開かずの間
ACT 6
それ以来、二科 貴也は頻繁にマリーの元を訪れるようになり・・塞ぎごみがちだったマリーも次第に明るさを取り戻していった。
そして、当然の成り行きとして・・貴也との婚約話が持ち上がっていた。
マリーにしても決して貴也が嫌いなわけではなく・・父の代から世話になっている事もあって、事実上は家同士の政略結婚でもあった。
ただ・・そうなると、必然的にこの館を出ねばならず・・篠宮 蓮ともその関係を完全に失う事になる。
館だけは、どうしても手放したくないマリーは、そのために二科家との婚約に踏み切れずにいた。
けれど・・それとて時間の問題で、延び延びにしている返事を出さねばならない。
そしてそれは、マリーに断る権利のない返事でもあった。
それならば・・せめて篠宮 蓮にこの館を続けて管理してもらいたいと、マリーは政府に願い出て・・そのための話し合いが館内で行われる事になった。
当然、蓮本人も招かれるわけで・・マリーにとっては2度目で、そして最後になるやも知れぬ再開になるはずだった。
ところが・・・
その話し合いの時刻になっても、篠宮 蓮は現れなかった。
それは・・つまり、マリーの申し出である館の管理を拒否する・・という事で、政府関係の役人と貴也が、館からの退却と所有権放棄のための書類へのサインを、マリーに突きつける。
それでも・・もう少し待ちたいと、微かな希望を捨てられないマリーに、貴也が冷たく言い放つ。
「私の言ったとおりでしょう・・?所詮あの男はあなたの財産が狙いだったんです。二科家との婚約が決まったとなれば、篠宮にはもうこの館もあなたも用無しなんです。どちらにしてもこの館はあなたの手を離れます。あきらめて下さい」
この一言に微かな希望も打ち砕かれて、マリーが書類に手を伸ばした時・・・
『バタンッ・・!』
と、ピアノの横の掃き出し窓が乱暴に押し開けられて、舞い込んだ風と共にひるがえったカーテンの中から・・黒いロングコートのあちこちに裂けた傷跡と泥汚れをつけた、篠宮 蓮が現れた・・!
「こんな場所から失礼します・・。それにサインする必要はありませんよ、マリー・・。ついさっき、この館の所有権は完全に政府の手から離れ、個人所有の物に変わりました。そしてその人物からマリーに、その管理が譲渡されます」
突然現れた・・しかもそのただ事ではない連の様子に、その場に居合わせた者は皆、唖然とした表情で連の行動を見つめている。
その中でも特に・・貴也は、真っ青になって唇を噛み締めていた。
「それはどういう事ですかな?篠宮さん?」
いち早く冷静さを取り戻した役人が、連に向かって問いかける。
「こちらの書類に全てそれに関する事が印してあります・・」
つかつかと役人に歩み寄った蓮が、胸ポケットから分厚い封書を取り出して手渡し・・更に貴也に向かって言葉を続ける。
「それから・・二科家の所有する事業投機に関する株や債権は、全て何の価値もない物になります」
「なんだって・・!?どういうことだ!?」
右側面の傷跡を隠すように伸ばされた蓮の黒髪が、フワッ・・と風に舞い上がり・・蓮に詰め寄った貴也の手を、ビクッとすくませる。
「それに関する事も全て今渡した書類の中に・・。つまりは事業内容は全て他社の物になったという事です。早い話が乗っ取られた・・という事ですよ、二科さん・・」
「そんなバカな・・!!」
蒼白になった貴也が、役人の手に手渡された書類に食い入るように視線を走らせている。
「どういう・・事ですか?篠宮さん?それに・・その切り傷は一体・・!?」
さっぱり話の見えないマリーが、不安げに蓮を見上げている。
そんなマリーに、左側面だけ見えるように振り向いた蓮が、あの・・優しい・・静かな漆黒の瞳を向けて、微笑んだ。
「あなたは・・何の心配もしなくていいんです。今まで通りこの館で、何の不自由もなく暮らせます。もう、監視が付くこともありません・・」
「え・・!?でも・・!」
事業が乗っ取られた・・という事は、マリー自身にも、何の財産も無くなったという事で・・何の不自由もなく暮らせるはずがない!
