野良猫
ACT 33(光紀)
「…あ、祐介さんも来るんだ!」
開いた携帯に綴られていた『俺も出席するよ』という短いメール。
それを見た途端、思わず上げた弾んだ声に、我ながら苦笑がもれた。
祐介とは、一条さんに刺青を入れてもらう約束をしたあの日、きちんとした挨拶も出来ないまま別れたっきり、一度も会っていない。
こんな風に近況をメール交換しあうのが関の山。
夏休みの空き時間を利用して一条さんの寺に通い、背中に刺青を入れてもらっている間も、祐介とは時間的にすれ違いになってしまって会えなかったのだ。
一番最初に刺青を入れた日は、下絵を皮膚に写して機械で筋彫りする…と言う行程で、切れ味の悪い剃刀で切りつけられるような痛みを、途中休憩を三回挟んで合計三時間も味わう羽目になった。
初日でこれか…!と、正直辛かったけれど、同じ機械で、同じ一条さんの手で、同じ痛みを祐介も味わっているのかと思うと、その喜びの方が大きかった。
入れ始めの頃は出血もあったけれど、一条さんが時間をかけてゆっくりと入れてくれたおかげで、何とか誤魔化すことが出来たし、瘡蓋(かさぶた)にならないように…ともらった軟膏も暇さえあれば塗りこんだ。
ヒリツク痛みの後にやってきた痒みにはさすがに辟易したが、そこで掻きむしったらせっかく入れた刺青が汚くなってしまうと、必死で耐えて乗り切った。
そうして約一ヵ月後…痛みも痒みもおさまって仕上がった背中の刺青を見た時には、その鮮やかな色彩と緻密な絵柄の美しさに自分で見惚れた。
そこにあの醜い傷痕があったことが、嘘のようだった。
一条さんも『一世一代の最高傑作だな』と自画自賛し、『ああ、真柴のもな』と、満足そうに笑っていた。
もちろん、親にも周囲にも刺青を入れた事などばれてはいない。
学校でも傷痕を理由にプールは見学、一人で体育の着替えが出来たし、それ以外で肌を露出する確率の高い医者も、あの事件の時俺の中毒症状に付き添ってくれ、医師免許を剥奪されたとはいえ、そうなった裏事情と腕は確か…という事実から、一条さんが家公認のかかりつけの医者状態になっていたからだ。
夏の間中一条さんの寺に通えたのも、中毒症状のカウンセリングの為…という、もっともらしい嘘がまかり通ったからに他ならない。
その一条さんの説得で祐介が俺の刺青を許した上、対になる鳳凰の刺青を入れたと聞いて以来、一層会いたい、会ってその刺青を見てみたい!と思うようになったけれど、二人きりで会うなんていう機会は全くなかった。
そんな時、降って湧いた父親絡みのNホテルでの立食パーティー。
政治資金集めが目的のそのパーティーに、祐介も会社社長として招待されていた。
表の顔同士の、表面的な付き合い…。
あからさまな付き合いはしない…と公言してからの俺と祐介の控えめな態度も功を奏したらしい。
その場で挨拶を交わすくらいなら問題ないだろう…と、父親の方から『一緒に行かないか?』と声をかけてくれた。
それまでそういった公的な場所に寄り付こうともしなかった俺を引っ張り出す、またとない機会…とでも思ったのだろう。
母親も同席して行く事になり、それならついでにNホテルのスパやエステも利用したい…という要望から、母はその晩ホテルに宿泊、父も同室で泊まる事になり、俺用にシングルの部屋も取っておいてくれた。
まさかその部屋に祐介を誘うことなど、出来やしない。
それでも、久しぶりに祐介の顔を見る事が出来る。
それだけで、今の俺には十分だった。
始まったパーティーは、想像以上に盛大な物だった。
祖父の威光もあり、父親の周囲から人垣が消える事もない。
初めてそんな場に顔を出した息子…と言う物珍しさもあったのだろう、受け取った名刺の数は半端ではなかった。
獣医を目指している…という話を振ると、どのお偉いさん達も家族か知り合い(この場合愛人とかなんだろうけど)が何かしら動物を飼っている…と、嬉しそうに話していった。
『獣医とかの方が裏事情に詳しくなれるんじゃない?』と父親に耳打ちすると、『…そうだな』と、それまであまり獣医志望ということに乗り気じゃなかったはずの態度が柔らかくなっている。
使える物は何でも使う…その政治家的思考は嫌いじゃない。
理不尽で傲慢で身勝手な人間は、この世に腐るほど居る。
そんな奴らをねじ伏せる事が出来るだけの力…それが手に入れられる立場に居るなら、手に入れて利用して何が悪い?
