野良猫
ACT 29(光紀)
目が覚めた時、俺はどこかの病院のベッドの上だった。
「…気分はどうだ?」
聞こえた声に、うつ伏せに寝ていた視線を上向けると、ベッドの横でイスに腰掛けた一条さんが、腕組みをして難しい顔で俺を見ていた。
その顔を見た瞬間、それまでの事が一気に甦り、ガバッ!と起き上がろうとしたけれど、背中に走った激痛に再びベッドに沈み込んだ。
そうだった…背中は、塚田達に鞭で打たれた時に切り裂かれ、傷だらけのはずだ。
それに、そこだけじゃなく…思い出しかけて、無理やりその記憶を頭の片隅に押しやる。
「っ、一条…さん、祐介さん…は!?」
祐介が崖から落ちる…その光景を目の当たりにした直後、伊藤さんたちが駆けつけて、崖の下に向かっていった。
俺も行きたい…!と訴えたけれど、一条さんに震え上がるような視線でそれを黙殺された。
どっちにしろ、歩くのもやっと…な状態で一人で崖の下に降りるのは無理だった。
目を凝らして覗き込んだ崖の下は、かなりの深さと急斜面で…上から落ちて無事で居られるとはとても思えなかった。
影司に切りつけられた足の怪我から、止血していても流れ出る血を気にも留めず、一条さんは誰よりも早く下に降りて行った。
既に連絡が行っていたのだろう…土砂採掘場だという崖の下、ダンプカーの出入りする方向から赤色灯を灯した2台の救急車が現れて、影司と祐介をそれぞれ乗せて走り去った。
覚えているのは、その辺りまで…。
一条さんは祐介さんに付き添って一緒に救急車に乗って行き、それを見届けた直後…張り詰めていた糸が切れたように意識が遠のいていった。
あれからどれくらいの時間がたったのだろう?
問いかけた一条さんの表情には、深い疲労の色が見て取れた。
「大丈夫。奇跡的に一命は取り留めた…。死んだ影司の身体がクッション代わりを果たしたとはいえ、刺さっていたナイフも致命傷に至るほど深くなかったし、そこ以外軽い打撲と擦り傷程度…あの高さから落ちてそれだけで済むなんて、奇跡としか言いようがない」
その言葉に、一気に脱力した。
祐介さんが、生きてる…!
それだけで、もう、他の事はどうでも良い…!とさえ思えた。
でも。
「…一条、さん?」
影を落とした一条さんの横顔は、その奇跡を喜んでいるようには見えなかった。
「…命に別状はねぇ…んだがな、意識が戻らねぇ」
「え、」
「医者なのにな…こればっかりはどうする事もできねぇ…情けなねぇよな、まったく…!」
スキンヘッドの頭を抱え込み、一条さんが盛大なため息を吐く。
「…意識が戻らない…って?」
実際にどんな状態なのか見たわけじゃない。
それがどれほどの意味を持つ物なのか、今ひとつ理解できないで居た。
「…眠ったまま、起きやがらねぇ。目覚めるまで、待つしかないってこった」
「そんな…っ!?」
言って、起き上がろうとして、ガクン…ッと身体が落ちた。
「え…?」
と、同時に周囲の風景が歪む。
胸の動機が不規則になる。
まるで小さなボートに乗っている時みたいに、身体が揺れる。
目が廻る。
気持ち悪い。
「…そろそろ来るとは、思ってたが」
どこか、決意を秘めた声だった。
「悪く思うなよ…暴れたり自傷するようなら、縛り付けてでも止めさせてもらう」
そんな一条さんの声が遠くなる。
その時、俺の目には、床から滲み出るようにして這い出て来る、撃たれて血だらけの塚田達が写っていた。
中毒症状による、幻覚、幻聴。
感情増幅作用による、ハイと鬱。
痛覚の欠落。
精神不安定から来る発作的自殺。
単発使用による一過性の中毒症状。
本来なら、1週間もあれば完璧に抜ける…程度なはずだった。
だけど俺の場合、影司によって受けた精神的ショックから立ち直るのに、時間がかかった。
目の前で、自分の意思ではなくても、人を殺す事に利用されたのだ…。
その罪悪感と嫌悪と恐怖が幻覚と幻聴になって、フラッシュバックする。
そうなったら最後、俺はむちゃくちゃに暴れまわった。
頻度が煩雑な内は、一条さんが付きっ切りで病室に詰めていてくれた。
一ヶ月もの間、発作を起こす俺に付き添ってくれたのだ。
俺と一緒に身体がボロボロになるのも構わずに…。
ようやく症状が治まり、家に戻ってからも時々情緒不安定になった。
