「求める君の星の名は」番外編
「天空の破片」
ACT 1
ロンドン市内の中心部近くにそびえ立ち、ランドマークとして異彩を放つ淡いブルーと鮮やかなレッドで彩られたホテル、ロンドン・ヒルトン・オン・パークレーン。
明け方の薄闇の中、薄っすらと霧に包まれた高級住宅街メイフェア地区にあって、ハイドパークにも隣接したホテルの外観は、遠目からでも確認できる。
そのスィートの一室。
イギリス伝統の上品でレトロなキングサイズ・ベッドの中から僅かに覗く艶やかな黒髪に、サラリ…と薄闇の中でも一際輝くクセのない真っ直ぐな金色の髪が重なった。
「…北斗」
耳元で囁かれたその名前に、ピクンと黒髪が揺れ、長いまつ毛に縁取られた漆黒の瞳が、覗き込んでくる鮮やかなアイス・ブルーの瞳と視線を合わせた。
「アル…?どこかに出るのか?」
ついさっきまで全裸だったはずの男…褐色の肌に金糸の髪、滅多にない独特な色合いを放つアイス・ブルーの瞳の持ち主、アル=コル。
そのアルがきっちりと服を着こんでベッドの上に座し、北斗の艶やかな黒髪の感触を楽しむようにかき上げ、露わになった額に薄い唇を押し当てながら言った。
「…ああ、昔馴染みの事でちょっと、な」
「昔馴染み?お前の?」
意外そうに北斗が目を瞬いた。
自分の経歴や素性を一切明かさないアルから、”昔馴染み”などという言葉を聞くのは初めてのことだ。
「なんだ?妬いてるのか?」
「バ…ッ、そうじゃなく…!」
「心配するな、お前には手は出させない…出発までには戻る」
「…ア…ッ、」
言い捨てたアルが開きかけた北斗の唇を指先でスル…と撫でたかと思うと、音もなく身をひるがえし、ドアの開閉の音だけを残して北斗の視界から姿を消した。
疑問を口にしようかどうしようか…迷った北斗の心情を察し、その問いを封じ、代わりに落とされた答え。
それ以上触れる事を良しとしない、その態度。
「…お前には?…”には”って、何だ?」
アルの残した言葉じりに、北斗が眉根を寄せる。
”手を出させない”そう言った時、一瞬、アイス・ブルーの瞳に剣呑な輝きが宿ったのを、北斗は見逃さなかった。
アルがかつて傭兵で、常に危険な事と背中合わせだった…その事だけが北斗の知りうる唯一の事だ。
昔馴染み…もまた、そういう世界に身を置く人物。
それを察するに十分なアルの態度と答えだといえた。
「…知りたくないわけじゃない…けど、」
呟いた言葉が、そこで止まる。
アルの事を知りたい…そう思わないわけじゃない。
ただ、それを知る事をアルが望んでいるようには思えない。それに、知ってしまったら…何か、とんでもない事に巻き込まれそうな…そんな予感。
でも。
いつかは、それを知る事になるだろう。
アルと共に生きると決めた以上、北斗が望むと望まざるとに関わらず…きっと。
だからそれまでは。
その時が来るまでは。
「…知らなくて…いい…」
呟いた北斗の瞼が、ゆっくりと閉じていく。
英国は今、社交シーズン真っ只中で、様々な行事やパーティーでの催し物に呼ばれ続けた仕事がようやく終わり、北斗の身体も精神もクタクタだった。
今日の夜には、モルディブのランカンフシ島…遠浅の海に建てられた二階建ての水上コテージでアルと共に過ごすバカンスに出発する。
かやぶき屋根と南国風インテリアの素朴な雰囲気…だが、サービスは超一流で北斗の大のお気に入りだ。
久々のまとまった休暇だ、余計な事は忘れよう…
幻想的な青い海と共に過ごすのんびりとした時間に思いを馳せながら、北斗が再びまどろみの中へと堕ちて行った。
日が高く上ったころ、ふと感じた気配に北斗が目を覚ました。