俺も抜け目なく、使えそうだな…と踏んだ相手の名刺は選り分けておいた。
パーティーも中盤に差し掛かった頃、ようやく会場に姿を見せた祐介が挨拶にやってきた。
父親とのお定まりの挨拶の後、俺に視線を移した祐介が、全くの初対面を装って、他人行儀な笑みを浮かべながら手を差し出してくる。
「…はじめまして」
「…こちらこそ」
交わせた会話はたったそれだけ。
一瞬だけ握り合った手はとても大きくて温かで…だけど。
その瞳の奥にある感情を読み取る間もなく外された視線。
「まだ仕事がありますので今日はこれで…。お招きありがとうございました」
そう言って父親に笑み返し、きびすを返した…その背中。
思わず一歩踏み出しそうになった足を、伸ばしそうになった手を…踏ん張って握りしめて、衝動をやり過ごした。
人波に紛れて、すぐに祐介の背中が見えなくなる。
一度も振り返る素振りさえ見せなかった、その背中が。
不意に襲われた不安に、胃がキリ…と鈍い痛みを訴えた。
…本当は、会いたくなんてなかった…?
思えば、刺青だって俺のわがままで…一条さんに説得されて仕方なく入れたもののはず。
最初に一条さんが刺青の話を振った時、祐介は凄く嫌そうな顔をしていたんだから。
メールだって、俺の打った物に対する返信ばかりだった。
全部、俺に対する贖罪(しょくざい)で、仕方なく付き合っていただけ…だったのかもしれない。
それでも良い…はずだった。
だから、俺は意識の戻った祐介を責めたのに。
側に居る事は出来ないから、好きになってくれなんて言えなかった…だから、贖罪でも構わないから、俺の事を覚えていて欲しい。
それだけで良い…はずだったのに。
それなのに。
…はは、笑えるな、俺…こんなに弱かったっけ?
身体がドンドン冷え切っていくのが分かる。
何かに縋り付いて、身体を支えたい衝動に駆られた時、俺の背後に居た母親が声をかけてきた。
「光紀、こちらコスメブランド・AKIのオーナー、アキさん。ほら、私のお気に入りのブランドの…」
その言葉に条件反射的に笑顔で振り返って、思わず固まった。
そこに居たのは、あの、Wホテルで祐介と親密そうに腕を組んでいた女、だったから。
「はじめまして、アキと申します。今日が息子さんの初パーティーデビューだって言うから会うのを楽しみにしてたのよ」
「…っ、こちらこそ、はじめまし…て…っ」
にこやかに微笑みながら差し出された手に、驚きで僅かに出遅れた手を強引に取られて、思わぬ力強さでに握りしめられた。
その力強さに、ハッと思い出していた。
コスメブランド・AKIのオーナー、アキは、見かけは絶世の美女だが、もと男…で有名だった事を。
「噂以上に良い男ね。初デビューのお祝いに、プレゼントを持ってきたんだけど、受け取ってくれるかしら?」
顔は微笑んでいるのに、握りしめられた手は緩むことなく、痛みさえ覚えるほどの力が加わっている。
「は…ぃ、喜んで…」
訳が分からず、けれど、とりあえずにこやかに笑み返すと、唐突に手が解かれ、綺麗に包装された細長い箱が目の前に突き出された。
「うちのはね、完全オリジナルの一点物で同じ物が二つとないの。きっと気に入るわ、着けて上げるわね!」
その世界の人間が持つ独特のパワフルさ…とでもいうのだろうか。
母親も周囲もこのアキの行動パターンには慣れっこ…のようで、苦笑を浮かべつつも静観し、誰も引きとめようとはしない。
その雰囲気から、俺もここは大人しくするべきだろう…と判断し、大人しくされるがままになっていた。
リボンを解き、剥がした包装紙を近くに居たボーイに強引に引き取らせ、開けられた箱の中から取り出され、掲げ上げられたのは…細長い洒落たデザインの施されたアクアマリンのネックレス…!
思わず上げそうになった声を、必死で押し殺して耐えた。
だって、そのネックレスは…!
