求める君の星の名は
ACT 5
『カチャン・・・』
指先に伝わる鍵が開錠される感触
耳に届いた、あまりに軽い音色
いつもは舵が引き開けてくれるそのドアを、七星が少し緊張した面持ちで引き開けた
放課後、集計したプリントを持って職員室へ行ったが職員会議中で中へは入れず、事務員に預けて帰宅したせいで、舵とは顔をあわせていない
本当にこの部屋の鍵なのか・・・?そんな不安を抱いていた事がバカバカしく思えるほど簡単に開いた・・ドア
いつもはあるはずの舵の広い背中はなかったけれど、久々に訪れても何も変わっていない部屋の様子に、七星がホッと緊張を解く
いったん家に戻って夕食の準備をし、部活と道場通いでまだ帰ってきていない弟達に、ひょっとしたら泊まりになるかもしれない・・・という主旨のメモを残してきた
そんなに時間をかけるつもりはなかったのだが、泊まりになるかも・・・という思いから、ついつい洗濯物や掃除、麗達が帰ってきてすぐに風呂に入れるように・・・と風呂に湯を張ったり・・・
こまごまとした家事をこなしてきてしまった
おかげで、いつの間にやらすっかり日が落ちてしまっている
暗い中でも正確に伸ばされた指先が、部屋の明かりをともす
見慣れた部屋の中は、笑えるくらい、いつもと何も変わっていなかった
いつもローテーブルの上に置きっぱなしにしてある、朝一に飲んだらしきコーヒーカップ
灰皿に溜まった吸殻
パソコンデスクの上に積まれた電子・天文関係の本
その横に無造作に置かれた、細いフレームの銀縁眼鏡
昨夜寝る直前まで、舵が何をやっていたか・・とか、朝起きて家を出るまでの様子・・が目に浮かんできて、思わず七星の口元が緩む
「・・・・朝飯くらいちゃんと食って来いって言ってるのに」
あきれたような口調ながら、その目は細まり口元には笑みが浮かんでいる
朝飯代わりだったのだろう、三分の一くらい残されたコーヒーカップと吸殻の溜まった灰皿を手にした七星がキッチンに移動し、それらを洗っていると・・・
『・・・ピンポーン』
と、玄関の呼び鈴が鳴った
「・・・え!?」
慌てて振り向いた七星が、思案気に眉根を寄せる
ここは舵の部屋である・・・自分が出ていいものなのかどうか・・・?
しかし、居留守を使おうにも明かりがついている以上、誤魔化しもきかないだろう
それを裏付けるかのように、続けて何度も呼び鈴が鳴る
腹を括って、キッチン横に設置されていたドアホンを手に取ると
「・・・はい?」
『あ、俺。開けて?』
「・・・は?」
聞こえてきたのは間違いなくこの部屋の住人、舵のもので・・・
「・・・・あんたな、鍵、持ってるだろ?」
『ただ今両手が塞がっておりまして・・・』
「・・・・・・」
だったら荷物を降ろせよ・・・!と言いたくなったが、まあ、いいか・・・と思い直して、ドアホンを置いた七星が玄関を引き開けた
「ただいま」
開けた途端、ニコニコと満面の笑みを浮かべた舵が、七星を見つめて、実に嬉しそうにそう言った
さっき両手が塞がっている・・とか言っていたくせに、目の前にいる舵の手には、何の荷物も無い
「・・・・どこの両手が塞がってるって?」
少しムッとしたように言った七星の問いを無視して、舵が満面の笑顔のままもう一度「ただいま」と、言う
その上、舵はそこに突っ立ったまま中へ入ろうとする気配を見せない
「・・・・?なに?一体何がしたい・・・」
言いかけた七星の言葉を遮って、舵が再び「ただいま」と、言う
「・・・・っ、・・・・おかえり」
ようやく舵の態度を理解した七星が、あきれたようにその言葉を告げる
途端、不意にドアの中に押し入った舵が七星をギュッと抱き寄せた
「っ、ちょ・・・!?」
「・・・・来なかったら、どうしようかと思った」
「え・・・?」
「・・・・あんまり遅いから・・・」
「っ!?」
それは・・・七星が来るより先に舵は帰っていて、どこかで七星が来るのを待って、見ていたということなのか?
