開かずの間

 




ACT 5




耳を塞いで・・うずくまったままのマリーの耳に・・ピアノの音が聞こえてくる。

「ピアノ・・?誰・・・」

顔を上げたマリーの視界の先に・・ピアノを弾く一人の少年の背中があった。

「あなた・・誰・・?」

そのピアノの側に行き、背中に問いかけたマリーに、弾くのを止めた少年が振り返る。

その顔は・・巽の顔ではない。

マリーより10歳くらい年上の・・16〜17くらいの精悍な顔つきの少年だ。

「涙は止まった・・?体が弱いのは君のせいじゃない。せっかくお父様が企画してくれた誕生日パーティーだ・・泣いてちゃお父様が余計に悲しむよ・・?」

ハッとしたようにマリーが唇を噛み締める。

「だって・・!こんな日に熱が出るなんて・・!お父様に恥をかかせてしまったわ・・!」

病弱で、なかなか他の人と顔を合わせられないマリーのために、盛大な誕生日パーティーをマリーの父が企画した。

ところが・・その当日にマリーは熱を出し、結局パーティーは主役不在のまま、仕方なくお開きになってしまったのだ・・。

今頃マリーの父は、来てくれた客に玄関でお詫びの挨拶をしているはず・・。

「・・せめて、君が元気にならなくちゃね。君が笑顔を取り戻したら、きっと君のお父様は喜ぶと思うよ・・?」

再びあふれそうになった涙を我慢して・・マリーが少年の側に近寄る。

「ピアノ・・弾いてちょうだい。それを聞いていたら、笑えそうな気がするの・・」

 

「・・じゃあ、君が笑っていられるように・・」

そう言って笑った少年が、マリーのために音を奏でる・・。

どれくらい時間がたっただろうか・・いつしか熱の事も忘れ・・夢中になってピアノに耳を傾けていたマリーの耳に、自分の名を呼んでいる父の遠い声が聞こえてきた。

「あ・・っ!お父様だわ!行かなくちゃ!・・ねえ、また・・ピアノを弾いてくれる・・?」

笑顔を取り戻したマリーが少年に問いかける。

「君が・・笑っていられるようになったら・・また弾いてあげるよ。だから・・泣かないで・・」

「ええ!わかったわ。約束よ!また、ピアノを弾いてね!」

ドアの方に駆け寄ったマリーが部屋を出て、父のその笑顔を見せた後・・父と一緒に部屋に戻ると、もう少年は姿を消していた。

名前すら聞いていなかったその少年の弾くピアノの曲だけを・・マリーの記憶に刻み込んで・・・。




 

そして・・時は流れ、マリーは病弱なまま・・けれどとても美しい娘に成長した。

生まれてすぐに母を亡くし、父一人・子一人の・・この上ない愛情を注がれて育ったマリーの最愛の父が・・事故で急死した・・!