ドアの外…僅かな足音でも立てまいとするかのような、忍びやかな足音と、人の気配。
チャイムが鳴る。
忍び足で影のようにベッドに寄ってきた男は、黒の燕尾服に胸に一輪の赤い薔薇をさした、初老の紳士。
スィート専属のコンシェルジュだ。
「おはようございます。お連れ様からこのぐらいの時間に…と、承っておりましたが、よろしかったでしょうか?」
鈍く光る銀製の盆から、白磁のティーカップをナイトテーブルに置き、純白のポットコージーの中から現われた真っ白で柔かな曲線を描くポットを手に取った。
その中央、ふっくらとした胴体部分に英国の国花である薔薇が淡い色彩で描かれている。
にこやかな笑みを浮かべて語りかけながらも、寝起きの北斗とは決して視線を合わせることなく、初老の紳士が優雅に茶を注いだ。
ようやくと身じろぎした北斗が、くるまったシーツの中から伸びやかな腕を伸ばして艶やかな黒髪をかき上げ、寝起きさながらの妖艶な笑みを浮かべた。
「…ありがとう」
そう言った北斗に、一瞬だけ紳士の細まった瞳が視線を合わせ、その笑みに見惚れることを自制するように、惜しみながらもさりげなく視線が外される。
注がれていく琥珀色の液体。
たちまち香る爽やかなオレンジ・ペコの湯気の向こうでうやうやしく一礼を返した紳士が、『いつでもお声をおかけ下さい』という言葉と共にアルの残した吸殻を片付け、僅かに上がる湯気を揺らしてドアの外へと姿を消した。
まさに正確無比な職人的所為。
さすがは美学とまで称される英国式サービスならではだ。
普段はコーヒー党の北斗だが、この国に居る間だけは、やはり紅茶一辺倒になる。
それに、なんと言ってもこの起き掛けの紅茶は、優しく目覚めを促し満ち足りた気分にしてくれる。
ただ一つ、いつもはある自分をしっかりと拘束する褐色の力強い腕の欠如…という、代用の効かない物足らなさを除いて。
シャワーですっきりと心身ともに覚醒した北斗が、バスローブ姿でハイドパークが一望できる窓際に立って大きく伸びをした。
「ん〜〜〜っ、出発までまだ十分時間あるし、アルも居ないし…散歩でもしてくるかな」
緑豊かなハイドパークの広大な敷地に誘われるように、カジュアルな服装に着替えた北斗が、薄い色味のサングラスをかけ、ホテルを後にした。
心地良い風と共に降り注ぐ、柔かな陽射し。
市民の憩いの場でもあるハイドパークには、子連れや犬の散歩、ジョギング・・・たくさんの人達がそれぞれに午後の爽やかな一時を満喫していた。
そんな中、整備された散歩道をゆっくりとした歩調で北斗が歩いていく。
道に沿ってある木々の隙間から、その向こう側にある大きな池の水面が見え、放たれたガチョウや白鳥が優雅に波紋を広げている。
見渡す限りの豊かな緑、時折駆け抜けるリスなどの小動物、野鳥のさえずりや羽ばたきの音。
思わずここが、世界でも有数の都市の中心だということを忘れてしまいそうになる。
穏やかな、心休まる光景…と思いきや。
ガアガアガア
バサバサバサ
ガアガア
そんな静寂を打ち消すかのような、騒がしいガチョウやアヒル達の鳴き声と羽ばたきが響き渡った。
「…なんだ?」
思わず呟いた北斗が音のするほうへ振り返ると、たくさんの水鳥たちが一箇所にひしめき合って、さながら蠢く白い塊のようになっている。
その中心で、ツバの広い白い帽子を被った女性が一人、困ったように立ち尽くしていた。
胸元を緩いドレープとレースで飾ったホワイト・チュニックに深めのスリットが入ったロングのブラック・タイトスカート。
大きなリングが幾つも連なった真鋳製のベルトが、全体をすっきりとまとめ、シンプルながらそのデザイン性の良さは人目を引いた。