そうなった時、俺を支えてくれたのは、驚いた事に父と母だった。
特に父は、仕事をセーブして家に居る時間を作ってくれた。
父が家に居る…たったそれだけの事で母は驚くほど笑うようになり、外泊ばかりしていた遊びにも行かなくなった。
父とは、特に会話を交わすわけでもなかったけれど、症状の兆候が出始めると、ただ黙って俺の側に来た。
母も、俺の寝室に必ず自分の手で小さな明かりを灯し、真っ暗になる事がない様に気遣ってくれた。
一つ一つは小さな事だった。
だけど、それは確実に、俺の心の支えになった。
いつの間にか、家に居ることが苦痛ではなくなっていた。
あの事があってから、もうじき二ヵ月が経とうとしていた頃。
ようやく医者から通常の生活に戻っても大丈夫だろう…という診断が下された。
その診断が下されるまで、俺は祐介の事に触れる事を禁じられていた。
それは、一条さんの判断だった。
だから、その診断が下った日、俺は父と母に祐介に対する自分の想いを正直に告げた。
好きだから…とか、そういうチャチな想いじゃない。
公では決して認められない関係を認めてもらおうと思ったわけでもない。
ただ。
「祐介さんが死んだら、俺も死ぬ」
それだけだった。
あの事件の事も全て秘され、塚田達の死も公にされることなく全てはもみ消されて終わった。
影司に関しても、自殺ということで片付けられた。
事実を歪めて公にしない…それだけの事が出来る立場。
祐介というトップが不在でも、滞ることなく動く組織。
それを可能にするだけの、力。
それを否定する気も、捨てる気もなかった。
そして、リョー君との約束も破る気はなかった。
自分の身勝手でワガママな想いを貫く代償に、家柄に恥かしくないだけの公の立場としての獣医の選択、祐介とのことを決して公にしない付き合い方。
それを告げた俺に、父も母も異を唱えなかった。
承諾したとも、言わなかった。
でも、それで良かった。
俺は、初めて、自分の気持ちを隠すことなく、父と母に告げることが出来たから。
それを、父と母が逃げることなく真っ直ぐに聞いてくれたから。
親からすれば承諾なんて、決して出来ないワガママ。
それを、否定しなかった。
俺の気持ちを尊重してくれた。
これ以上なにを望めというのだろう。
それを告げた日、俺はその足で一条さんの寺に向かった。
真っ先にお礼が言いたかったし、やっこちゃんの事も気になっていた。
どうして、あの時、急にしゃべれるようになったのか…?
なぜだか、その理由を知っておかないといけない…そんな急くような気持ちが心の片隅でずっとざわついていた。
「…あ!」
寺の門を入ってすぐに、一条さんの姿を見つけた。
少し奥まった所にあった、墓。
微かに香る線香の香り。
墓の掃除でもしていたのだろう…すぐ横にほうきとちり取りが置いてある。
たなびく線香の煙の前で、大きな背中を丸め手を合わせた一条さんがしゃがみ込んでいた。
「…一条さん?」
何となく声をかけることを躊躇しながらも、ソッと近付いて声をかけた。
すると、恐らくは気配でとっくに俺の事に気づいていたんだろう一条さんが、合わせていた手を解きつつも振り返ることはせず、答えを返してきた。
「…おう、許可がでたか。よく頑張ったな」
「はい、いろいろありがとうございました」
頭を下げて、その一言に感謝の気持ちを凝縮して心からお礼を言い、顔を上げた先にあった墓石の名前に背筋に戦慄が駆け抜けた。
真柴家の墓。
「…この、お墓って…!?」
まさか…!?
そんな俺の考えを見透かしたように、一条さんが笑いを含んだ声で言い放った。
「バカ、勝手に殺してやるな。真柴はちゃんと生きてるよ。俺が今話しかけてたのは、涼(すず)の方だ」
その言葉に、『もう、脅かさないで下さいよ!』と盛大に安堵のため息を吐き出しつつ、その初めて聞いた名前に問いかけた。
「すず…って?」
「ああ、そうか…お前は知らなかったか。俺の妹で、涼介の母親だ」
「っ、妹!?それにリョー君の!?それじゃ、祐介さんの…!」
「そう、真柴の連れだった。4年前に殺されるまでな」
「え…!?」
思わず、息を呑んだ。
だって、殺されたって…それって…!