この事がマリーの人生を一変する。

もともと貿易商人であった父を失ったマリーの立場は微妙で・・母は日本人であったがすでに亡く、他に頼れるような親戚もなかった。

父の祖国に行けば、会ったこともないが・・とりあえず身を寄せられる親戚はいた。

だが、病弱なマリーにその長い航海が耐えられるわけもなく・・行った事もない知らない所へなど、行きたいわけもなかった。

けれど、日本に留まるとなれば・・父のやっていた事業を受け継がねばならない。

それまでそんな事など一度も経験のないマリーに・・それは無理な話だった。

事業を他人に手渡せば、それなりの財産が手に入り・・他国へ行かずとも何とかやっていける・・。

・・・が、貿易商人として、当時の日本政府から厚待遇を受けていたマリーの父は、その館を政府公館という名目で外国人ながら居住地として構える許可を得ていた。

そのため・・事業を手放せば必然的にその館から出て行かねばならない。

それだけは・・この館を手放す事だけは・・マリーには出来なかった・・。

それだけマリーの父はこの館を愛していたし、なにより・・父との思い出のギッシリ詰まったこの館を、マリー自身失いたくなかったのだ。

だから、この時現れた政府高官と父の事業に投資する管財人の提示した条件を・・マリーは受け入れざるを得なかった・・。

それは、事業を受け継ぐ能力のある者に後を継がせ、管財人と共に後見人としてこの館の管理を任せる・・・というものだった。

その話を受け入れてから・・マリーはその館に軟禁状態となった。

どこへ行くにも後見人からの監視が付き、唯一館の中だけが・・監視の付かない場所だったからだ。

その・・後見人となった人間が、マリーの前に現れたのは・・マリーの父の死後、一ヶ月ほど経った頃だった。

マリーがいつものように、あの・・ピアノの置いてある部屋でくつろごうと部屋へ入ると・・ピアノの側に、黒いコートを羽織った見慣れぬ男が立っていた。

朝の明るい陽射しであふれたその部屋で・・まるでその男の周囲だけ闇が降り立ったような・・異質な存在。

「・・ど・・なた・・・?」

怯えたように震えるマリーの呼びかけに、ゆっくりと振り返った男は、まだ30代前後と思われる・・陽によく焼けた精悍なたくましい顔つき。

横顔から垣間見えた瞳は、漆黒の輝きを放つ静かな優しげな色をしていた・・。

その瞳の優しい輝きに、ホッ・・と胸をなでおろしたマリーが、完全に自分の方に向き直った男の右側面に・・顔を強張らせた。

その・・右目は、まだ新しい無残な切り傷と共に固く閉じられている。

マリーの表情に・・一瞬男が悲しげな表情を見せ、スッ・・と片手でその傷を隠すように覆い、マリーからその右側面が見えない角度に顔をそむけて言った。

「・・驚かせてしまって申し訳ありません。もっと早くに来るべきだったのですが、この通り・・怪我を負ってしまって・・。お父様の事は、心からお悔やみ申し上げます・・。私が、あなたの後見人になった、篠宮 蓮(しのみや れん)です・・」

低く・・静かに言う声は、その闇から抜け出たような存在に似合っていて・・けれど、不思議とマリーはその男を怖いとは思わなかった。

父の事を口にした時見せた、辛そうな表情といい、自分を怖がらせまいとする心配りといい・・悪い人ではないと、マリーの直感が告げていた。

「・・!?あなたが・・?」

もっと年上の人間を想像していたマリーが、その意外さに目を見張る。

「あなたのお父様には大変お世話になりました・・。事業の方はとどこうりなく進んでおりますが・・今、他の国では戦争が起こっていて・・日本にもその影響が及んで来ています。あなたもここでは半分外国人・・政府の役人の中にはスパイの嫌疑をかけてくる者も出ていて、窮屈な思いをさせてしまっていると思いますが・・どうかご理解下さい・・」

「スパイ・・!?そんな・・!」

思いもかけなかった事を告げられたマリーが、真っ青になって立ちすくんでいる。

「あなたのお父様の財産を狙う者達の画策です。どうか・・外出は極力避けてください。窮屈な思いをさせてしまうお詫びに・・・」

と言いかけた男が、胸ポケットから小さな箱を取り出した。

色とりどりの宝石があしらわれたその箱を持って、マリーの方へ歩み寄った男に、思わずマリーが後ずさる・・。

「・・ああ・・すみません・・。怖がらせてしまいましたね・・。もし何かお望みの物が在りましたら、お知らせ下さい。すぐにお届けしますので・・」

そう言って、すぐ近くにあったサイドテーブルの上にその箱を置こうとして・・その手前で手元がずれ、慌てて置きなおす。

「・・まだ、遠近感が上手くつかめなくて・・。これはここにおいて置きます。以前、あなたのお気に入りだと・・お父様から伺った事のあるものです。お気に召していただけると良いのですが・・それでは、これで失礼します・・」

手元がずれた時、一瞬男の顔に憎悪とも取れる険しい表情が浮かんだが・・それは次の瞬間、悲しい・・自嘲気味な笑みへと変わり・・マリーに対して軽く会釈を返すと、そのまま部屋を出て行った。

