求める君の星の名は
ACT 68
「ふわ〜〜〜っ!やっぱ、家のベッドが一番だぜ!」
何もかもが片付き、いつもの平穏な朝を迎えた浅倉家の1階
家の中で誰よりも一番早起きな流が、ベッドの上で起き上がり、見事に鍛え上げられた腹筋を有する伸びやかな裸体を反らして大きく伸びをした
上半身は裸、下はスウェットパンツ一枚…というのが最近の流の寝姿だ
洗面所で顔を洗おう…と蛇口に手を伸ばしかけた流の手がピタッと止まり、苦虫を潰したような表情になったことを鏡越しに知る
「…ったく、あの野郎…余計なもん残していきやがって…!」
止まった流の指先が、鎖骨の横に刻み込まれた真紅の痕を辿る
「こんなもん残されて、忘れられるか…ッつーの!」
ぼやいた流が、あの夜の事をまざまざと思い出し…カァッと耳朶を染める
…俺、あん時あいつに何したよ!?
自分からキスしなかったか?
しかも、あれって…どう考えても…!
そこまで考えて、無理やり流が思考を中断し熱くなった顔を冷ますようにバシャバシャと顔を洗う
そう、あの時、流から仕掛けたキスは、明確な意思を持っていた
愛しいもの
大事なもの
失いたくないもの
それを、言葉ではなく態度で伝えた
そうしたい…と、自ら望んで
キュッと蛇口を閉めタオルでゴシゴシ…と顔を拭いていた流の手が再び止まり、鏡に映った自分に語りかけるように呟いた
「…次に会ったら…、どうする気だよ?」
ハァ…ッと、深い溜め息が流の口から吐き出される
どうする事も出来やしない
そんな事は百も承知だ
例え、その気持ちに気づいていても
例え、それを伝えられたとしても
だから、全て忘れたことにした
事が起こった、最初から
ダブルクリムゾン・スターとか、わけの分からない事を言ってはいたが…
要は、自分とハサンの関係を知り、それがハサンのアキレス腱となりうるほどの物なのか?
それを確める…そのために起こった事としか思えなかったから
『俺はここに居ないことになっている』
そう言ったハサンの言葉は、正確にその事を理解していたからだ
それなのに、それでも我慢できずに、ずい分な無茶をして助けに来てくれたのだろう
病院のテレビで見たニュースで、それもはっきりと思い知った
それを無駄にしないためにも、”忘れた”ことにする以外他に思いつかなかった
それに、ハサンの事だけじゃない
片桐和也…和也があんな拉致に関わったのだって、決して本人が望んだわけじゃない
流側の事情に巻き込まれたからに過ぎない
例え流が気にしていなくても、和也はそういうわけには行かないはず
なにしろ、和也の裏の顔をモロに流に見られてしまったのだから
けれど、流が何も覚えていなければ
拉致られたことも、麻薬取り引きの代償にされた事も、全てなかったことに出来る
それでなくても、あの取り引きは大吾や高城刑事、キョウ達によって散々の失敗に終わっている
その後の取り引きルートの確立も難しくなった…と聞いた
ならば、もうそれで十分だろう…
忘れた事にすれば、流自身も新井組と…神谷と関わり合いにならずに済む
何を言われたって、知らぬ存ぜぬで押し通せばいい
どこかで裏の顔の和也と会ったって、無視すればいい
どうせ日本国内にいるのは、今年いっぱい
来年には留学して流は和也の前から消える
それが最善の策だ
「…ッ、うっしゃっ!!」
