そんな目で見るな…とかいう、身勝手極まりない理由で…!
…冗談じゃない!それだけは、絶対に許さない。
沸々…と湧き上がってきた、新たな感情。
あの人をこんな奴に、いや、自分以外の誰かが、あの人を殺すなんて…そんなの。
そんなの、絶対、許さない。
それぐらいなら、あの人は…祐介さんは。
…俺が、殺す。
自分でも驚くほど自然に、そう、思った。
少しずつ、身体の感覚が戻ってくる。
さっきまで薄暗かった部屋の中が、いつの間にか闇色に包まれ、男の姿を捕らえる事さえおぼつかない。
握らされていた拳銃を、今度はしっかりと、自分の意思で、握りしめる。
甦ってくる、引き金を引いた感触。
骨に響いた衝撃。
…同じ事だ。
頭の中で、何かが囁きかけてくる。
…そう、同じ。
ゆっくりと、感覚が戻ってきた重い上半身を起き上がらせた時、部屋の外で車のエンジン音が聞こえてきた。
その音に、男が暗がりの中でハッと外を振り返った気配。
その刹那、部屋の窓から差し込んだ、車のヘッドライトの明かり…!
「…っ!嘘だ…どうして、こんな早く…!?」
震える声で男が呟いたかと思うと、脱兎のごとく駆け出して、外へと飛び出していく。
同時に聞こえた、車が急停車する音。
勢い良く閉められた、二つ分の車のドアの音。
そして。
一番聞きたくて、でも、一番聞きたくなかった、声。
「光紀…!」
その声に、ビクンッと身体が跳ね、全身が強張った。