「・・あ・・っ!」

恐らくは・・自分の態度が男を傷つけたであろう事は明白で。

そのことを謝ろうと後を追ったマリーだったが、すでに男の姿は何処にも見当たらなかった。

深いため息と共に部屋に戻ったマリーが、男の置いていった小さな箱を手に取った。

それは・・小さなオルゴールだった。

箱の裏側に付いたネジを巻き、開いた箱から聞こえてきた曲は・・あの日、この部屋でピアノを弾いてくれた少年が奏でた曲だった。

「・・まあ・・!?」

一瞬、驚きはしたものの・・父から聞いたと言っていた男の・・篠宮 蓮の言葉を思い出し、納得したように一瞬高鳴った胸を落ち着かせる。

(そうよね・・あの人なら・・こんな物じゃなく、ピアノを弾いてくれるはずだもの・・)




 

その日以来、篠宮 蓮がマリーの前に姿を見せる事は無かった。

その代わり・・定期的に花や服、アクセサリーなど・・マリーの好みを熟知した贈り物が届けられた。

そして・・生前父がよくやってくれたように・・マリーの誕生パーティーも催してくれた。

自由に外を出歩けないマリーが、久しぶりに会う友人達と楽しく過ごし・・あまり気は進まなかったが、蓮が指定し、招待した役人や事業の商売相手と言葉を交わし・・パーティーをつつがなく終えた頃になっても、やはり・・蓮は姿を見せなかった。

(篠宮さんは・・私が嫌いなのかしら・・あの時、あんな失礼な態度をとってしまったから・・)

せめて自分の誕生パーティーの時ぐらい、顔を見せてくれるかと期待していたマリーだったが・・それは叶わなかった・・。

来客者を見送って、閑散とした館の中で・・側に居てくれる者のいない居たたまれなさに・・無性にあの曲が聞きたくなったマリーが、あの部屋に駆け込み、オルゴールのネジを巻く。

流れ出る旋律に合わせて・・心もとなくピアノの鍵盤を叩いていると・・

「・・弾いて差し上げましょうか・・?」

不意にかけられた言葉に、驚いてマリーが振り返ると・・にこやかな笑みを浮かべた・・20代半ばくらいの見慣れぬ男が立っていた。

品の良い整った顔立ちにすきの無い物腰は・・一目で上流階級の人間だということを伺わせる。

「あ・・!も、申し訳ありません・・!お客様は皆様お送りしたとばかり・・」

まだ客が残っていた事に自分が気づかなかったのでは・・?と思ったマリーが慌てて謝る。

「ああ、いえ、お気になさらず。私が送れて着いてしまったものですから・・。父に急用が出来まして・・私は父の代理です」

「代理・・?」

「はい。あなたの後見人兼管財人・・二科(にしな)家当主の代理です。二科 貴也(にしな たかや)と申します。あなたとは・・小さい頃に会った事がありますから、初めまして・・ではないですね。お久しぶりです、マリーさん」

「二科のおじ様の・・!でも・・お会いしたかしら・・?」

「あなたはまだ小さかったから覚えていなくて当然ですよ。私ですら父に言われるまで忘れていましたし・・。なんとなく・・この館の中で小さな女の子に会ったな・・というぐらいの記憶しかありませんから」

ひょっとして・・?と、思ったマリーが眼を輝かせて聞く。

「あの・・ピアノ・・お弾きになるんですか?この曲も・・?」

「ええ、弾けますよ。急に代理を頼まれた上に遅れてしまったものですから・・プレゼントも何も用意できなくて。よろしかったら、この曲をプレゼント替わりに弾いて差し上げましょうか・・?」

「ええ!是非!小さい頃に弾いてもらって以来、とても大事な・・思い出の曲なんです!」

「それは奇遇ですね。私もこの曲が一番好きで・・一番最初に弾き覚えた曲です」

そう言って、ピアノを弾き始めた二科 貴也の奏でる音に・・ジッと耳を澄ましていたマリーの瞳の輝きに、わずかな陰りが宿る。

(・・こんな・・感じだったかしら・・?あの時は・・もっと優しい・・包み込んでくれるような感じがしたんだけれど・・?大人になれば弾き方も変わるだろうし・・きっと、この人だわ・・!)