驚いて目を見開いている俺の顔を、アキが相変わらずの美しい笑顔で間近に覗き込みながら、ネックレスを首に装着する。
「…放し飼いの飼い犬でも、首輪は着けとかないとね!」
密やかに耳元で囁かれたその言葉に、『え…!?』と小さく声を上げると、意味深な笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んでいた顔が離れていく。
「どう?これなら堂々と着けられるでしょ?」
声高に宣言したアキのその言葉の意味は、周囲に対しては男でも違和感なく着けられるデザインだと言うアピールだが、俺に対しては違う。
いつの間にやら第二ボタンまで外されていたシャツの胸元から覗く、青く透き通ったアクアマリンの輝き…。
以前なら親にも周囲にも着けている事を悟られないように気を使っていた。
でも、これからはそんな気遣いはいらなくなる。
コスメブランド・AKIのオーナー、アキからもらったアクセサリー。
誰に遠慮する事もなく、堂々と、AKIの一点ものだと自慢して身に着けることが出来る。
祐介から初めて貰った、大切なプレゼントを…。
「ありがとうございます。どこに行く時にも身に付けて、自慢させていただきます」
「当たり前でしょ!バンバン宣伝してちょうだい!」
その言葉に、周囲がドッと沸き返り…アキは優雅に一礼を返し、颯爽とその場を去って行った。
「良かったわね、AKIの一点物は質屋に出されてもすぐに倍の値段で買い戻すんですって。徹底してるので有名なのよ」
そう言った母親の言葉に、どうしてこれが今ここにあるのか…その理由がはっきりと分かって、冷えた身体に温もりが戻ってくる。
失ってしまった…と思った祐介との繋がり。
もう二度と戻ってこない…そう思っていた。
けれど、今、ここに…それはある。
あの日、祐介とアキが一緒に居たのは、このネックレスの受け渡しのため、だったのだろう。
なのに、俺は勝手に誤解して自分勝手な行動にでて…。
思えば、あれが事を悪化させた元凶。
祐介を信じず、自分の気持ちも捻じ曲げた…その結果。
もう二度と同じ過ちは繰り返さない。
何があっても、俺は祐介を信じよう。
自分の想いも曲げたりなんてしない。
アキが言った”放し飼いの飼い犬”…という言葉。
まさに今の俺が目指すべき、ぴったりな言葉だと思った。
離れていても、祐介は俺の飼い主なのだから。
胸元から香ってきた、あの…祐介と同じ香り。
凄く気持ちが落ち着いて、穏やかになれる。
俺をなだめられるのも、祐介だけだ。
俺は、その後もパーティーが跳ねるまで顔売りとコネ作りに専念し、立つべき足場の基礎をしっかりと固める事に成功した。
盛況だったパーティーが終わり、まだこれから馴染みの議員達と飲みに行く…という父親と、久しぶりに会った友人達とお茶に行く…という母親と別れ、俺は部屋の鍵を受け取る為にフロントへと向かった。
「七里光紀様ですね?コスメブランド・AKIのオーナー、アキ様からお預かりしておりますお品とメッセージがございます」
会場入りする前にフロントマネージャーとして紹介された高野という人が、にこやかな笑顔で俺の部屋のカードキーと小型の紙袋を差し出してくる。
「え?アキさんから?」
プレゼントなら、もう既にもらったはずだけど…?そう思いつつ『ありがとうございます』と、軽く会釈を返してそれを受け取り、部屋に向かうべくエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを待つ間に紙袋を覗くと、化粧箱らしき四角い箱とそれよりも更に一回り小さな長方形の箱、そして一通の封筒。
メッセージって、なんだろう?そう思いつつ封筒を手に取り、中に入っていた手紙を取り出した。
ちょうどその時エレベーターが到着し乗り込むと、俺以外乗り込む人も居なかった。
ちょうど良い…と二つ折りに折られていた手紙を開くと、そこには俺の物じゃないカードキーが挟み込まれていた。
そして、手書きで書かれた数字と署名代わりに書かれていた”Y”の文字…!
思わず目を見張った。
だって、”Y”のイニシャルは、祐介がメールで使っている名前代わりの物…だったから。
「祐介さん…っ!?」
誰も居ないと分かっていても、つい、口からもれた声の大きさにハッと口元を覆ってしまう。
けれど手紙の内容を見た瞬間、口元を覆った手は堪えきれずに浮かんだ笑みを隠す為の物に変わっていた。
手紙に書かれていたのは、部屋番号だけ。
そして添えられたカードキー。
それが何を意味しているか…!
