野良猫
ACT 30(祐介)
背中に受けた強烈な衝撃と共に、目の前が真っ暗になった。
自分では目を開けているつもりなのに、見えるものは闇色ばかり。
衝撃で痺れた身体は全く動かす事ができなくて、俺は、ただ真っ暗な闇を見つめ、唯一聞こえてくる周囲の音だけに聞き入っていた。
一番最初に聞こえてきたのは、一条の声だった。
それまで一度として聞いた事がない、緊迫した声。
その声で何度も耳元で名前を呼ばれた。
いつも以上の大声で。
うるさいな…と、『聞こえてるよ』と言い返そうとしたけれど、意に反して声が出ない。
起きているんだ…!と何かで意思表示したいのに、自分の意思で身体は全く動かす事ができなかった。
一体どうなっているんだ!?と焦りを感じ始めた時、不意に救急車のサイレンの音が聞こえたかと思うと、誰かに担ぎ上げられ担架か何かに乗せられた。
周囲で交される『崖から転落』『一名死亡、一名意識不明の重体』そんな周囲の声に、俺はようやく影司に刺され崖から落ちたことを思い出していた。
背中を刺されていたはずなのに、全くその痛みを感じない。
崖から落ちた…その痛みさえも。
俺は、死んだのか?
一瞬、そう思った。
けれど周囲の会話から、重症ではあるが死んではいないことが伝わってくる。
あの崖から落ちて、奇跡的に軽症だったということも。
落ちていく時見た、涼(すず)の顔、感触、声音…あれがただの幻ではなかったのだと…確信した。
涼(すず)が守ってくれたのだ。
『…生きて』
と、確かにそう言った。
あの最後の言葉で、涼(すず)には見透かされていたのか…と思った。
涼(すず)を亡くしてからずっと、俺は心の奥底で誰かが俺を殺してくれることを待っていた。
自分が生きていることに、後ろめたさがあった。
だから、光紀の事が気になった。
俺と同じ、自分が生きる意味を探している様に見えたから。
涼(すず)はヤクザ家業なんて掲げてる俺には、全くと言って良いほど不釣合いな、純粋で優しい女だった。
表面上は一条の妹…になってはいたが、本当は寺の前に捨てられた捨て子で…一条とは血の繋がらない妹だった。
その事は当人達も知っていて、幼なじみでもあった俺が小さい時『何でそんなに兄妹で顔が違うんだ?』と聞くと、涼(すず)の居る前で、あっさりと『血が繋がってないからな』と返された。
それでも、そんな事など全く気にかけない気風が一条の家の特徴で…そんな家だったからこそ、幼い頃から周囲にヤクザと忌み嫌われた俺に対しても、何の掛け値もなく接してくれた。
特に涼(すず)は、自分の生い立ちを知っているせいか…不遇な境遇からヤクザ家業に身を転じる若い奴らに対しても、偏見を一切持たなかった。
もともと繊細で儚げな容貌をしていたせいもあったけれど、殺伐として血生臭い世界に身を置く人間にとって、涼(すず)という女は見ているだけでどこか心をホッとさせてくれる…そんな貴重な存在だったと言っていい。
かくいう俺もそう感じていた内の一人で…。
自然とその安らぎを求めて一緒に居る事が多くなり、気がつけば…涼(すず)は俺にとって、唯一安らげる、かけがえのない存在になっていた。
けれど俺は、その気持ちを涼(すず)には伝えても、正式に結婚…という事を言い出せずにいた。
涼(すず)を俺の居る世界に引きずり込むことに、どうしても抵抗があったし、一条の涼(すず)に対する想いにも気がついていたからだ。
一条は涼(すず)を一番大事に想っていた。
兄として妹を想う…それ以上の気持ちで。
だが、その事を問いただした所で一条は笑って否定し、決してその気持ちを認めようとはしないだろう…という事も分かっていた。
本来なら家族という物を持たない涼(すず)が、何より家族という形を大事にし、失いたくないと思っているか…それを他の誰より一番理解していたのも、一条だったから。
そして。
そんな俺の背中を押してくれたのは、やはり、一条だった。
