卒業・U(舵&七星編)







ACT 1







仰げば尊しわが師の恩…


卒業式の最後を飾る定番の歌を口ずさみながら、式の最初からずっと感じていた視線に根負けしたように、七星がチラリ…と真横に立ち並ぶ教師の列を盗み見る。

当然というか必然というか…七星をジッと見つめる舵の視線とぶつかった。
いつもなら、そこですぐに視線を反らして視線が交錯したことすらなかったことにしてしまおうとする七星だったが、今日は違った。

そこから逃げることなく舵の視線を受け止め、ふわり…と笑み返してごく自然に視線を外し、歌へと意識を戻す。


『…!』


七星のその仕草に舵の方がドキリとし、ジワリと耳朶の熱を上げて秘かに嘆息した。
初めて会った二年前とは明らかに違う仕草。
子供から大人へと…著しい変化を見せつけて七星は成長した。


…卒業、するんだなぁ…


不意に現実味を帯びたその事実に、確かにこの手の中にあったはずの形のない何かが、サラサラ…ととめどなく零れ落ちていく感覚を覚えて、知らず、舵の指先が固く握りしめられていた。

教師と、生徒。

今日、この学園の正門を出れば、そのシガラミは消えてなくなる。
縛られていたようで実は縋っていた、その絆が。

歌が終わり、卒業生一同が回れ右をして在校生、来賓、保護者達に『ありがとうございました』と、最後の一礼を返すと、温かな拍手を浴びながら式場だった体育館から去って行く。
卒業生の最前列に居た七星が去るための足を踏み出し歩き出したその背中を、舵がなんとも言えない複雑な気持ちで見送っていた。








式場である体育館を出ると、七星は迷うことなく踵を返して正門とは反対方向の校舎の中へと歩いて行った。
すぐに体育館から出てきた在校生達が加わり、卒業式恒例の憧れの先輩からブレザーのボタンをもらおうとする騒ぎに巻き込まれるのは目に見えている。
それを回避するためと、毎日の日課にしていた生物化学準備室の魚の餌やり…その最後の日課を果たすためだ。

他の者たちは皆一様に体育館から正門へと到る周辺にたむろって、それぞれに別れを惜しんで語り合い写真を撮り合うのに忙しく、そんな七星の行動に気づく者は誰も居なかった。

校舎の中は生徒全員が卒業式に出ている事もあり、閑散として誰も居ない。
カツ、カツ…と自分の皮靴が階段を上る音だけが、異様にこだまする。

階段の踊り場の隅っこにある、相合傘の落書き。
ひびの入ったガラス窓。
ペンキの剥げかけた手すり。
廊下に染み付いた汚れ、誰かの足跡。

そんな小さなもの一つ一つに、いろいろな思い出が呼び起こされる。

楽しかったこと。
辛かったこと。
バカ騒ぎしたこと
憤ったこと。
声をたてて笑ったこと。

取り立てて特別だったわけじゃない…けれど、忘れえぬ大事な記憶。
その一つ一つを噛みしめながら、七星が一番思い出の詰まった教室…生物化学準備室のドアを引き開けた。


『おかえり、浅倉』


そんな言葉と共に、夕暮れ時のオレンジ色の夕日を背に見惚れる笑みを浮かべた舵…の幻影が浮かんで消える。

一番ホッとできた言葉。
一番心を温めてくれた柔らかな笑み。
一番気持ちをほぐしてくれた、一杯のお茶。

一番…好きだった、場所。

ふわり…と穏やかな笑みを浮かべた七星が、机の隅っこに置かれていた魚の餌入りの瓶を取り、ドア一つ隔ててある生物化学教室の中、窓辺に置かれた大きな水槽の前に立った。


「お前たちとも今日で最後だな。次の先生も良い先生だといいな」


その七星の言葉に応えるように、水槽の魚達が振り入れられた餌よりもガラス面に映る七星の方に集まってくる。
そんな魚達にクス…と笑み返しながら、七星がソ…ッと水槽のガラス面に指先を添えた。