顔は帽子で隠れて見えないながらも、モデル並に均整の取れた身体と、スリットから垣間見える細くすんなりと伸びた脚。
申し分のないスタイルの良さだ。
近くで売っている屋台のスナック菓子の包み…らしき物を手にしている所をみると、どうやらその菓子を餌目当てに集まった水鳥達に囲まれて身動きが取れなくなってしまったようだ。
広大な敷地に放し飼い状態の水鳥達はすっかり人に慣れ、菓子など手にしてうろついていると、あっと言う間に取り囲まれて餌をねだられる羽目に陥る。
こんな場合、持っている菓子を全てばら撒き、空っぽになった包みを逆さにして『もう餌はないぞ!』と、示してやるとすぐに散開するのだが…その女性はしっかりと手に包みを抱えたまま、その事に思い至れないでいるらしい。
「…おやおや」
小さく嘆息した北斗が、水鳥達を踏み潰さないようにかき分けて女性に近付いた。
「大丈夫ですか?」
北斗がにこやかな笑みを浮かべてそう聞くと、気恥ずかしいのかツバの広い帽子を俯けたまま女性が答えを返す。
「…やっぱり、このお菓子を上げなきゃダメかしら?」
「ええ、こうなってしまったら全部上げないと無理でしょうね」
「そうよね…。ああ、でも、このお菓子大好きなのに…!」
いかにも未練たっぷりなその言い方に、思わず北斗がクス…と小さく笑み返す。
「じゃあ、後で奢りますよ、そのお菓子。それで如何です?」
「あら、本当に?じゃあ、遠慮なく…!」
帽子の下から垣間見えた女性の真紅の口元が、意味ありげな笑みを象った…と見えた瞬間、女性が持っていた菓子包みを思い切り遠くへと放り投げた。
同時に、水鳥達もバサバサと羽毛を撒き散らしながら我先に…!とばかりにその菓子の落下地点へと移動して行く。
ふわふわ…と羽毛が舞上がる中、包みを放り投げた弾みで女性が被っていたツバ広の帽子が北斗の足元に転がった。
帽子の中から現われた、さながら王冠のように陽をはじいて輝く、見事なブロンドの髪。
北斗が帽子を拾う事すら忘れて、そのブロンドに見惚れた。
サングラスで目元が隠れているせいで、年齢は今ひとつ不詳。
とはいえ、美人だという事は疑いようがない。
バサッ!
最後に残っていた一羽の羽ばたきの音に、ハッと我に返った北斗が慌てて帽子を拾い上げ、女性へと差し出した。
「見事なブロンドですね。思わず見惚れてしまいました」
「ありがとう。あなたの黒髪も凄くステキ。若かりし頃のあの人を思い出すわ」
若かりし頃…という言い方と、ニッコリと笑みを象った真紅の口元に出来た笑いシワ…どうやら見た目ほどには若くないようだ。
「あの人?昔の恋人ですか?」
「そうね、一夜限りの…ってとこかしら」
「それはまた…意味深ですね」
「ふふ…なにしろ相手が王子様じゃね」
「え…?」
思わず北斗が、冗談だよな?とばかりに目を瞬きつつ女性を見返したが、既にツバの広い帽子を被り直し、その表情を窺い知る事は叶わなかった。
「さて、黒髪のハンサムさん、約束どおりお菓子を奢ってくださるんでしょうね?」
「あ…!そうでしたね、どこの店で買われたんですか?」
「ペンザンスよ」
「は…ぃ!?」
北斗の声が裏返って、息を呑む。
それも当然、なにしろペンザンスと言えば、コーンウォールの先端、ロンドンから電車で6時間は軽くかかる距離にあるのだから。
「ぺ、ペンザンス…って、そんな遠くから!?」
「ええ。だから餌になんてしたくなかったの。だけど、奢ってくださるっておっしゃったから」
「う…っ」
思わず唸った北斗が、自分の吐いた軽率な言葉に蒼ざめる。
