求める君の星の名は
ACT 62
パンッ!
頬に受けた軽い衝撃に流の意識が覚醒した
「…つッ、」
「無事か?」
告げられたその問いに
鼓膜を震わせたその声音に
流が弾かれたように真紅の瞳を見開いた
「っ、ハサ…ッ!?」
目の前にあったその顔に、その名を呼ぼうとした流の口を、呼べなかった名の持ち主が片手で塞ぐ
「その名を言うな。俺は今、ここには居ない事になっている」
「!?」
細い三日月の照らす、入り江のようになった砂浜
その砂浜の上に寝かせられた流の身体の上にポタポタ…と水滴を滴らせながら、黒いウェットスーツ姿の男…漆黒の髪に猛禽類の輝きを宿す漆黒の瞳の持ち主、ハサンが馬乗りになってその口を塞いでいた
「…のっ、ふ…ざけんな…っ!」
口を塞いでいたその手を掴んだ流が、憤りそのままに声を荒げて馬乗りになっていたハサンを引き倒した
「て…めぇ…!?」
勢い良くハサンを組み敷いた流だったが、起き上がった途端に襲った眩暈に、堪らずハサンの濡れたウェットスーツの胸元に崩れ落ちる
「…急に動くな、クスリが抜けるのに後半日はかかる」
ハサンのその言葉と、今、目の前にハサン自身が居る状況…それはどう考えても流の今までの経緯を把握していたからこそ…!としか思えない
相手の懐に飛び込んで、その真意を探ろうとした…そんな無茶な行為からこうなった…という自分の行動は棚に上げ、流が眩暈に耐えながら再び身体を起こし、憤った感情そのままに声を荒げて言い募る
「この…っ!冗談じゃねぇ!もうちょっとで、俺は、お前の…っ!」
お前の記憶を…!そう言いかけて、流がハッとした様に言葉を切ってマジマジ…と目の前にあるハサンの顔を見下ろして見つめた
わけも分からず拉致られた事とか、クスリを飲まされた事とか、海に飛び込んで死ぬかと思った事とか…言い募ることは他にも山ほどあったというのに
それなのに
そのはずなのに
「…っ、くそ!なんで…俺、こんなに…!」
憤るほどの嬉しさを感じている自分が、居た
何一つ忘れてなんていやしない
何も、誰にも、奪われずにすんだ
その事実が、ただ、嬉しい
たまらなく嬉しくて、泣きそうになる
そう、目の前に居る、その存在の記憶を失っていない…
そして、今、こうしてその存在が触れられるすぐ側に居る…
現実は、絶対に手に入れられない…手の届かない存在だというのに
「ちきしょ…っ、なんでお前、ここに居んだよ!?お前の記憶なんざ、忘れたほうがどんなにか…っ!」
苦しげに叫んだ流がハサンから視線を反らし、組み敷いたその顔の横の湿った砂に拳をのめり込ませる
いつもそうだ
突然何の前触れもなく流の前に現れて、否応なくその存在を記憶に刻み込む
目の前に居なければ、記憶の中にしか居ない…遠い存在なのだと割り切ることも出来るというのに
「ふ…ん、やはりあいつがお前に使ったのは”エフ”の特注品か。あいつに俺との記憶を消されるとでも思ったか?ばからしい」
「な…!?」
自分の中でそれだけは嫌だ…!と思ったはずの事を、鼻にもかけない雰囲気で『ばからしい』と切って捨てられた流のこめかみにピキッ!と怒りの青筋が浮かぶ
「てめぇ…っ!」
怒りに満ちた表情になった流が、ハサンの首に掛かっていたゴーグルを掴み上げてその身体を僅かに浮かす
「安心しろ」
間近に睨み合った途端、不敵な薄い笑みとともに告げられた言葉
「っ!?」
「刻み込んでやる、何度でも」
「は…?」
「忘れるなど、俺が許すとでも思っているのか?」
「な…ん、」
「何度でも刻み込んでやる、流。俺の中にあるお前の記憶ごと、全部…!」
「!」
思わず目を見開いた流の指先から力が抜け、ハサンの身体が砂浜の上に落ちる
次の瞬間、流がハサンの横にゴロリ…と、両腕で顔を覆うようにして仰向けに転がった
「…?流?」
「…フ、ククク…アハハハ…ッ!」
不意に笑い声を上げた流が、目元を覆い隠したまま肩を揺らして笑い始める
…ったく!こいつは、ホントになんて俺様王子だよ!!