当時、有能な外科医として腕を振るっていた一条は、病院内の派閥争いや不正、患者を商品としてしか診ない医師達…に、ことごとく反発し快く思われてはいなかった。
有能とはいえ、所詮はまだ年若い駆け出しの外科医。
一条を毛嫌いしていた連中にはめられ、医療ミスという汚名を着せられて医師免許を剥奪された。
ちょうど一条の父親が病床に就き、あと持って数ヶ月…と診断された事もあって、一条はそんな腐り切った世界と縁を切り自宅を改装、父親を診れるだけの設備を整えて自宅療養させて寺を継ぎ、裏家業としての裏医師もするようになっていった。
そんな中、せめて父親が死ぬ前に涼(すず)の晴れ姿を見せてやってくれ…と、言ってきたのだ。
俺も涼(すず)も、何かあっても自分が絶対死なせないから心配するな…と、そう言って。
そんな経緯を経て俺と涼(すず)は一緒になった。
涼介も生まれ、平穏で幸せな日々だった。
涼介の入学式だった、あの日まで。
そんな回想に想いを馳せていると、ふと、刑事らしき男達の声が聞こえてきた。
周囲にその刑事達しか居らず、俺に意識がない…と思っているのだろう、その内容は露骨であからさまだった。
光紀に過度の暴行とレイプを受けた痕跡があったこと。
クスリの中毒症状が出て暴れ、一条がその看護に当たっていること。
上から圧力がかかり、塚田達の死も公にされることなく秘密裏に処理され、影司も自殺で片付けられたこと。
そんな経緯を同情と不満と嘲笑のない交ぜになった声音で語って去って行った。
光紀が生きていてくれた…!と、単純に喜んでホッとすると同時に湧き上がってきた、悔やんでも悔やみきれない後悔と罪悪感と、恐れ。
俺のせいで、光紀を取り返しのつかないひどい目に遭わせてしまった…その変えようのない突きつけられた現実。
もう二度とあんな事にならないように…!そう思っていたはずなのに、それがことごとく裏目に出た。
光紀に死ぬより辛い屈辱を味あわせてしまったのかと思うと、どうして俺はまた生き残ってしまったのか?と、自分がこうして生きていること自体が罪にしか思えなくなってくる。
俺が目覚めて、再び光紀と会ったら…?
光紀は、どんな目で俺を見る?
蔑みと恨みと憎悪…そんな色合いの滲んだ眼差し…いや、俺の事なんて二度と視界に入れないかもしれない。
超然として人の手に堕ちることを良しとしなかった、孤高の野良猫そのものだったのに。
それを…二度と落ちない、汚れきった汚泥にまみれさせてしまった。
俺があの時、声をかけなければ。
もう一度会いたい…なんて思わなければ。
涼(すず)と一緒ならなければ。
あの日、一緒に入学式に行っていれば。
後悔ばかりが湧き上がってくる。
今更、もうどうしようもないと分かりきっているのに。
どうして俺なんかが生きているのか…!そんな罪悪感でいっぱいになる。
闇しか見えない世界で、俺は、唯一聞こえていた周囲の音にさえ、耳を塞いでいた。
生きる意味が分からなかった。
目覚めるのが怖かった。
目覚めて、光紀と会うことが。
どれくらい音さえしない闇の中に身を沈めていただろう?
バシンッ!という音と共に、片頬に衝撃が走った。
遠慮も欠片もない、渾身の想いのこもった…一条の拳。
身体は目覚めていなくても、身体で覚えた記憶は間違いようがなかった。
「っ!一条さん!?何を!?」
「ああ?いいんだよ、この根性なしにはこれぐらいで!お前がそこまで覚悟決めてるってのに、いつまでも寝やがって…!おい、真柴!聞こえてんだろ!?さっき涼(すず)にこれ以上起きねぇようなら、そっちに送ってやるから待ってろ!って言ってきた。俺に殺されたくなかったら、起きやがれ!」
バシンッ!もう一発、今度は逆の頬に渾身の一撃。
こいつは…!本当に手加減という言葉を知らない男だ。
「一条さん!止めて下さい!!」
不意に香った良い香りと共に、涼(すず)とは違う感触の…けれど同じくらい俺をホッとさせてくれる、温かな両腕が首筋に回されて、あり得ないと思っていたその声音が耳元で響き渡った。
…み、つき!?
