卒業
ACT 1
大きく深呼吸して、はぁ…っと息を吐く。
手袋をしていない指先をかろうじて温めたその息は、寒々しく白い色をまとっていた。
首から下げていた愛用の一眼レフカメラも周囲の冷気を吸って、氷のように冷たい。
触れた冷たさに一瞬眉をしかめながら、ファインダーを覗きこんだ。
歩きなれた桜ケ丘名物の桜坂に沿って植えられた桜の蕾はまだ固く、気持ちよく晴れ渡った早朝の薄いコバルトブルー色の空に、剥き出しの茶色の枝が、くっきりとしたコントラストでその存在を主張している。
桜の時期は、もう少し先…。
そして。
今日は、卒業式。
高校生活最後のこの日は、小・中・高と12年間通った桜ケ丘学園で過ごす最後の日でもある。
さまざまな思い出のこもったこの桜坂や校舎をフレームの中に焼き付けておきたくて、まだ誰もいない早朝の風景に向かい、俺はシャッター音を響かせていた。
初めて浅倉と会ったのも、ちょうどこんな時期。
小学校に入学するお祝いに…と、隣町で写真屋を営む伯父さんから贈られたカメラを嬉々として首から下げた俺は、居ても立ってもいられずに走りだし、この桜坂へとやってきた。
毎年美しい花を咲かせる桜坂の桜を、一番に撮ってみたい!
そう思ったのだ。
桜の咲く時期にはまだ早い…なんてこと、ようやく新一年生になろうかという子供に分かるはずもなく、俺はたどり着いた先に合った固い蕾が付いただけの桜並木を前に、呆然と立ちすくんだ。
どうして、桜が咲いてないの!?
子供心に感じたあの時の落胆は、今でもはっきりと覚えている。
それでも、せっかくもらったカメラで何かを撮りたい!そう思って、閑散として人っこ一人いない桜坂を上り、もうじき入学する小学校の校門付近までやって来た時だった。
その門を見上げるようにして、誰かが立っているのに気がついた。
背格好からいって、多分、同じ年くらい。
だけど、その横顔は妙に大人びた雰囲気をまとっていて…なぜだかわからないけど、背筋がゾクッときた。
当時は分からなかったけど、今思えばあの感覚は、浅倉が持つ独特の色気…っていうか、ただそこに居るだけで妙に心騒がせる何か…それに無意識に反応したからだ。
その感覚に急かされる様に、俺は持っていたカメラを浅倉の横顔に向け、シャッターを押していた。
俺のカメラ人生において、初めて撮った、最初の写真。
その被写体は、浅倉、だった。
ちょうどその時、校門の内側から『七星、何してるの?こっちにいらっしゃい!』という涼やかな女の人の声が響いて、浅倉は俺が押したシャッター音に気がつかずに、門の中へと入って行った。
思わず、その後を追いかけるようにして門に駆け寄り、陰からそっと中を覗くと、さっきの声の主なのだろう…綺麗な女の人と七星と呼ばれたそいつが一緒に学校の校舎の中へ入っていくのが見えた。
その二人の周囲には、数人の黒い服を着た怖そうな男の人がいて、俺はあわてて踵を返して家へと駈け出した。
その時撮った浅倉の写真は、手振れでピントがぼけている代物だったけれど、今でも俺の一番古いアルバムの最初のページに貼られている。
そして、入学式の日、同じクラスの隣の席に居た浅倉に運命めいたものさえ感じながら、『俺、白石守、よろしくな!お前、名前なんて言うの?』と、声をかけたのだ。
あれから、もう12年。
信じられないくらい、あっという間だった。
小1の時、浅倉の家には病気療養中だという父親と三人の弟たちがいて、浅倉は学校を休むことが多かった。
浅倉が休む度、連絡帳やプリントを届ける役を買って出て浅倉の家に通った俺は、たぶん、誰よりも浅倉の家の事情に精通していたと思う。
1年の終わりごろ、病気療養中だった父親が完治してどこか遠い所へ仕事へ行ったらしく、それを境に浅倉は弟たちの幼稚園行事以外では滅多に学校を休まなくなった。
浅倉の家にはその頃から家政婦さんが来るようになり、放課後はすぐに家に帰っていた浅倉も少しの時間、一緒に遊べるようになった。
放課後の校庭で、サッカーやドッジボールに興じる浅倉はいつもの大人びた雰囲気は微塵もなくて、子供らしくはしゃいでとても楽しそうだった。
そんな浅倉をカメラに収める俺の趣味も、しょうがないな…と、笑って許してくれていた。