気合い入れも兼ねてパン!と頬を叩いた流が、いつものジャージに着替えてジョギングへと駆け出していった
「…へぇ…なるほどねぇ…」
自室にある3台のパソコンを駆使して、ある事を調べていた麗がキャスター付きのイスを転がしながら呟いていた
調べていたのは、国際会議場で議題に取り上げられ、株の裏情報でも大きな変動の鍵になるかもしれない…と噂されていた新薬の事だ
秋月真哉から送られてきた会議の録画映像で、その新薬の開発及び投資に規制がかけられたことは分かっている
その新薬のデータを保持している”ゲノム・ファーマシー”が、あのシルバー・ネプチューン内で起きたボヤ騒ぎにより、持ち出していたデータを焼失した…という
その報告がなされていたのが、くしくもあの、出港の日
しかも、その同じ日に片桐の医療システムに新種のウィルスが侵入し、一時的にシステムがダウン、幸いにもすぐに復旧のメドが立ち大したことにはならなかった…と報じられた
その数時間後、香港を拠点とする皇(コウ)財閥のネットワークにおいても、システムダウンが起こったらしいのだ
キャッツとして企業コンサルタントの顔を持つ麗だけに、それにより被害を受けた企業からも相談メールがたくさん寄せられていた
それらの内容から推察するに、どうやら皇財閥系でおこったシステムダウンの原因は、外部からデータ解析のために挿入されたデータチップにあったらしい
そこから侵入したウィルスにより、ファイヤーウォールがシステム内部から破壊され、内部情報が一時的に垂れ流し状態になった
被害を最小限に食い止めるため、システムを一時的に全面ダウンさせ修復を図る…という大胆ながらも迅速な対応により、被害を最小限に食い止めることが出来たらしい
同日、同時期に起こったこの事件が、全て今回の”エフ”絡みで関係した所ばかりだ
これを偶然で片付けていいはずがない
イスハークと行動を共にしていたのが、皇財閥総帥・皇飛(コウ=フェイ)である事は昴の目撃証言で明らか
その飛(フェイ)達はシルバー・ネプチューンに乗船手続きを取っておきながら乗船していない
何かの”用事”を片付ける為だけに乗船手続きを取った…と推察するのが無難だろう
その”用事”がゲノム・ファーマシーの保持するデータチップの奪取であり、船内で起こったボヤ騒ぎも飛(フェイ)達によるものだった…とすれば辻褄が合う
ましてや、ゲノム・ファーマシー代表としてその新薬を発表、事前から新薬に関して情報を洩らしていたのが、どうやら対テロの軍事関係者らしきアルフレッドなのだ
最初から、そのデータチップを飛(フェイ)達に奪わせ、解析にかけさせることでウィルスに感染、ネットワークを無防備化、その隙に必要な情報を掠め取る…ためだったとしたら?
人身売買や臓器売買、銃器などの闇売買から麻薬製造・密売…それらの温床ともいえる中国・アジア系において、もっとも広範囲で強力なネットワークを持つとされるのが皇財閥
そのネットワークへ、特に中枢への外部からの侵入は、まず不可能だろう
アルフレッドが用意周到に事前準備したのも頷ける…というものだ
片桐側のシステムダウンは、キョウによって仕掛けられた”エフ”データの破壊・消失だった…と舵経由で七星から聞いている
分からないのは
なぜ、キョウは”エフ”データを全て消し去ったのか?
アルフレッドとファハド国王の関係は?
アリーがアルフレッドと共にここへ来た目的は?