「何を寝ぼけた事を・・!事業が乗っ取られたという事はマリーには何も残らない!篠宮・・!貴様、一体何のつもりで・・!?」
蓮の言った事が全て真実だと知った貴也が、書類を机の上の叩き付け・・燃えるような怒りの瞳を蓮に向ける。
「マリーには、新たにこの館の所有者となった人物が後見人として付き、不自由なく暮らせるように取り計らってくれます。残念でしたね・・?私を殺したかったら・・もっと腕の立つ、信用のおけるプロを雇うべきだったんですよ・・。今頃私を襲ったあの連中は、警察でペラペラとあなたの事を話していますよ。あなたに私を殺せとお金で雇われたとね・・。ついでに、マリーの父親を事故に見せかけて殺すように、積荷の紐に小細工した事も・・!」
「・・!?」
血の気の失せた表情でマリーが貴也を凝視する。
「な・・何をバカな・・!そんな連中の言う事を誰が信用する!?そんな証拠など、何処にもありはしない!疑わしいのはお前の方だろう!篠宮!お前は・・マリーの父親に裏取引に関する危険な事をやらされていたはず!それを恨んでいたって何の不思議もない・・!!」
声を荒げて息巻く貴也とは対照的に・・蓮は動じる事無く静かに、クスクスと笑い声を立てた。
「・・クックッ・・これはお笑い草ですね・・。それは私が進んでやっていたんですよ?まあ、確かにあなたは何の証拠も残していない・・。おかげで私もあなたが動きを見せるまで待つしかなかったんですから・・。ですが、この事は確実に表ざたになって、二科家の名誉に泥を塗る事になる。それを・・あなたのお父様は許しますかね?例え証拠不十分で釈放されても、あなたは二科家から追放される・・その上、この事業の失敗で二科の受ける損害も莫大です・・」
「貴様・・!そんな事をして一体何の意味がある!?お前は無一文になった上、二科からも追われる羽目になるんだぞ!なぜ、そこまでする!?」
貴也の問いに答える代わりに・・蓮の視線がマリーに注がれる。
それに気づいた貴也が、テーブルの上に置いてあったペーパーナイフを素早く掴んでマリーの首筋に突きつけた!
「この女のためか!?こんな女一人のために・・あれだけの事業と富を手放して・・二科を!?冗談じゃない!篠宮!その書類を全て焼き捨てろ!さもないと・・この女の顔に、お前と同じ傷をつけてやるぞ!」
蓮の表情に、苦渋の色が滲む。
マリーを人質に取られた状況で・・役人も、ただ成り行きを呆然と見つめている。
「・・やめて下さい!貴也さん!昔のように・・私にピアノを弾いてくれた頃のように・・優しい人に戻って下さい!私は、何もいりません!どうして・・こんな!?」
喉元に冷たいナイフの感触を感じながら・・マリーが上ずった声で叫ぶ。
「何の事だい・・?それは君が勝手に思い込んでいただけの事だろう?ピアノにしたって、君を信用させるために話を合わせただという事がわからないのか?あんな曲・・たしなみ程度に誰でも弾けるさ!」
「そんな・・!」
ずっと・・大事に、大切に持ち続けていた思い出を・・無残に打ち砕かれたマリーの両眼から、堪えきれなくなった涙が零れ落ちていく。
その時、お茶を運んできた使用人がドアを開け・・ハッと一瞬そちらに気を取られた貴也に、蓮が体当たりをしかけた。
壁に打ち据えられた貴也の手から、ペーパーナイフが転がり落ち、蓮が素早く体制を立て直すと、マリーを背後に庇うようにして貴也の前に立ちふさがった。
「あなたもバカな人だ・・。本当に私があの連中を警察に突き出したと・・本気で信じたんですか?片目の男に多勢に無勢・・逃げ出してくるのがやっとでしたよ。それなのに・・こんな行動を取ったら、自分でそれを認めているようなものじゃないですか?これで二科の跡取りだなどと・・よく言ったものです」
あからさまに・・まるで挑発するかのような蓮の言葉に、怒りに我を忘れた貴也が転がったナイフを摑み上げて、そのまま蓮に向かって突進する。