だけど、そんな日々もそう長くは続かなかった。
仕事へ行った…と言っていた父親が、マジシャン北斗として脚光を浴びるようになり、にわかに浅倉の周囲が騒がしくなり始めたからだ。
北斗はあっという間に有名人になり、浅倉たちの周囲にも週刊誌やスポーツ紙の記者達が付きまとうようになった。
そして…2年の終わりころだっただろうか、浅倉の家に通っていた家政婦が、盗み撮りした浅倉達の写真をゴシップ記者に売るために、隣町にあった伯父さんの写真屋に現像に出す…という事件が起きた。
そのことに気がついた伯父さんから連絡を受けた俺は、その写真をもって浅倉の家に行った。
あの時見た、驚きと怒りと憤りと悲しみに満ちた、浅倉の表情…。
浅倉のあの顔を見た時、見ている俺の方がつらくなって、泣き出してしまった。
泣きながら、『俺は、俺だけは、絶対に浅倉を裏切ったりしないから…!』と、浅倉に向かって言い募ったのをはっきりと覚えている。
浅倉はそんな俺を困ったように見つめながらも、『…うん、ありがとう。白石になら、俺も写真撮られてもいいや…て思うよ』と言ってくれた。
その時、俺は、ずっと…ずっと、浅倉を撮り続けることを決めたのだ。
きっと、これから先、写真に撮られることを避けざる得なくなるだろう、浅倉のために。
いろんな表情の浅倉を、後でこんな事があったな…って思い出せるように。
そして。
そんな俺の隣には、いつも、幼稚園の時からの付き合いで幼馴染の伊原が居た。
「あーー!やっぱ居た!」
不意に背後から聞こえた馴染みの声に振り返ると、ベシッ!とばかりに両方のほっぺたに、あったかなカイロが押し当てられる。
「い、はら!?」
「お前さ、写真撮るのに邪魔だからマフラーも手袋もしないっていう、その心意気は立派だけど、防寒対策くらいきっちりしとけっての!風邪引くぞ?」
そう言った伊原が、ほっぺたに押し当てたカイロを俺の学生服のポケットに押し込んだ。
制服の上にいつもよりモコモコ率の上がっているように見えるダウンジャケットを羽織った伊原は、凄く温かそうだった。
「…伊原、こんな朝早くに何してんだよ?」
「それはこっちの台詞だろ!いくら卒業式の間は写真が撮れないからって、こんな朝早くに来て撮るこたねぇんじゃね?」
「そうなんだけどさ、最後って思うと、なんだか寝付かれないし、朝も早くから目が覚めちゃうし。それにさ、こんな朝早い時間の桜坂って、まだ撮ったことなかったよなぁ…なんて思いだしたら、居ても立ってもいられなくなって」
「ったく!最後の日くらい大人しく撮られる方になってりゃいいのに。そんなんだから、白石の写った写真がほとんどない…なんていう事になっちまうんだろ?」
「え…、いいんだよ、そんなの。修学旅行で浅倉と一緒に写れたし、もうそれでじゅうぶ…」
「よくねぇよ!」
言いかけた俺の言葉を遮って、なぜか伊原が怒ったようにそう叫び、俺に向かってズイッと手を突き出した。
「そのカメラ、貸せ。俺がお前を撮ってやるから…!」
「貸せって…伊原、お前使い方分かんないだろ?」
「わ、分かるさ、そんくらい…!」
「ウソつけ、分かんないくせに。っていうか、伊原、そのまま動くな!」
「っ!?ちょ、しら…」
「動くなって!ほら、笑って!ハイ、チーズ!」
「ッ、チーズ」
ほぼ条件反射ともいえる反応で、伊原がピースサインを掲げて笑う。
この12年間で俺が伊原に刷り込みした効果だ。
幼馴染で、いつでも何をするのも一緒だった伊原は、俺のアルバムのどのページをめくっても、そこに居る。
ずっと昔から、今みたいに屈託なく陽気に笑う、その笑顔で。
「しーらーいーし〜〜!お前を撮るっつってんのに、俺撮ってどうすんだよ!」
「いいじゃん、最後なんだし。撮っておきたいんだよ…俺が見続けてきた全ての物を…さ」
そう言って、すぐ横にあった校門を見上げた。
小・中・高…と、本当に思い出のいっぱい詰まった学園生活。
今日、この門をくぐって入れば、もう後は…二度とは戻れない場所。
「…最後とか、言うな」
不意に聞こえた低い声音に、『え?』と振り返った。
いつもの伊原らしくない、妙に低い押し殺したような…?