自分は一体何を怖がっていたのだろう?
何を恐れていた?
そうなのだ
この俺様王子が、許すはずがない
あんなイスハークとか言う変態野郎の思惑を見抜けないはずがない
「る…、」
笑い続ける流を訝しげな表情で覗き込んで、その名を呼ぼうとしたハサンの声音が止まる
両腕で覆い隠されて見えない流の目元から流れ落ちた涙が、その頬を伝っていた
「…流、なぜ泣く?」
「るっせぇ!チキショウッ!泣いてねぇ!」
「…泣き顔を見られるのは嫌か?」
「っだから、泣いてねぇっ、つってるだろ!」
「…分かった。では見ない、好きなだけ泣け」
そう言ったハサンが、クルリと流に背を向けたのが気配で知れる
「っ、クソ…ッ!」
好きで泣いている訳ではない
ただ、止まらない…止められないのだ
緊張から一気に解放された安堵感と、ハサンに言われたさっきの言葉…
『何度でも刻み込んでやる、流。俺の中にあるお前の記憶ごと、全部…!』
例え記憶を奪われたとしても
ハサンの中に自分の記憶が、忘れられることなく、そこに在る
それを確信させてくれた言葉
そして、勝手に敵の懐に飛び込んで勝手に危機に陥った自分を、その行動を把握して助けに来てくれた…その事実
それが、ただ素直に嬉しいのだ…と、止めることの出来ない涙が、そう流に訴えて勝手に流れ落ちていく
ハサンに問いたださねばならないことがいろいろあったはずなのに、クスリの影響なのだろう…頭の中に薄い靄がかかっているかのようにハッキリしない
おまけに疲労しきった身体は、起き上がるのさえ億劫だとばかりに異様に重くなっていた
「…は…ぁ」
ようやく止まった涙を拭い去り深呼吸した流が、ハサンの背中に向かって呼びかけた
「…よぅ、」
「?なんだ?」
呼びかけられたハサンが振り返ると、そこに、自分に向かって伸ばされた流の指先があった
「てめぇのせいでこれ以上身体うごかねぇ…ちょっと顔貸せ」
あからさまにムッとした不機嫌そうな声音と表情でそう言った流に、こうなるに至った経緯を考えれば、まあ、一発や二発、殴られるのは覚悟の上だったしな…と、ハサンが小さく嘆息しつつ伸ばされた指先の元へと顔を寄せた
「…明日の朝には公的行事に出ねばならん、できれば顔に痕は…!?」
言いかけたハサンの後頭部に不意に流の指先が廻された…かと思うと、グイッ!とばかり引き寄せられて唇を塞がれた
「っ!?る…」
「…るせぇ、黙ってろ…」
予期せぬ出来事に心底驚いたように目を見張ったハサンが一瞬身体を強張らせたが、後頭部に廻された思わぬ流の指先の力強さに身を任せるように強張りを解く
その指先の力強さとは裏腹に、合わせてきた流のハサンの唇を包み込んでくる感触は柔らかく濡れていて、責め立てする気などないことを訴えてくる
以前触れ合った時は、どちらが優勢か…競い合うように貪りあっていた
けれど、今の触れ方は…供にそこに在る事を確認し供に同じ感覚を味わうことを楽しんで分け合う…そんな触れ方に変わっている
どちらから…と言うわけでなく自然と絡み合い溶け合っていた舌先の内、流の方からゆっくりと力が抜けていく
「る…い?」
「…は…くそ…っも、限界…眠く…て…。覚えてろ、今度…会ったら…」
微かに開いていた流の紅い瞳がゆっくりと落ち、ハサンに廻されていた腕がパタ…ッと湿った砂の上に落ちていった
合わさった胸から伝わる流の心音が安定したモノに変わり、相反する強いクスリの効果が徐々に抜けつつあることを証明していた
抑制と興奮と…アップダウンの激しさは、肉体的にも精神的にも受けたダメージはかなりなものだ
さしもの流の体力と気力も限界…と言って過言ではない
