求める君の星の名は










ACT 32






<修学旅行初日・京都・村田家・離れ茶室>



シュンシュンシュン・・・・

風炉に据えられた釜が松風の音を奏でた

ツイ・・・と伸ばされた白魚のような指先が、柄杓を繰って碗に湯を注ぐ

最初は緩やかに

次に小気味良い音色と供に茶筅が振られ

仕舞いに素早く、不意にその音が終わる

ス・・ッと村田紀之の前に茶が差し出された茶は、湯加減、色合い、その香り・・・ともに完璧

まるで舞を舞うかのごとく、無駄な動き一つない、流れるような優美な仕草

村田の家に代々伝わる”茶”

その動きと呼吸を正確無比に受け継いだ、村田沙耶の淹れた”茶”だった

紀之が真の礼を返し「お手前ちょうだい致します」と右手で碗を取り、左掌にのせ軽くおしいただいて時計回りに碗を90度回す

三口ほどで飲み切った碗を指で軽く拭い、胸元の懐紙で指先を拭う

碗の正面を時計の逆周りに回して元に戻した


「・・・・完璧ですね」


凛とした品格さえ漂わせた静かな声が、沙耶に告げる

「・・・・明後日には貴也が戻ります。「宗和」の名を継ぐのは私ではありません」

その言葉に、現・村田家当主「宗和」こと、村田紀之が年輪の刻み込まれた精悍な表情に影を落とす

「沙耶・・・っ、お前はまだ・・・」

「貴也は帰ってきます」

紀之に負けず凛とした声音と供に、沙耶の物怖じしない黒曜石の瞳が紀之の言葉を遮った

「・・・・・沙耶」

盛大な溜め息と供に、紀之が昔から言い出したら聞かない愛娘の顔をジッと見据えた

浅葱色の単の着物に結い上げた長い黒髪
母親の面影を色濃く映したその顔立ちは、時に紀之でさえハッとするほど美しい

だが

紀之を見返す、その確固たる瞳の輝きと意志の強さは、母親のそれではない
嫌というほど見知った・・・・紀之自身のそれ

我が子である事を否応なく突きつける、受け継がれた血

「沙耶・・・」

もう一度、紀之が請うようにその名を呼ぶ

「はい」

返される凛とした声音が、昔の自分のものと重なって・・・知らず紀之の口元が僅かに歪む

「・・・貴也が戻るのは、帰らない意志を伝えケジメをつけるため。あきらめなさい」

「嫌です」

今までに幾度となく繰り返されたその会話に、再び紀之の口からため息が漏れる



紀之自身が言った言葉を告げる役は、先代の当主であり既に他界した紀之の父だった

期せずして、繰り返される歴史

あの時分からなかった父の気持ちが、今になってようやく理解できる

そして

今、目の前に居る沙耶の気持ちも

「聞きなさい、沙耶。貴也の淹れる”茶”と「宗和」の求める”茶”は違う。伝統と格式、その名と権威の保持・・・それは貴也が望むものではない」

「お言葉ですがお父様、村田の親族一同がそんな理由で「宗栄」である貴也を手放すとでもお思いなのですか?」

親族・・・の名を出された紀之の表情が、一瞬硬くなる






貴也は、「宗栄」としての号を高校生の時に名乗る事を許されるほど、幼い頃から一族中からその期待を一身に背負う神童だった

小さい頃から様々なことに興味を持ち、茶の勉強だけに留まらず、まるで乾いた砂が水を吸収するかのように様々な本を読み漁って、年に似合わぬ博識を得ていった

その神童振りに、名前と権威だけではやっていけない現実を突きつけられていた親族一同は、期待した

減り続ける門下生を増やし、後ろ盾となる企業家や政治家とも渡り合える社交性・・・端整な面差しに機転の利く賢さを合わせ持つ貴也は、その期待に応えるに十分な稀有な才能と魅力に溢れた子供だったと言って過言ではない