慌ててエレベーターのボタンに手を伸ばし、その部屋番号のある階を押し込んでいた。
幸いにもその部屋の前に立つまで、誰とも顔を合わせなかった。
カードキーを差し込むと、カチャン…と乾いた軽い音と共にドアが開錠される。
ドアを押し開けた…途端。
内側から思い切りドアを引き開けられて、その勢いに引っ張られるままに『ぅわっ!』と前のめりに倒れ込む…と同時に、広くて分厚い温かな胸板に抱き留められていた。
「…光紀、」
囁かれた余裕のない声音。
背骨が軋むほどに抱きしめられた、その力強さ。
それだけで抱いていた不安が一気に払拭されて、身体が弛緩する。
一瞬でも祐介を疑った自分の愚かさに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
祐介の胸の中に抱き込まれたその背後で、引き開けられた反動を殺しながら、ドアがカチャン…と再び乾いた音を響かせて閉まる音が聞こえてくる。
「ゆ…」
名前を呼ぼうと開いた唇は、重なってきた祐介の唇に塞がれて声にはしてもらえなかった。
背中を抱いていた手が上がってうなじに差し込まれ、触れ合った唇を一時でも離すのが嫌だとばかりに、深く、長く、何度も角度を変えながら祐介の舌先が押し入ってくる。
考えてみればかなり久しぶりに味わうその感触と、まさに貪られる…という感覚。
咥内を蹂躙する祐介の舌の動きに合わせて自分の舌を絡ませるのが精一杯で、上手く息継ぎさえ出来ない。
「…っ、は…ぁ…っ」
今にも砕けそうな腰を叱咤し、足りない酸素を求めている事を訴えて、僅かに力を込めて厚い胸板を押し返す。
「来てくれないんじゃないかと思ってた…」
ほんの少し浮いた祐介の唇がそんな言葉を吐いて、すぐに角度を変えて再び重なってくる。
その言葉に、思わず『え?』と絡み取られた舌先の動きが止まった。
どうして、そんな?
そんな事ありえないのに!
その俺の変化に気づいたらしき祐介が、名残惜しげに互いの唾液で濡れそぼった唇をようやく離し、額をぶつけるようにして俺の顔を覗き込んでくる。
「…一瞬、光紀じゃないかと思った。それくらい、あの場で一番目立っていて…声をかけるのさえ気後れがした。やっぱり住む世界が違う…俺なんかが手を出して良い存在じゃない…ってね」
「そ…んな!俺…だって、祐介さんの素っ気無い態度で、どれだけ…不安になったと…!」
上がった息もそのままにそう言い募ったら、祐介が切なげな表情で俺の両頬に手をあて、包み込んでくる。
「…光紀、俺はそんなに強くない」
「え…」
「だから、この部屋を毎週土曜日取っておいた。会いに来てくれるか?」
「っ!」
この人は…!
どこまで俺の不安を先読みして、こんな風に…まるで自分だけの身勝手な願いだとでも言うような言い方をしてくるんだろう?