少し蒼ざめた…けれどどこか満ち足りた顔つきで眠りに堕ちた流の寝顔をジ…ッと見下ろしたハサンが、いとおしげに目を細めた
「…お前は本当に無茶ばかりするからな。目が離せない」
そのハサンの呟きを掻き消すように、上空から一機のヘリが降下してくる
一般のヘリではないことが一目で伺える黒塗りの軍用機ヘリ…しかもその機体のどこにも所属を示すマークすらない、ステルス機だ
そのヘリが巻き起こす風から流を守るように庇ったハサンが、濡れて張り付く流のシャツの襟元に顔を寄せ、浮き出た鎖骨の横に自分が確かにここに居た…その証しに鮮やかな真紅の痕を刻み込んだ
「どうやら時間切れだ…今夜の事も忘れずに覚えていろよ、流…!」
耳元にそんな言葉を注ぎ込んだハサンが流に背を向けて駆け出し、ホバリングするヘリから身を乗り出して手を差し伸べたアルフレッドの手を取って、中へと飛び乗った
「流の事は連絡がついているのか?」
「ご安心を。麗君に居場所を伝えておきました。もう少ししたら迎えが来るでしょう」
「そうか。イスハークの方は?」
「ご心配なく、全て予定通りです。後はあなたが明日の公的行事に顔を出せば、イスハークもアリーもあなたがこんな所に来ただなんて思わないでしょう」
「だといいがな。流には流の夢がある、その夢を俺のせいで邪魔させるわけには行かないからな…。ところで、アルはどうした?」
「キョウと交わした交渉条件がまだ残っていますので…」
「そうか…では、怒っているわけではないんだな?」
「怒る?あなたが計画を無視してここに来たことを、ですか?それとも北斗との休暇を台無しにされた事を、ですか?」
「北斗との事は当然だろうが…俺が来なくてもお前たちで流は助けられたはずだからな…」
「大丈夫ですよ、少なくともあなたがここへ来るだろう事は読んでいたようですから。それに、イスハークが浅倉流を連れ去りクスリを使うだろう…と予測しえたのはあなただけだった。我々はアリーと接触した時点で彼を解放するだろう…と思っていましたからね。私もタンカーを爆破するなんていう予想外の行動に出たキョウだけで手一杯でしたし、あなたが来ていなければ彼は救えなかったでしょう」
「読んでいた…?そうか!それであんなに早くこの軍用機が調達できたのか…!」
「ええ。ご存知なかったですか?このステルス搭載の高速ヘリはあの方がシークレットの移動に使われている特別機なんです。あの方の許可がなければ飛ぶことはありません」
アルフレッドのその言葉に、ハサンが思わず苦笑を浮かべた
「…は!では最初からアルに見透かされていたわけか。しかし、あの方とは”天空の破片”だろう?こんな機体をシークレットで何に使っているんだ?」
「何しろ世界各地に”戦友”がいらっしゃる方ですので…」
「…戦友!?」
苦笑と供にアルフレッドに返された答えに、唖然とした顔つきで叫んだハサンが一瞬思案顔になり、次の瞬間、肩を揺らして笑い始め…ようやくと笑いをおさめて言った
「…なるほどな、どうりであのアルから北斗にそれと気づかれぬように人質にとれるわけだ!まさか北斗も目の前に居る人物が世界各地に”戦友”が居るような強者とは思いもしないだろうからな」
「人質だなんてとんでもない!お茶にお誘いしただけ…と、聞いております」
にこやかな笑みを浮べて応えるアルフレッドに、ス…ッと表情を一変させたハサンが一転して鋭い視線を注ぐ
「…流には無用な誘いだ」
その一言と、まるで威嚇するかのような鋭い視線にも、アルフレッドの動じない笑みが答えを返す
「それは…残念ですね」
と。
そんな会話が交わされつつ…高速ヘリは他の巡視船やタンカー炎上の消化活動に来た海上保安庁のヘリに見つかる事もなく、あっという間に闇夜の地平線の彼方へと飛び去っていた