わが耳を疑った。
最初に聞こえた声は幻聴だろう…とさえ思ったのに。
「だったら、こいつを起こしてみろ!お前で起きなきゃそいつはもうだめだ、俺が引導渡してやる!」
言い捨てた一条の足音がドスドス…と遠のいていく。
どこからか、微かに香る線香の匂い…感じる雰囲気に、そこが病院ではなく一条の家の中だろう…と感じた。
昔、一条の父親が寝たきりになった時使っていた、あの部屋…。
一条の奴、俺が目覚めるまで自分で診るつもりらしい。
全く…どこまでもお人好しな奴だ。
そんな一瞬の現実逃避から、光紀の声が現実に引き戻す。
「…殺させない。誰にも殺させない。他の誰かがあなたを殺すくらいなら、俺が殺します」
囁かれたその言葉に、妙に安心した。
俺を、殺してくれるのか…?と。
それで良い。
光紀が俺を許すわけがない。
光紀には、俺を殺す権利がある。
「でも、今のままのあなたじゃ、影司に殺されたのと同じだ。そんなの、許さない。俺以外の奴があなたを殺すなんて、そんなの、絶対、許さない!」
言われて初めて気が付いた。
確かに、そうだ。
俺を殺して良いのは光紀だけなのに。
「あなたは見なきゃいけないんです、俺が今、どんな風か」
ああ、そうだ。
俺は、見なきゃいけない。
俺を殺す、光紀の目を。
「だから、」
一瞬言葉を切った光紀が、首に回していた腕を解き、俺の頬を包み込むようにして両手を添える。
その仕草に、ハッとした。
それは、崖から落ちた時、涼(すず)が最後に俺にあの言葉を言った時感じたのと同じ…!
「生きてください」
『…生きて』
同じ響きで、二人の声が重なる。
ああ、そうだ…俺はまだ死ぬわけにはいかない。
『もう、大丈夫ね』
懐かしい遠い声。
その声に、背中を押された。
そうだ、もう大丈夫。
光紀が望むまで、俺は生きなきゃいけない。
一条に殴られた借りを、返さなきゃいけない。
ゆっくりと開けた視界の先に、以前よりずい分痩せてしまった光紀の、顔。
でもその瞳には、以前よりももっと高貴で、穢されても超然と立つ、孤高の野良猫の輝きが宿っていた。
そうだった。
野良猫は、汚泥にまみれてもそれを振り払う力があるからこそ、野良猫なのだ。
「…みつき」
何より先に、自然とその名前が口をついて出た。
「ぁ…っ、」
一瞬、驚いたように見開かれたその瞳が、次の瞬間、スゥ…と細くなる。
「…もう一回、呼んで下さい」
「…光紀」
「もう一回」
「みつ…」
三度目に呼んだ名前は、光紀の唇に塞がれて声にはならなかった。
その時。
「みっちゃん、元気になったの!?みっちゃん!」
不意にバタバタ…と板張りの廊下を走ってくる音が聞こえたかと思うと、そんな言葉と共に誰かがピシャンッと障子を開け放って飛び込んできた。
慌てて光紀が顔を離したけれど、それはしっかりと飛び込んできたその誰かに見られていたようで…。
「ちはるー!ちはるー!真柴のおじちゃん起きたよ!みっちゃんとチューしてるー!」
甲高い小さな女の子特有の声でそう言って、バタバタ…と、また廊下を駈け戻っていく。
「や…やっこちゃん…!!」
顔を真っ赤にしてその声の主に向かって叫んだ光紀の言葉に、『え!?』と思わず振り返った。
「や…っこちゃん?え?言葉が…?」
「あ、そっか。やっこちゃん喋れるようになったんです。俺が自殺しようとしたのを止めてくれた…あの時に」
「あ…!」
言われて思い出した。
銃声と一緒に聞こえた、あの『だめ』と叫んだ、甲高い声。
確かに、さっきの声と同じ声音だった。
「やっこちゃんが光紀を…」
涼(すず)が命がけで守った子。
その子が、今度は光紀を守ってくれた。
失った言葉を、取り戻してくれた。
誰かに生かされた命は、そんな風に繋がっていく。
俺も、生かされたこの命で、いつか何かを繋げていけるだろうか。
光紀と一緒に…。
きっとそのために、俺は生かされたのだ。
目覚めなければ気づけなかった事、知り得なかった事、生きていればこそ、その先を見ることが出来る。