俺からは決して言い出せない…そんな望みを。
切なげに細められていたはずの瞳が、秘密を告げた子供のように楽しげな色合いに変わっていて、それがまた小憎らしいくらいによく似合っている。
凄く大人で、時として近寄りがたいほどの狂気さえ帯び、何をも恐れない強い人…。
なのに、不意にこんな風に凄く子供っぽい顔をして、俺に甘えて…同時に俺を甘やかしてくれる。
だから。
「…無理です…って言ったら?」
「…来れずには要られない様にするまでだが?」
「…どうやって?」
そんな風に切り返して、上目遣いに意味深に笑み返す。
祐介の細まった瞳に甘えて、ささやかな反抗を吐いた口に触れるだけのキスが落とされたかと思うと、不意に身体を抱え上げられた。
「っ!?ゆ…すけさ…っ!?」
「…まずは身体検査から」
「へ…っ!?」
「本当に俺の物だって言う刻印が刻んであるかどうか」
「あ…!」
すっかり失念していた刺青の事を思い出した時には、モノトーンでシックな色調で統一された間接照明だけの淡い光の中、広いベッドの上に身体を投げ出されていた。
その反動で、手に持ったままだった紙袋から、アキのプレゼントだという大・小の二つの化粧箱がベッドの上に転がり出た。
ベッドの向こうはカーテンが開け放たれたままの、壁面いっぱいのガラス窓で、藍色に近い闇色の中にビルのネオンが浮かぶ幻想的な夜景が広がっていた。
「なんだ?」
「アキさんからのプレゼントだって、メッセージと一緒に…」
「アキから?あいつ、ネックレスを返しただけじゃなかったのか…?」
怪訝そうな顔つきでその化粧箱に手を伸ばした祐介が、小さな箱の方は見た瞬間『ああ、これは俺のと同じ香水瓶だ』と、紙袋の中に落とし込み、大きい方の箱を開けると中から丸いプラスチック製の容器が出て来た。
それを見た途端、祐介の顔に一瞬、意味深な笑みが浮かんだのを俺は見逃さなかった。
「なんですか?それ?」
上半身を起こし、それを確認しようとしたのに、まるで俺から遠ざけるようにその丸い容器をベッドヘッドの端に置いた祐介が、紙袋もその横に置いて見えなくしてしまう。
「あ!やだな、見せてくれたって…!」
「後で…」
そう言いながら、祐介が俺の視界を遮るように顔をジ…ッと見下ろして来て、ドキンと心臓が跳ね上がると同時に思わずジリ…ッと、後ず去ってしまった。
キスしたり抱きしめられたり…は全然平気だったから、きっと大丈夫…!と思っていたのに。
だけどやっぱり、いざ…となると、無意識に身体が強張るのを止められなかった。
あの時受けた暴行も、俺の痴態も、祐介は知らない。
知ってたら、こんな風に俺を求めたりなんて…絶対しない!
そう思ってしまう気持ちが、どうしても捨てきれない。
「…怖い?」
「ぁ…、」
視線を反らし項垂れてしまった俺の鎖骨辺りに顔を寄せた祐介が、そこにあったアクアマリンごと、唇を押し当ててきた。
「っ、」
ビクッと無意識に跳ねた両肩を掴まれてそのままベッドの上に押し倒され、息を呑んだ。
そんな自分の反応が情けなくて、悔しくて、だけど、どうする事も出来ない。
「これは光紀の居場所を教えてくれた大事なお守りだ…だけど同時に、あの嫌な記憶を思い起こさせる物でもあるはずだ。なのにどうしてそれを外さずに着けている…?」
胸元に顔を埋めたまま告げた祐介の”あの嫌な記憶”という言葉に、ハッとあの…影司が取り続けていたビデオの事が頭をよぎった。
あれは、どうなった?
誰もそんな物の存在を口にしなかったから忘れてしまっていたけど…きっと、あの場所に駆けつけた時点で、一条さんはビデオの存在に気がついていたはずだ。
その事に思い至って、俺はどうして一条さんと祐介が刺青を入れることを承諾したか…その理由をようやく理解する事が出来た。
…一条さんと祐介はアレを見たんだ…。
はっきりと確信した途端、強張っていた身体がゆっくりと弛緩していった。
もう、隠す事は何もない。
アレを見て、それでも、祐介はこうして俺を求めてくれている。
今さら、何を怖がる事がある?