考えればキリがない
ハァ…ッと、珍しく盛大なため息を吐いた麗が、カチカチ…と全ての作業を終了すべくマウスをクリックしていく
気がつけば窓の外は明るく、朝になっていた
「う〜〜〜〜〜〜〜っ!」
全ての電源を切った麗が、凝った肩を解す様に腕を伸ばして脱力し、ふと視界に入った鍵つきの引き出しに手をかけた
暗証番号を合わせて引き開けたその中には、あの、アルフレッドから借り受けた小型の拳銃が無造作に投げ入れられていた
銃器に関しては詳しい知識はまだ持ち合わせていない麗だったので、銃器サイトなどを幾つも回り型や年式などを調べた結果、それが一般的に出回っているモノとは似て非なるモノ…だと言うことが分かった
つまり、量産型ではなく、特注品
しかも
「…これ、たぶん個人認識用の紋章…だよね」
グリップの部分に刻まれた、丸い紋
最初はこの銃を作ったメーカーか何かの紋章か?とも思ったのだが、その絵柄を使用しているメーカーはどこにもなかった
軍隊などでは、部隊ごとに独特の紋章があったりする
指揮官が優秀だった場合などには、その指揮官を象徴する紋章がそのままその部隊の認証紋として使われることもあるらしい
麗には、なんとなくアルフレッドがその指揮官ランクに当てはまる人物で…この紋章はアルフレッド個人の紋章のような気がしてならなかった
描かれているモノは、海を思わせる波のモチーフと、何かの鳥
鋭角的な線で象られたそれは、麗の知るある鳥のモチーフとよく似ていた
「…燕(ツバメ)っぽいんだよね、これ。海を渡る燕…海燕(ウミツバメ)?海猿(ウミザル)とかなら聞いたことあるけど、あれって潜水士だったよなぁ…」
呟きつつ思案気にシゲシゲ…とその銃を手に取り見つめていたが、銃は何時返せばいい?という問いに対し『次に会った時で結構ですよ』と答えたアルフレッドの言葉を思い出した麗の口元に、フ…ッと薄い笑みが浮かぶ
「次、ねぇ…。今度はどんな名前でどんな役どころなんだか…なんか、楽しみだな」
呟きつつパタン…ッと銃を再び引き出しに閉まい、もう一度大きく伸びをした麗が立ち上がり、勢い良くカーテンを開け放った
眩しい朝日と共に、雲ひとつない青天の青空が視界いっぱいに広がる
「いい天気!…って、あれ?流?ったく!昨日の今日でもう走ってるなんて、相変わらずタフだねぇ」
あきれたように言った麗の視界の先で、駆け出したジャージ姿の流の背中がドンドン小さくなっていく
「…一人で何もかも背負い込んで無茶するのが難点なんだよな、流の場合…」
腕組みをして窓枠に寄りかかった麗が、角を曲がって見えなくなった流を見送りつつ小さく嘆息する
今回の事にしたって、元は舵と七星に端を発してはいるが…その根っ子ともいうべきモノはハサン王子とその周辺にある
ダブルクリムゾン・スター…確かそんな風な言葉が仕掛けた盗聴器から漏れ聞こえていたし、アルフレッドの口からもその言葉を聞いた
”二つの紅い星”…直訳するとそんな意味を持つその言葉の意味するもの…当てはまるものとして考えられるのは、ハサンを軸に相対する流とアリーだ
流自身は否定してはいるが、流の鎖骨横に刻まれたキスマークの痕に麗が気づかないはずもなく…流を助けたのはハサン以外ない、と麗の中では確定されている
だが、一国の王子がたった一人の人間のために動いたなど…そんな特別な存在が居る事を、敵対しているイスハークに知られるわけにはいかないはず
だからこそ、流は忘れたと言い、ハサンはあの公的行事に出席していなければならなかったのだ
アルフレッドと共に今回の事に関わったらしきアリーの役どころは、ハサンの命による流の救出にあった…と見るのが無難だろう
だが、実際にはハサンが流を助けている
恐らくはアリーにも知られる事なく、全ては秘密裏の内に…
ベドウィンの族長の息子だというアリーとハサンの関係は、宗教や歴史的背景の下にある王族とベドウィンとの関係…等も絡みあって、ただの主従…というものでもないのだろう
「…一人で背負うのにも限度ってものがあるってこと、キチンと流に教えとかないとね。だいたい、俺がどれだけ心配して動き回ったと思ってるんだ…!骨を折った分の借りは、きっちり楽しませてもらうから、そのつもりでね、流…!」
ふふ…と、麗が意味深な含み笑いを口元に浮べた
流が見たら蒼ざめる事請け合いの、楽しくてしょうがない…そんな悪魔な微笑みだった