「そんな懐くなよ、名残惜しくなるだろ…」

「名残惜しいのは、魚君達だけ?」


不意に背後からそんな声が掛けられ、水槽のガラス面に添えた七星の指に、それより一回り大きくて長い指が重なった。
驚いた条件反射でビクッと揺れた七星の指を優しく包み込んでくる。


「か…じ!?」


振り返ろうとした七星より先に、舵がノシ…とばかりにその肩口に顔を乗せてその動きを制し、水槽のガラス面越しに七星と視線を合わせてきた。


「最後の日まで、俺は魚君たちに勝てなかったわけだ」


はぁぁ…とばかりに芝居がかった大げさな溜息とともに、舵がそんな事を言う。


「は?」


意味が分からない!とばかりに七星もガラス越しに舵を見つめ返す。


「だってそうだろ?式が終わって一番に会いに来たのが俺じゃなくて魚君達なんだから…!」

「…バカか、あんた」


いつもの七星らしい、あきれたような声音。
でも、一番最初にここで出会った時とは違い、包み込んだ舵の手を振り払う事もなく、その声音にもどこか楽しげな含み笑いが感じられる。


「…手、振り払わないんだ?」

「…振り払って欲しいのかよ?」


笑いを含んだ七星の声がそう言い返して、重なっていた舵の手を軽く振り払う。
すると意外にも舵の指はあっさりと七星の手を離し、振り払われてしまった。


「…え?」


どうせこの程度じゃ手を離すはずない…と思っていた七星が、その予想外の出来事に驚くと共に感じた不安を隠しきれず、体を反転させて舵に向き直った。


「浅倉って、魚の飼育係なわけ?」


からかうわけでもなく、冗談を言ってる風でもなく、舵が、振り返った七星に至極真面目にそう聞いた。
一番最初に、この場所で出会った…あの時と同じ言葉、同じ表情で。
それに気づいた七星が、唖然としたように舵の顔をマジマジと見つめ…けれど、あの時と同じように舵の心を鷲掴みにした笑顔を浮かべて笑う事はしなかった。


「違うよ、先生」


舵と同じく真面目な顔つきになった七星が、はっきりとした口調でそう言った。
そんな七星の態度に、舵がハッとしたように息を呑む。

七星は今、舵の事を”あんた”とも、”舵”とも呼ばず、”先生”と呼んだ。

それはつまり、舵の中でずっとわだかまっていた事に七星は気づいている…という事。
そのことを、冗談で済ませてしまおう…と思っていた舵の心情すら見透かして。
そうでなければ、あえてそんな風に答えるはずがないのだから。


「…じゃあ、浅倉はここへ何をしに来たの?」

「この場所で生徒として過ごした自分と、けじめをつけるために」


七星のその答えに、舵が敵わないな…と穏やかに笑み返し、


「そうか。俺もだ」


そう言って、舵がおもむろに七星に向かって手を差し出し、告げた。


「卒業おめでとう、浅倉」


心からの祝福を込めて、舵が満面の笑みを浮かべる。
その笑みに七星も最上の笑みで返しながら、差し出された舵の手を、力強く握り返した。


「ありがとう、舵先生。あんた、最高に良い教師だったよ」


言い合って、交わした握手の手を解く。
まだ七星の温もりが残るその名残を惜しむように、舵が解いた指先をギュッと握りこんでその拳を見つめた。


「…ホントに終わるんだな、教師としての俺と、生徒としての浅倉の関係が…」


つい、口をついて出てしまった…先ほどの式の時にも感じた、どう言っていいか分からない得体の知れない不安。
形のない不確かなものに、どれだけ自分が縋っていたか思い知らされて、思わず舵が苦笑を浮かべる。


「ったく!なに残念そうに言ってんだよ?ホントに…じゃなく、ようやく!だろ」


憤慨したように言い募った七星の声音に、『え?』とばかりに舵が顔を上げた。


「あんたな、俺がどれだけこの日を待ち焦がれてたと思ってるんだ?これでようやくあんたが教師を首になるかもしれない心配だとか、学校内で噂にならないように気を遣う事とかしなくて済むっていうのに…!」