「…それ、俺にとっては首輪なんです」
ゆっくりと深呼吸し、解けつつあるからだの強張りを祐介も感じたのだろう…埋めていた顔を上げ、俺の顔を覗き込んできた。
「首輪…?」
「はい。アキさんに”放し飼いの飼い犬”って言われて、そうなりたい…って思って」
「アキの奴…!」
憤慨したように言った祐介の顔に、俺はソッと手を伸ばしてその顔を両手で包み込んだ。
「本当です。俺、どっちかっていうと猫気質で人を信じないし、気ままで身勝手なんだけど、祐介さんにとっては忠実な犬になりたい…って思ってるんです。だから、俺の飼い主になってくれませんか?」
「み…つき…」
「あ、でも、俺の事捨てたりしたら噛み付きますよ?」
すっかり強張りが解け、笑いながらそう言ったら、祐介の顔にもふわり…と柔かな笑みが浮かんだ。
一番最初に出会ったときそのままの…。
いや、それ以上の、俺だけのための揺るがない笑みで…。
「構わないよ、光紀になら何をされても…殺されたって構わない。その誓いのための刺青だ」
顔に当てていた手の平に、すごく大事な宝物に触れるようなキスを落とされて『見るか?』と、聞いてくる。
頷き返したら、腕を引っ張り上げられて『じゃあ、お互いに』と微笑まれ、互いの服に手をかけて脱がしあった。
「う…わ、すごい…!」
それを見た瞬間、感嘆とも溜め息とも取れぬ呟きが洩れた。
互いに服を剥ぎ取りあって、初めて見た祐介の背中に一面に、俺の背中の鳳凰と対を為す鳥が優美に羽を広げていた。
動物の世界では普通、雄の方が派手だ。
祐介の方が雄だと一条さんが言っていたとおり、目の前のそれは俺の背中のモノよりも色使いが鮮やかで、格段に迫力があった。
「あ…!この目の部分、ひょっとして…?」
「ああ、あの時の傷痕だ」
腰の辺りにあった鳳凰の目の部分…よく見ないと分からないほど模様の中に上手く取り入れられているけれど、指先で触れると明らかに分かる窪み…そこは、影司に刺された傷痕だった。
触れてみて初めて知った…思っていたより深そうな傷痕。
傷がある場所も、あともう何センチか背骨側にずれていたら脊髄をやられていたかもしれない…そんな危うい場所だった。
こんな傷を負ったまま、あの高い崖から落ちたのだ…。
一条さんも散々言っていたはいたが、本当に生きてここに祐介が居る事が奇跡としか思えない。
思わずその傷痕部分に顔を寄せて口づけ、祐介の腰に両腕を回して背中越しに抱きついていた。
「…生きてる」
それだけ言うのがやっとで、後は込み上げてきた何かで何も言えなくなって、本当に子供みたいに回した腕にギュッと力を込めて、どこにも居なくならないように抱きしめた。
今までこんなに大事で大切だ…と思ったものはない。
そして、その存在を抱きしめる事が出来る自分…というものも。
生まれて初めて、ここに居て良かった…と、生きていて良かった…と、心から思えた。
ずっと、ずっと探して、求めていた…これが答え。
「…光紀」
ギュッと力任せに抱きついていた腕に祐介の指先が触れ、まるで小さな子供をあやすようにポンポン…と撫でられて、ようやく力を緩める。
その腕の中で反転した祐介が、何となく気恥ずかしくて俯いたままの俺の顔を覗き込んで、小さく笑った。
「光紀のも見たい」
そう言って、ベッドにうつ伏せに押しつけられた。
ジ…ッと舐め尽くす様に背中に注がれる祐介の視線が妙にはっきり感じられて、まるで視姦されているみたいで羞恥で顔が熱くなった。
「…すごいな。まるで生きているみたいだ」
そんな言葉と共に背中に落とされた感触に、思わずビクッと身体が跳ねた。
肩甲骨辺りにある鳳凰の羽根模様の一部。
一番化膿がひどくて、引き攣れた皮膚の起伏があった所…そこに触れた祐介の唇が、その起伏痕をなぞるように辿っていく。
「あ…っゆ…すけさ…っ」
身体を捻ろうと浮かした肩を腕ごと押さえ込まれて、祐介の熱い唇と舌先が鳳凰の模様の中に覆い隠された傷痕を正確に這いながら、降りていく。
「俺以外、他の誰にもこの身体に触れさせるな…」
「そ…んな…」
「触れた奴は俺が殺してやる…!これは、俺のものだ」
「…ぁっ、んっ」
その言葉を凄く、嬉しい…そう思うと同時に、ゾクッと背筋を駆け抜けた、なにか。
腰から降りてきた舌先に、尾てい骨の上の窪みと双丘の狭間の感じやすい薄い皮膚を撫でられて、体中の産毛が総毛立つ。
分かっているのに…それでもやっぱり、一度ひどく扱われたその場所に指を這わされると、身体に緊張が走った。
すると、ス…ッと指が引き、祐介の温もりが背中から離れていく。
「…アキは、男だった頃レスリングをやってたんだ」
祐介のその動きに動揺を感じる間もなく、不意に振られた脈絡の無い話に、『え?』と、背中越しに祐介を見上げると、さっきベッドヘッドに置いた丸い容器を手にとって、その蓋を開けている所だった。
「へぇ…、意外…ですけど、その事とそれが何か…?」
「今でこそたいした美女っぷりだが、昔は厳つい男らしい顔つきとムキムキの筋肉質で、そのくせ肌の肌理と艶、香りにはうるさかったんだ。で、これはそんなあいつのこだわりの集大成…」
そう言って丸い容器の中から、祐介の長い指が白っぽい柔かな固形状の物をたっぷりとすくい上げた。
「それ…なんですか?」
「ボディバターとか言うらしいが、これはあいつの特製品。俺用に作った香り入りで、身体を温めるマッサージ効果とリラックス効果…早い話が媚薬効果あり、ってとこだな」
「え…!?や、ちょ…待って」
慌てて反転して拒もうとしたけど、そんな行動はお見通しだったんだろう、きっちり太股の上あたりに乗っかられ、首元を押さえ込まれて身動きが取れない。
首だけ何とか捻じ曲げて見上げた祐介の顔には、どこか嬉々とした笑みが浮かんでいる。
「それに、光紀の刺青は興奮して身体の熱が上がって初めて完成品だと、一条が言ってたぞ?描いた模様が一層鮮やかに浮き上がって見えるはずだ…ってな」
「は…ぃ!?」
なにそれ?そんな話、聞いてない!!