そう思ったのに。
振り向いた先にあった伊原の顔は、いつものように陽気な笑みを浮かべていた。
「ところでさ、白石、お前朝飯食ってきたのか?」
「え?あ…忘れてた」
「だろうと思ったぜ。確か今日は林のおっちゃんが居る日なんだよね〜」
笑いながら言った伊原が、校門横にある警備室との連絡用のインターホンを押すと、聞きなれた林さんの声が『はい…おや、伊原君に、白石君じゃありませんか。どうしたんです?こんな朝早くに…?』と、インタホーン越しに響き渡った。
「えへへ、朝も早くからお勤め御苦労様です!差し入れ持ってきました!一緒に食べませんかー?」
そう言って、伊原が学生服の上に羽織っていたダウンジャケットのフロントジップを下げると、中には缶コーヒーが三缶と肉まんが入っているらしき袋が詰め込まれていた。
道理で、いつもよりなんだかモコモコしている…と思ったはずだ。
すぐに校門の電子錠が解錠され、ほかのどの生徒よりも早く校内に入った俺達は、誰にも邪魔されることなく思い出の学び舎風景を撮りまくりながら警備室へと向かった。
「ほほう、最後の思い出に写真を…?白石君らしいですね」
伊原から手渡された缶コーヒーを一口飲んだ林さんが、ニコニコといつもと変わらぬ人好きのする笑顔で微笑みかけてくる。
警備室の中では、やはりこれじゃないと風情がなくてねぇ…という林さん愛用の年代物のの石油ストーブが赤々と燃え、三人でそのストーブを囲むようにして缶コーヒーと肉まんを頬張っていた。
「あ、林さんも撮っていいですか?」
「私ですか?ハハ、こんなおじいさんで良ければどうぞ。私も今日でこの学園を卒業ですしねぇ」
「え!?」
思わずあげた声は、伊原の声と重なって大きくなった。
「林のおっちゃんも辞めるのか!?」
「ええ。もういい年ですしね。道場の跡継ぎも育てないといけませんし」
「跡継ぎ?健一郎君が居るじゃありませんか」
「候補が一人だけだと健一郎の腕も上がりませんからね。ライバルは多い方が良いでしょう?」
「ライバルなら、浅倉んとこの末っ子君が居るじゃん!可愛い顔してすげぇ強いんだろ?」
「昴君ですか、ええ、もちろん。この四月からは私の家で一緒に住むことになりますし…」
「え!?」
またまた二人してあげた声が重なって、
「なんで!?」
「どうしてですか!?」
同時に問いを口にする。
そんな俺たちの様子を目を細めて見ていた林さんが『二人ともいいコンビですねぇ』と、楽しそうに笑って言う。
俺と伊原がいいコンビ…なんて、今さらだ。
そんなことより、あの末っ子君が林さんの家で一緒に住む!?そっちの方が大問題。
だって、浅倉はあの昴っていう末っ子君をものすごく可愛がっていた。
過保護じゃないか?と思えるくらいに。
だから、浅倉を筆頭に他の弟二人も留学するこの春から一人残る末っ子君は、当然親である北斗の元へ行くか、浅倉と一緒にイギリスへ行くものだとばかり思っていたのだ。
「それぞれが、それぞれの夢を叶えるために…というところでしょうか」
そう言った林さんが、意味深に笑みを深める。
林さんのその笑みに、俺はずっと聞きたくて聞けなかった問いを、思い切って口にした。
今日のこの日を逃したら、きっともう二度と聞く機会はない…そう思ったから。
「あの…っ、お聞きしたい事が…」
「林のおっちゃん、聞きたい事が…」
三度目の正直…なわけじゃないだろうに、またしても俺と伊原は見事にハモって、思わず顔を見合わせた。
「んだよ、白石、お前もかよ」
「そりゃこっちの台詞!っていうか、聞きたいことって、アレ、だろ?」
「うん、ソレ」
アレ、ソレ、で意味が通じるなんて、ホントに伊原だけだ。
視線で交わしあった無言の会話の後、俺が代表で林さんに問いかけた。
「浅倉って、何者なの!?」
その問いが同じだったことを裏付けるように、隣に居る伊原もウンウンと頷き返して林さんに視線で疑問符を投げかけていた。
そんな俺たちを楽しげに見つめていた林さんの細まった眼に、時折見せる厳しい輝きが宿り、スゥ…ッと笑みをかたどっていた口元が引き締まった。
「あなた方には、知るべき権利がありますね。浅倉君は留学後、正式に華山グループの次期後継者として発表され、多国籍企業『AROS』・アジア支部で展開する事業の責任者の一人として、加わることになります」
「っ!?」
予想はしていた…浅倉がただの高校生じゃないっていうことくらいは。
でも、あまりにも世界が違いすぎる話の展開に、俺と伊原は思わず顔を見合せ、声もなく息を呑んで固まった。