七星のその言葉に、舵が心底驚いたように目を瞬いた。


「…そんな風に思ってたのか?」

「当たり前だろ、俺達の関係がばれて困るのは、どう考えたって社会的地位のあるあんたの方で…!」


不意に伸びた舵の指先が七星の唇に触れ、その先の言葉を封じてしまう。


「…まだ、”あんた”なの?」

「っ、」


意味深に顔を寄せてきた舵の問いかけに、七星がハッとしたように口を噤む。


「俺はもう教師じゃないし、七星も生徒じゃない…でしょ?」


浅倉から七星…と呼び方を変え、その声音に含まれた艶に気づいた七星が慌てて反らそうとした視線を、舵がそれをさせじとしっかり視線を合わせて逃さなかった。


「…”俺達の関係”って、どんな関係なの?七星?」

「!?」


背後にあった水槽に七星の身体を押し付けるようにして、舵が更に顔を間近に寄せてくる。


「…ちょっ、こ、ここ、をどこだと…!」

「ん?俺と七星以外誰も居ない、ただの密室。だから言っても大丈夫だよ?」


にっこりと笑って言う舵に、七星が『何考えてんだ!?このエロ教師!』と以前なら叫んでいただろう言葉を呑み込み、切り返す言葉が見つけられずに悔しげに唇を震わせた。


「ほら、はっきり口に出して言ってから、卒業しないと…!」


にこやかな笑みを浮かべて迫るこの元教師は、どうしてもその言葉をこの場で七星の口から言わせたいらしい。


「あ、あんたな…!」

「”あんた”?違うでしょ?」

「…っ、か、舵…」

「それも違う」

「ぅ…」

「ちゃんとここで宣言しないから言えないんだよ、ほら、俺達ってどんな関係?」


『ぅーー…』と喉の奥で唸り声を上げ、悔しげに舵を睨んでくる七星に、舵がふ…と真摯な表情と声音になって告げた。


「聞きたいんだ、ちゃんと七星の口から。これからの俺達の関係を…」


教師でなくなったからこそ、言えた言葉と望み。
今まで七星の前で不安など口にしなかった男が吐いた本音は、七星を対等の一人の男として見ている事の表れ。
そんな舵に七星がハッと一瞬目を見開き、水槽に押し当てていた腕をぎこちなく伸ばしてその首筋に回し耳元に唇を寄せた。


「…ようやく捕まえた、俺の…恋人」


最後の言葉は、密やかな声で舵の耳朶を直に震わせて告げられた。


「…ちゃんと言えたね」


不安を一掃させ、この上なく穏やかな満ち足りた笑みを咲かせた舵が、照れて真っ赤になっている七星の顔を覗き込むようにして見つめてくる。


「だ、誰が言わせてんだよ…!」

「うん、誰?」

「っ、この、そこまで言わせる気か!?」

「だって聞きたいから」


鼻先が触れ合うくらい間近で、舵が柔らかく笑いかけてくる。
幸せそうなその笑顔を見ていると、しょうがないな…と思ってしまう自分が居るのだから、ホント、どうしようもないよな…と七星の口元が笑みを象りつつもその名を呼んだ。


「…エロ貴也」


せっかく雰囲気盛り上げたのに、その形容詞付き!?とばかりに、舵がガックリと肩を落としつつも、それじゃあ!とばかりに名を態で表すべく、七星の唇に触れるだけの軽いキスを落とす。
さすがに場所が場所だけにこれくらいが限度だよなぁ…と、ちゅ…と軽く音を立てて名残惜しそうに七星の上唇を吸って唇を離した舵だったが、首筋に回った七星の腕は緩むことなく、合わさった視線が物足らなさを訴えていた。


「……」


一瞬無言で交錯した視線の後、舵がもう一度唇を触れ合わせて舌先を伸ばすと、薄く開いた七星の唇が抵抗なくそれを迷うことなく受け入れた。


「…ん、…っ、」


ゆっくりと確実に深くなる口付けに、七星の喉が鳴る。
けれど。
いつの間にか胸元をまさぐっていた舵の指先が制服のネクタイを解き、さらにシャツのボタンにまで及んだことに気づいた七星が、焦ったように舵の胸を押し戻し抗議の声を上げた。