焦りまくっている内に一瞬冷たく、でも想像していたよりずっと柔かなモノが肌に触れて体温に溶けた途端、ヌル…とした感触に変わって、背中一面に塗り広げられていく。
バターというだけあって、肌に塗られるとたちまち溶けていく様で、温かな祐介の手の平で丹念に撫でつけられて塗られていく感覚は、ヤバイくらいに気持ちが良い。
その上。
「…ぁ、祐介さんの香り…」
塗り広げられていくのと同時に広がっていく、あの、香り。
体温で温められた香り…というのは、なんだかひどく官能的で…温かな手の感触とも相まって、うっとりと身体が弛緩していく。
さっきと同じように双丘の狭間からスルリ…と滑りよく祐介の指先がその奥に忍び込み、あの場所に触れても、もう、身体に緊張が走ったりもしなかった。
身体のラインをなぞるように撫で廻る祐介の手がもどかしく、身体を温めるマッサージ効果も…と言っていたとおり、ジワジワと自分の体温が上がっていくのが分かる。
その熱が、体の芯を痺れさせるような疼きへと変わっていく。
不意に首元を押さえていた手が移動して腹へと回された…と思った途端、グイッと身体を持ち上げられて、ベッドの上に向かい合わせで膝立ち体勢に変えられた。
「…光紀」
俺の一番好きな、艶めいた祐介の声が俺の名前を呼んで、ついばむ様に唇を合わせて下唇を甘噛みし、そのまま首筋から鎖骨へと唇が這い降りる。
「ん…祐介、さん」
上ずった声で名前を呼んで、下へと降りていく頭をかき抱き、髪に指先を絡ませた。
その間にも下肢は膝立ちした足の間に割り入れられた祐介の脚によって割り開かれ、バターを絡ませて伸びた指先が再び双丘に分け入って、その奥にある後孔へと侵入してくる。
もう片方の祐介の手に身体のラインをなぞるように足から腰、胸元へと撫で上げられ、小さな突起を弄ぶように指先で弄られると、たちまちそこが固く尖って、更に刺激に敏感になっていく。
「…ん、…あっ」
ビクッと、さっきまでの身体の強張りとは明らかに違う、快感を追う震えに背を反らすと、突き出す恰好になった胸元の突起に辿り付いた祐介の唇に強く吸われて、その刺激に思わず後孔をキュッと締め付けてしまう。
「ふ…、相変わらずキツイな、光紀、緩めて」
「…そ、んな…、無理…っ」
喋る合い間も両方の突起を舌先で舐め上げられて、指先で押し潰されて、ますます鋭敏になって行く感覚に、そこを緩めるだけの神経に気が廻らない。
「じゃぁ…」
そんな言葉と共に『え?』と思う間もなく、脚の間に差し込まれていた祐介の足に大きく太股を割り開かれて、僅かに緩んだ後孔から指が引き抜かれる。
「…やっ…ぁ!」
その、何とも言えない指の出て行く心もとない感覚に、思わず目の前にあった祐介の首筋に抱きつくと、体勢を整える間もなく再びヌルリ…と、さっきより明らかに多い冷たいバターごと指が襞を押し広げながら入り込んできた。