「理由は、ま…この世界じゃよくある逆恨みって奴だな。組同士の抗争で死んだ若い奴の女だった。女には涼介と同い年の子供が居てな、揃って同じ小学校に上がる入学式の日だったよ。その日だけは、絶対真柴が来る…そう踏んでたんだろう…」
フゥ…と浅く一条さんが息をつく。
見つめた横顔には、もう、憎しみとかそんな感情は見て取れなかった。
前を見て生きる…そんな確固たる強い意志を秘めた、そんな表情…。
「だが、その日、真柴は行かなかったんだ。抗争の決着がついたばかりの時で、そんな公の場所に出るなんざ、何かあった時に周囲に出る被害が大きいからな。だから、涼(すず)一人で行った。もちろん警備を厳重にしてな。だから、その場では何も起こらなかったさ、ただ、女が恨みを晴らす機会を失った…その事実だけ残してな」
「え?何も起こらなかった?じゃあ、どうして…?」
「涼(すず)には、分かったんだろうな…。その場に居たその女が、どんな想いで自分たちを見ていたか。追いつめられてその機会を失って、自分一人じゃどうする事も出来ないっていう事実を目の当たりにした…すがる物が何もない女が次に取る行動ってのがな」
次に取る行動…?
俺には予想できなかった。
「子供を道連れにして死のうとしたのさ。男の形見だった拳銃で。それを危惧した涼(すず)は、俺達にそこに行く事が分かったら止められる…そう思ったんだろう、黙ってこっそり一人でその女の家に行き、殺されかけた子供を庇って撃たれた。
涼(すず)の行動に気がついて俺がその場に着いた時には、女は自殺した後で、涼(すず)ももう虫の息だった。ショックで言葉が出なくなって放心してる、その女の子供を抱き抱えたままな」
その言葉に、俺はハッとした。
「まさか、その、子供…って!?」
「そう、やっこちゃんだよ。涼(すず)が命がけで守った子供だ…どこにも身寄りがなかったから、俺が引き取って養女にしたんだ」
「っ!」
言葉が出なかった。
そんな…そんなの、一体誰を責めればいい?
誰のせいでもない、誰も責められやしない。
そして、目の前で人が撃たれて、撃った母親が自殺するのを目の当たりにした…やっこちゃんは…!
ああ、そうか。
だから、あの時、やっこちゃんは。
「…じゃあ、あの…俺が自殺しようとしたのを止めてくれた時、出た言葉って…」
「ん?ああ、そうか…あの時、やっこちゃんがお前を止めてくれたんだったな。俺達の知らない間にこっそり車に隠れて、あそこへくっ付いて来てたらしい。あの『だめ』って言った言葉は、やっこちゃんがずっと心の中で叫びたくて叫べなかった言葉だったんだろう。今じゃ、喋れなかった分を取り戻すみたいにお喋りだぞ?」
『だからお前も覚悟しとけよ?』そう言って笑いながら立ち上がった一条さんに…きっとやっこちゃんという存在は涼(すず)さんを失った心の傷を癒すのに、必要な存在だったんだろう…と思った。
大きな心の傷を負ったやっこちゃんにとっても、この、顔に似合わず繊細で懐の深い、一条さんという存在が…。
「俺、さっき、親に自分の気持ちを伝えてきました」
そう言って、立ち上がりかがめていた腰を伸ばしている一条さんの横にしゃがんだ俺は、お墓の前で手を合わせた。
「自分の気持ち…?」
疑問符を投げかけた一条さんの言葉が頭上から降ってくるのを聞きながら、俺は一条さんと涼(すず)さん、両方にその気持ちを告げた。
「祐介さんが死んだら、俺も死にます。祐介さんが勝手に死ぬのも殺されるのも、許さない。他の誰かに殺されるくらいなら、俺が殺します」
「ッ、お前…、」
息を呑んだ一条さんの声。
俺は先を続けた。
「いつか、あなたの所へ祐介さんが帰るまで…それまでは、あなたから奪います」
それまでは、他の誰にも殺させない。
俺が、守ってみせるから。
涼(すず)さんに向かって、そう誓った。
「…それだけ覚悟を決めてきたか」
ハァ…ッと、盛大な溜め息を吐きながら言った一条さんが、ついて来い…!とばかりにきびすを返し、本堂の裏手にあった家の方へと、俺を誘った。