よけようと思えばよけられる・・それだけのわずかな余裕があった・・。
だが・・薄い笑みを浮かべた蓮は、あえて貴也のナイフをよけようとはしなかった。
『ズッ・・!!』
と、なんともいえない感触と、耳障りな音と共に・・蓮の体にのめり込んだ貴也の手元に、生暖かい物が滴り落ちてくる・・。
「・・・ひぃ・・っ!!」
自分のやった事に気がついた貴也が、驚愕の表情を浮かべて・・目の前の、薄い笑いを浮かべた蓮の顔を凝視する。
「・・本当に・・バカな人だ・・。これで証拠が出来ましたね・・あなたは・・人が見ている前で私を刺した・・。どうあがいても逃げられませんよ・・?二科・・貴・・也・・」
ズルッ・・と、蓮の体が床の上に崩れ落ちる・・。
「篠宮さんっ!?」
真っ青になったマリーが、蓮の体を抱え起こす。
それと同時に部屋中に使用人の悲鳴が響き渡り、役人が呆然と座り込んだ貴也を捕らえて押さえ込み、使用人に警察と医者を呼べ!と叫んでいる。
「篠宮さん!篠宮さんっ!!」
必死になって呼びかけるマリーの声に、蓮が薄っすらと左目を開けた。
「・・・すみません・・あなたとの約束・・守れそうもありません・・」
その言葉に・・マリーがハッと目を見開く。
「やっぱり・・あなただったんですね!?どうして、言ってくれなかったんですか!?どうして・・父の事も何も・・言ってくれなかったんです!?」
「・・証拠が・・なかった。あの男の・・二科の企みを暴くためには、あなたを利用する以外なかった・・。私は・・幼い頃に盗みを働いて・・殺されかけたところを、あなたのお父様に助けて頂いた・・。そんな私に・・あの方は教育を与え・・片腕として扱ってくれました・・。その上、あの・・事故の時、一度はあの方を庇って助け出せたのに・・その後すぐに起こった荷崩れに・・目を負傷していた私は気づくのが遅れて・・その私を助けるために・・あの方は・・私を突き飛ばして・・荷の下敷きに・・!申し訳ありません!お父様を助けられなかった上に、私のせいで・・!虫の息の中で・・あの方は私に・・マリーを頼むと・・その上・・」
苦しげに咳き込んだ蓮が、視線を遠くに転じ・・ピアノを見つめる。
「私の・・ピアノをもう一度・・聴きたかったと。マリーに・・弾いてやってくれ・・と・・。あの方は、私がずっと・・あなたの事を思っているのを・・知っていて、こんな・・私を・・許して・・・くれ・・た・・・」
消え入るような声でそう言って・・蓮の目が力なく閉じられる。
とめどなく流れ続ける赤い血が・・敷かれた絨毯の上にじわじわと赤黒いシミを広げていく・・。
「篠宮さん!篠宮さん!!・・蓮!だめっ!私の事を本当に思ってくれるのなら、約束を守って下さい!待っていますから・・ずっと・・待っていますから!お願いです、行かないで下さい・・私を・・一人にしないで!」
マリーの悲痛な叫びに・・再び蓮が薄っすらと目を開ける。
「・・・笑って・・下さい・・マリー・・・。笑って・・いられるようになったら・・ピアノを・・弾く・・・約束・・です・・・よ・・?」
そのために・・マリーがずっとこの館で暮らし、笑って暮らせるように・・そのために蓮は寝る間も惜しんで奔走していたのだ。
その事を二科に悟られないよう、マリーに対しても素っ気無い態度を貫いて・・会う事もしなかった・・。
それは醜くなってしまった自分の姿に対する負い目でもあり、マリーの父親を助けられなかった自分に対する呵責(かしゃく)でもあった。
こんな自分でも待っていてくれると・・そう言ってくれたマリーに、どうか幸せに・・と、心から願いつつ・・篠宮 蓮は、マリーの腕の中で息絶えた・・。
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