上半身を起こそうとすると、ずい分長いこと寝ていたのを裏付けるように、あちこちと関節が軋んで悲鳴を上げる。
「祐介さん!?急に動いちゃ…」
慌てて俺の身体を支えた光紀の手を借り、俺はようやく起き上がった。
背中に受けたはずの傷はもうすっかり治ってしまったらしく、痛みを全く感じない。
「…俺は、どれくらい眠ってた?」
「え?え…と、二ヶ月くらい、かな」
「そんなに…」
溜め息が洩れた。
そりゃ、一条が怒るはずだ。
「…じゃあ、聞かせてくれ。その間に起こったこと、俺に言いたくて言えなかったこと…」
「…聞くだけ、ですか?」
クス…と口元に勝気な笑みを浮かべ、意味深な色合いを深めた野良猫の瞳が俺の顔を覗き込んでくる。
その瞳に応えようと光紀の身体を抱き寄せた時、
「真柴ーーーっ!!」
いつ聞いても鼓膜が破れるんじゃないかと思えるほどの大声で俺の名前を呼んだ一条が、もう片方の障子をバシンッ!と引き開けて、広く開け放った部屋の間口に仁王立ちに立った。
「なんだ?千春?」
慌てて身体を離そうと身じろいだ光紀をしっかりと胸の中に閉じ込めたまま、俺はさっきやっこちゃんが呼んだ、一条の下の名前で呼んでやった。
「っ!て…めぇ!人を散々心配させといて…!ようやく起きたかと思えばそれか!?」
「先にいきなり殴ったのはどっちだ?それより下の名前で呼ばれるを死ぬほど嫌がってたくせに、何でその名前で呼ばせてる?」
「え?ちはる…って、一条さんの!?」
俺の言葉にさっきのやっこちゃんの言葉を思い出したのか、光紀も俺の胸の中で顔を上げ、問いかけてきた。
「真柴のおじちゃんは、ちはるって呼んじゃダメなの!やっこはね、ちはるの特別だから!だから呼んでいーの!ねー?ちはるー♪」
ピョコン…と一条の背後から顔を出したやっこちゃんが、一条に向かってそう言って、今度は俺達の方へ顔を向けた。
「いいなー!みっちゃん抱っこしてもらってる!やっこも!ちはる、だっこ!」
「まーしーばーっ!離れろ!お前は、情緒教育の大変さを分かってねぇ!!」
「大目に見ろ。これでも病み上がりだ」
「なにを…この…!」
一歩前に出た一条の前に飛び出たやっこちゃんが、『ちはるー抱っこー!』と言って、見事な跳躍力で一条の首筋にかじり付く。
「っ!?や…っこ!」
危ない…!とばかりに、飛びついてきたやっこちゃんを一条がガッチリと抱きとめる。
「…お前にロリコンの気があったとは知らなかったな」
「真柴…もう一回、永遠に眠らせてやろうか?」
凄んではいても、その首に可愛らしいやっこちゃんがくっ付いていては、せっかくの仁王像もだいなしだ。
はっきりいって、かなり、面白い。
唖然とそれを見つめていた光紀の瞳にも、イタズラな輝きが宿る。
やはり、俺と光紀は根が似通っているんだろう。
「やっこちゃん、どうせだから、さっき見たのもやってあげれば?」
フフ…と意味深な笑いを浮かべながら言った光紀のその言葉に、一条が『な…っ!?お前まで!』と、目を剥いた瞬間。
「うん!ちはる、ちゅー!」
そう言って、やっこちゃんが『わ、まて!やっこ…!』と必死に仰け反りつつも首筋にガッチリ齧り付かれて防ぎようのない一条の頬に思い切り可愛らしい唇を押し付けた。
途端にスキンヘッドの一条の顔が、まさに絵に描いた茹蛸みたいに真っ赤に変わる。
「い、いちじょ…さ…っ、顔が…っ」
笑っては失礼だろう…と、必死に笑いを噛み殺しながらも耐え切れず、光紀が笑い声を上げる。
俺も耐え切れずに噴出して、光紀と一緒に腹を抱えて笑い出していた。
「おまえらーーーっ!」
叫んだ一条が、やっこちゃんごと俺と光紀に飛び掛ってくる。
「わっ!?一条さ…っ」
「バ…ッ一条、潰れる!!」
「うるせぇ!この、バカ野郎どもが!!」
「きゃー♪」
四者四様の声音と共に一条の巨体に押し潰され、その重みと温もりに生きていることを実感する。
その重みを感じたまま、もう一度、誰からというわけでもなく今度は全員で一斉に笑い出していた。
生きていて、良かった。
初めて、心から、そう思いながら。