あの時の少年と、年齢差も一緒くらい・・・

「あの・・ひょっとして・・小さい頃に私にこの曲を弾いてくれたのは・・二科さんなのでは・・?」

ピアノを弾き終わった二科 貴也に思い切ってマリーが尋ねる。

「・・そうかもしれませんね。この曲は昔からよく弾いていましたから・・。そんな事より、『二科さん』は他人行儀ですね。貴也で結構です。あなたとは、親族みたいなものですから・・私もマリーと呼ばせて頂きます」

「親・・族・・!?」

日本にいる限り身寄りの無いマリーにとって、それは心惹かれずにはいられない言葉だった。

「二科家はあなたの後見人ですよ?そう言って差し支えないでしょう・・?あんな・・篠宮とはわけが違う・・!」

「え・・?篠宮さん・・!?」

あからさまに嫌悪の態度を示す貴也に、マリーが怪訝な表情を浮かべる。

「あの男には気をつけて下さい!あなたのお父さんに取り入って、今では事業まで継いでしまっていますが・・何処の馬の骨とも知れない成り上がり者です。あの怪我にしたって、あなたのお父さんを庇おうとして負った傷だとか言ってますが・・それも本当かどうか・・。ひょっとしたら事故に見せかけて、あの男があなたのお父さんを殺したんじゃないのか・・と私は思っているんですよ?その疑いをかけられないように、ワザとあんな傷をつけたんじゃないかと・・」

「そんな・・!」

父の事に触れた時の連の表情は、本当に辛そうで・・あれが嘘だったとはとても思えない・・いや、思いたくなかった。

ましてや・・父が事故でなく・・殺されたなど・・!

「この館の管理を任せてもらいたいからどうしても・・と、無理やり後見人になったのだって、あなたを騙して財産を全て自分の物にするためかもしれない・・!だからあなたに監視つけて見張ったりしているんです!」

確かに・・館だけは手放したくないと申し出たマリーに対し、初めそれは認められないと突っぱねられた。

それを・・父と同じく公的役割を果たす館として管理するから・・と、説得したのは篠宮 蓮だったと聞いている。

それは必然的に後見人としての役割を管財人としての二科家と2分することでもあった・・。

それを・・二科家に対する対抗・・もしくは反抗と、貴也が受け取っても不思議ではない。

「でも・・監視は・・政府からのあらぬ疑いをかけられないためだと・・」

「それだとて・・篠宮の流した噂かもしれない。現にあの男はあなたの前に姿を現さない・・!それはあなたに対してやましい事があるからではないですか?とにかく、あんな男の言う事など信用してはいけない・・!あなたは、二科が守ります・・!」

そう言い残して貴也は帰って行った。

貴也の言う事も・・それなりに辻褄があっていて、マリーはどちらを信じればいいのか分からなくなっていた。

ただ・・篠宮 蓮が、あれ以来一度も会いに来てくれないのは事実で・・その事がマリーの心の揺れの原因でもあった。

その夜も・・館の玄関先に置いてあったと使用人が持って来た物は・・連からの誕生日プレゼント・・大きな秋桜(こすもす)の花束だった。

その花は・・父が生前大好きだった花で、マリーも大好きな花だった・・。

こんな風に・・送られてくる品々は、本当にマリーのことを思って・・考えてくれているのだと思わずにはいられない物ばかりで・・。

マリーもいつしかそれを心待ちにするほどになっていた。

けれど・・それはいつも届けられるばかりで、連は一向に現れないのだ・・。

あの・・最初の日に思わず取ってしまった態度を、直接会ってお詫びがしたいと手紙をしたためても・・‘気にしてはいません’と、贈り物に添えられたカードに返事が返って来るだけだった。

誕生日に贈られた花束にしても、玄関先に置いてあったという事は・・恐らくは蓮本人が直接出向いて来たのだろう事を物語っている。

なのに・・添えられたメッセージカードには、‘私のような者が現れては、不快に思う者も大勢いるでしょう。直接会って言えない事をお許し下さい。心よりお祝いを申し上げます’と、書き記してあった。

(どうして・・会ってくれないの・・?本当は・・私を騙しているから・・?私に対して、やましい事があるから・・?)

マリーの心の奥底に投げ込まれた小さなさざ波は・・寄せては返す波のように、消えることなくいつまでもさざ波だっていた・・。









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