紀之や親戚に連れられて京の花街にも通い、中学に上がる頃には芸子や芸者、舞妓に至るまで”村田の若坊ちゃん”の顔を知らない者は居ないほどになっていた

だが

そこに、お定まりの安易な浮名や噂が流れる事はなかった

姉である、この、沙耶が、花街としての遊び以外で貴也が情をかけることを、決して許さなかったからだ

重く圧し掛かる期待の重圧と
自由に恋愛すら許されない抑圧

弟子と師匠としてしか接する事のない、親子関係
その垣根を取り払う努力をしなかった自分

高校卒業と同時に家出同然で出奔した貴也の心情を、紀之は微塵も察してはやれなかった

ただ出来たのは

必死に貴也の行方を追おうとする沙耶をなだめ、自分のかつて犯した罪の業の深さを思い知ることだけ






「・・・・沙耶は、貴也の事がほんまに好きなんやな」

不意に弟子と師匠としての敬語から言葉を変えた紀之が、父親の顔になって沙耶を見つめた

「っ、急に・・・なに言うて・・・」

不意討ちともいえるその言葉に、沙耶の顔が朱に染まる

「佐保子と別れてからずっと、貴也の面倒は全部沙耶任せやったな・・・。お前も、もうええ年や。いつまでも独りなままではいられへん・・・」

「・・・っ、そないなこと、今、関係あらしません・・・!」

憤ったように言い募った沙耶に、紀之が静かに言葉を続ける

「別れはしたが、お前は佐保子と私の子や・・・」

「あないな人、母親とは思てません・・・!」

眉間にシワを寄せ、沙耶が佐保子の名に嫌悪を露わにする
沙耶にとって佐保子は、紀之と別れ自分達を置いて家を出て行った身勝手この上ない母親・・・でしかないのだ

「どんなに認めたくのうても、お前も貴也も、佐保子の産んだ子や。血の繋がった姉弟やという事を忘れたらあかん」

「っ!」

意味深な眼差しで沙耶を見据えて言った紀之の言葉に、沙耶がハッと目を見張る

「・・・・二度は言わん。ええな?」

「っ、そんなん、言われんでもよう分かってます・・・!」

苦しげに言い放った沙耶が、見据える紀之の眼差しから逃れるように素早く立ち上がり、機敏な動きで茶室のにじり口を出て行った

ピシャリッと閉められた戸を見つめていた紀之がおもむろに立ちあがり、自ら茶を立てるために先ほどまで沙耶が座っていた場所に座す

先ほどの沙耶よりも優美に

無骨なはずの骨ばった男の指先が、その瞬間だけ熟練した芸子の指先を思わせる洗練さとしなやかさを持って、舞う

大器晩成型と自らを揶揄する紀之が「宗和」の名を継いだのは、貴也が出奔した次の年

それまで、幾度となくその号を襲名する事を勧められてはいた
だが
紀之は頑として、それを拒否し続けていたのだ



そう

先ほどの沙耶のように



不意に、茶筅の奏でる軽やかな音色が止む
紀之が立てる茶を見たものが異口同音に言う、息つく事すら忘れて見惚れてしまう・・・その優美な動き

立てられた茶を「・・・どうぞ」と差し出されるまで
誰もが知らず、その紀之の指先に、その仕草に、目を奪われ我を忘れる

その指先で、ツイ・・・ッと碗を手前斜め左に据えた紀之の視線が、その碗を見つめつつ真横に在った、明るい陽射しの降り注ぐ大きな格子窓の障子へと注がれた

敷居よりも一段高い段のある、その障子

そこに

いつも不意に現われる男の幻影が、紀之の瞳の中に浮かぶ

かつて

貴也と同じように天才の名を欲しいままにし、紀之に何一つ与えようとしなかった、あの男・・・


いや、違うな・・・と紀之の口元が僅かに歪む


たった一つだけ、与えられる事を許されたものがある



・・・・・・・『寝ても覚めても消える事のない憎悪に満ちた心。
        それをお前は俺に抱き続けろ。それが俺の望みだ』・・・・・・・・



壮絶な薄笑いを口元に浮かべ、獣そのものの瞳で紀之を捉えて

あの男はそう言った



「・・・・兄さん」



沙耶と同じ瞳の色を宿した紀之が、幻影を追う遠い目で、そう、呼んだ




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