「…っちょ、た、貴也!」


制止の意味合いも込めただけに、思わず大きな声でその名を叫んだ七星を、舵がしてやったり…!と言わんばかりの満面の笑みで見つめ返す。


「そんな大きな声で呼ばれると照れるんだけど?エロ七星君?」

「な!?誰がエロ…!」

「だって、誘ってきたくせに」

「さ、誘ってなんか…!」


真っ赤になりつつ抗議の声を上げた七星だったが、見透かすようにニヤニヤ…と笑う舵を前にしては、それが真実なだけに継ぐ言葉を失った。


「…今度はいつ、泊まりに来れる?」


今までにはなかった強引さを秘めた舵のストレートな誘いの言葉に、一瞬、胸元のシャツとネクタイを直す七星の手が止まる。


「あ…えっと…、ごめん。もうじき”オンリーワン・スタイル・クラブ”三つ目のオープンなんだ。それまでしばらくはそっちに行かなきゃならなくて…」

「…オンリーワン・スタイル・クラブって、仁君達と一緒にやってる”AROS”のリゾート開発の?」


こくり…と七星がバツが悪そうに頷き返す。

”オンリーワン・個邸・別邸生活”というコンセプトにこだわった七星提案のリゾートホテル開発は、老舗の料理旅館・成田屋の後継者、成田仁と料理部門で提携することで、開発が進められている。
これまでに既に二つのフィールドを、京都有数の茶の家元・村田家が所有する土地建物を利用して展開していた。

フィールドごとにスタイルが異なり、オーシャンビュー・スタイル、西洋式のルーバー邸やログハウス・スタイル、侘びさびを感じさせる数寄屋作り等々…フィールドの景観に合わせて造られた一軒家風の”個邸”で構成され、各個邸で様式も違う。
完全会員制で、一般観光客を取り込むことなく一人一人の上質なプライベートを確保できる…オンリーワンの名の通り自分だけの別荘・別邸感覚で利用できるリゾートホテルだ。

その三つ目のフィールドのオープンを間近に控え、七星は美月に卒業と同時にオープン準備を手伝うよう言い渡されていたのだ。


「…まさか、イギリスへ留学するまで会えない…なんてこと…!?」


たちまち眉間に深いシワを刻んで言い募った舵に、七星が慌ててそれを否定した。


「いや、さすがにそれはないよ、二週間くらいで帰ってこれるはず。で、さ…貴也も教職、その頃で終わりだろ?だからさ、卒業旅行とか…どう?」

「え…?卒業旅行?」


そう、七星達三年生は卒業しても、まだ1・2年の在校生が居る。
終業式が終わるまで、舵は教師としての仕事が残っているのだ。


「いや、無理にとは言わないけど…新しくオープンする所、露天風呂付きで純和風、茶室も付いた数寄屋造り…っていう個邸があるんだ。美月さんが卒業祝いに好きな所に泊まっていい…って言ってくれてて…」

「行く!!」


途端に目を輝かせた舵がそう叫んで、胸元のネクタイを直しかけたままそこにあった七星の手を握り締めた。


「七星と二人きりで旅行なんて初めてじゃないか!これでようやく、修学旅行で我慢してたあんな事やこんな事が…!」

「ちょっと待て、何考えてたって?」


喜びの余りつい洩らした舵の本音を聞きつけた七星が、聞き捨てならん!とばかりに舵に詰め寄る。
そんな七星を『まぁまぁ、気にしない気にしない』と軽くいなした舵が、握っていた七星の手を解いて、直しかけのネクタイをきっちりと締め上げた。


「さて。じゃ帰ろうか?俺の車で送るよ」

「え?いいよ、歩いて帰るし…!」

「だめ。そのまんまで正門から出て行ったらブレザーのボタンくれだとか、握手してだとか、どさくさにまぎれて触るような不埒な奴だって…きっと居る!そんな所へみすみす七星を行かせるわけにはいきません!」


大真面目にそう言いきった舵が、逃がしません!と言わんばかりに七星の手を取って教室を後にする。
そんな舵のあからさまな嫉妬心を前に唖然…としながらも、七星が今にも笑い出してしまいそうな口元を必死に引き結び、舵に手を引かれるまま思い出深い校舎を後にした。







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