「な・・に?あんた、まさか・・・」
七星がその推測を口にする必要もなく、続けられた舵の言葉がそれを裏付ける
「・・・確かめたかったんだ。浅倉が自分の意思でここへ来てくれるのか・・・ちゃんと鍵を使ってくれるのか」
「あ・・・・」
思わず七星の体から力が抜けた
今まで、一度だって自分の方から舵の部屋に行きたいとか、鍵が欲しいとか・・・言った事がない
週に一度、舵の部屋の来るようになったのだって・・・・舵の誘いを受けて、そのまま習慣化してしまった・・・感がある
それを、舵が不安に思っているなど、思いもしなかった
「・・・・遅くなって、ごめん。鍵も・・・嬉しかった」
息が詰まるくらいに抱きしめられた舵の腕の中で、七星が小さく呟く
フ・・ッと拘束感が弱まり、舵が七星の腰に腕を回したまま、その額に額をぶつけて七星の表情を間近に見下ろした
「・・・・弟君たち関係?」
「あ・・・うん・・・飯のしたく・・とか、掃除・・・とか」
「・・・・俺は、浅倉の中で何番目?」
「え・・・?」
思わず伏せていた視線が上がり、間近にある舵と視線がぶつかった
思案気に七星の漆黒の瞳が揺れて・・・弟達と舵と・・・その二つが同列でありながら順位をつけられるものでない事を思い知る
七星にとって一番大事な家族
その家族と同じ位置に舵はいる
けれど、それは七星の中でどっちが・・・といった比較対象には成り得ない
順位など、付けられないのだ
それを、どう舵に伝えたら良いのか分からなくて・・・七星の視線が再び落ちる
「・・・・ごめん。そんなものに順番なんてつけるもんじゃないよな」
そう言って、舵がもう一度七星を抱き寄せた
みっともない嫉妬だと・・・舵も自分で分かっている
嫉妬の対象が弟達だけに留まっていたら、舵の不安がここまで大きくなる事もなかったかもしれない
だが
七星とこんな風に2人きりで会う関係になってから、七星は蛹が羽化するように変わっていく・・・
伊原が言った様に、それは生徒達の間でも七星の人気を煽る結果に繋がっていた
舵の嫉妬の対象が、一気に七星の周りにいる生徒達にまで広がってしまったとしても、それは仕方の無いこと
さっき聞いた何番目・・?という問いかけも七星の側にいつもいる伊原や白石も含んでの問いだ
七星が大事に思う者達・・・
教師でいる間は、その輪の中に舵は立ち入る事が出来ないのだから
「・・・か・・じ?苦し・・・」
腕の中で身じろいで訴えた七星に、知らず力を込めすぎていた腕を、舵がようやく解いた
「よし!じゃ、早速行こうか」
あっけらかんと言う舵に、七星が眉根を寄せる
「・・・・なんなんだよ?」
「ん?たまには浅倉と、ちゃんとデートしたくて」
「・・・・っ、そうじゃなくて!」
思わず七星が舵に詰め寄る
聞きたいのはそんな事じゃない
不安なのは舵だけではないのだ
「・・・・大丈夫。俺はいつでも浅倉の側にいるから・・・」
まるで七星の心を見透かすようにそう言った舵が、七星の頭を撫で付ける
「っ、けど・・・・!」
「もう、逃げないって決めたから。だから大丈夫なんだ」
「え・・・?」
言われた意味を探るように向けられた七星の視線に、舵がゆっくりと微笑み返す
その笑みは、今まで見たどんな笑みとも違う、七星の知らない舵の一面を見せ付けていて・・・
それ以上七星が問う事を、出来なくした
車で2時間ほど走っただろうか
閑寂な住宅街の一角に、舵が車を止めた
「お腹減ったろう?ここ、最近雑誌なんかでも評判なんだ」
そう言って舵が七星を案内したのは、住宅街の中にまるで隠れ家のように存在する、蔦の絡まる古風なレストラン
昔ながらの古い家屋の良さをそのまま活かした造りで、黒光りする格子の引き戸に『びすとろ・だいご』と、味のある筆跡で書かれた小粋な看板が掲げてある
カラカラ・・・と、古そうに見えて手入れの行き届いた引き戸を開けると、広々とした土間に続いて一段上がった畳の間があり、開け放たれた障子の奥には春らしく桜の描かれた衝立が置かれていた
「ここ・・・本当に店なのか?」
引き戸に看板が掲げられていた以外、まるっきり店らしくない造りに、七星が不安げに舵に問いかける
「クク・・・ッ、間違いないよ。本当にらしい店だから」
問われた舵が、楽しげに目を細めくぐもった笑い声を洩らす
「らしい店・・・?それって・・・」
訝しげに言いかけた七星の声を遮るように、衝立の奥から若い女の声が聞こえてきた
「いらっしゃいませ。お待たせして申し訳ありません、お二人様ですね?ご案内いたします」
小走りに出て来た、小柄でボーイッシュな女性
清潔な白いシャツに黒いパンツと黒いソムリエエプロン・・・という出で立ちは、いかにも古風なこの家の雰囲気とはかけ離れている
「遅くなってすみません。予約していた舵なんですが」
そう言った途端、女の瞳が見開かれ、満面の笑みを浮かべた
「舵様ですね。ようこそ、お待ちしておりました!」
まるで旧知の知り合いにでも会ったかのような反応
けれど、舵が名乗るまでそんな雰囲気がなかったということは、顔は知らないが名前で覚えられている・・・ということ
「・・・・なに?常連なのか?」
女に案内されながら、思わず七星が舵の背中に問いかける
「いや、来たのは今日が初めてだよ」
「え・・・?」
じゃあ、なんで・・?と問いかけたかったが、中に入ってみると思いがけずたくさんの客で埋まっていて、そのレイアウトに視線が釘付けになった
障子や襖が独特の空間を作り上げ、座布団に腰掛けた客達の前には、その様式に不釣合いとしか思えない洋食が並べられている
広い畳敷きの空間はテーブルごとに衝立で区切られていて、和やかな雰囲気の中、それぞれの客のプライベートがしっかりと保たれていた
天井も高く、むき出しの梁もまた素朴なオブジェのようで良い感じだ
その天上から吊るされた大きな提灯風の和風な照明が、柔らかな温かい明かりで客の笑顔を照らし出している
座布団に座り、胡坐をかきながらゆったり、のんびりとした雰囲気で食べる、お洒落な洋食・・・
小さな子供連れも騒ぐ事もなく、畳の上で胡坐をかいた父親の膝の上に乗り、リラックスしながらフォークとナイフの使い方・・なんかを教えてもらっている
「・・・・・う、わ・・・凄い、面白い造りと発想・・!」
去年の夏から美月の指示により、「AROS」の事業に携わっている七星だけに、その斬新なつくりとコンセプトに感心しきりだ
中庭が見渡せる窓際の席に案内されて座ってからも、七星の視線は店内の至る所をキョロキョロと見渡している
「・・・・気に入った?」
斜め隣に向かい合う様に座った舵が、ニコニコと嬉しげに問いかけてくる
「うん。なんか凄く良い感じ・・・」
七星が呟いた途端
「・・・お気に召して頂けましたか?」
不意に頭上から澄んだ男の声音が落とされた