でも、まさか、そんな遠くで買ったものだなんて、普通思わないだろう。
どうしよう…と途方に暮れていた北斗の背後から、不意に品の良い腰の低い声音がかけられた。
「マダム、包み紙を放り投げるなど…感心できる行為ではありませんよ?」
ハッと驚いて振り返った北斗の目の前に、金糸をあしらった山高帽を目深に被り、背景から滲み出てきたかのような上質で重厚な深緑のオーバーコートをまとった男が佇んでいた。
最近では、伝統的なホテルのドアマンくらいでしかお目にかかれない、クラシカルな装いと雰囲気だ。
そのスタイルが恐ろしいほど違和感無く似合っている…年齢的には60台といったところだろうか。
おまけに、その手には先ほど女性が放り投げた包み紙が、しっかりと握られていた。
「あらいやだ…裏口からこっそり出てきたのに、もう見つかっちゃったのね」
「お言葉ですが、ハイドパークホテルの裏口をこっそり使うこと自体、前代未聞です。もう少し自重自戒していただかないと…!」
その二人の会話に、北斗の表情がますます驚愕の色味に染まっていく。
伝統あるハイドパークホテルの裏口…そこはハイドパークに面した言うなればホテルの裏玄関で、王室関係者や各国首相などのVIPにしか使われる事のない玄関だ。
…それをこっそり使ったって!?この女性、一体…?
背筋に冷たい汗を感じている北斗など眼中にないように、二人の会話は更に進んでいく。
「久しぶりなんだから、そんな固いこと言わないで。それより、ここに居るって事は、もう手配はしてるわよね?」
「ご心配なく、もうそろそろこちらに着くはずです」
「あら素敵。さすがは有能なバトラー(執事)ね」
嬉々として言った女性の声と、どこからか聞こえてきた聞き覚えのある音とが重なって、北斗の鼓膜を震わせた。
「えっ!?嘘…まさか…!」
音のする頭上を振り仰いだ北斗の視界の先で、10人ほどは優に乗れるエアバスが降下してくる。
バッキンガム宮殿とも目と鼻の先の、しかもハイドパーク内にこんな民間のエアバスが降りる事自体、通常はあり得ない。
それなのに、そんな事など日常茶飯事、エアバスの巻き起こす風圧にも慣れた風情で、女性は軽く片手で帽子を押さえて、エアバスの乗車口が開くのを待っている。
驚きを通り越して唖然…とその光景を見つめていた北斗の腕を、ス…ッと女性が絡み取った。
「さ、行きましょう。ペンザンスでお菓子を奢ってくださるんでしょう?」
「え、いや…あの、でも…!」
「あら、約束を破るおつもり?日本でも”男に二言はない”って言うんでしょ?」
その言葉に、北斗がハッと目を見張る。
初対面なのに、どうして自分が日本人だと知っているのか?
おまけに、取られた腕は思わぬ力強さで絡まっている。
その上。
「…さ、どうぞ」
と、物腰は柔らかなのに押しの強い慇懃さを示すバトラーがすぐ横に立ち、そつのない笑みで北斗を誘導する。
その隙のない物腰は、ただの初老のバトラーとはとても思えない。
エアバスから降り立ってドアを開けた添乗員らしき二人組みの男達も、にこやかな笑みを浮かべてはいるが、どう見てもただの添乗員ではない。
屈強なボディガード…といった雰囲気がありありだ。
「…大人しく従った方が、身のため…ですか?」
ハァ…と、盛大な溜め息を吐きつつ北斗が女性に問いかけると、ツバ広の帽子の下から垣間見えた真紅の唇が、楽しげに上がった。
「あら、誤解しないでハンサムさん。昼食もまだなんでしょう?美味しいハイティーもついでにいかがかしら?」
北斗が僅かに眉根を寄せる。
昼食を取っていない事まで知っている…ということは、既にホテルに泊まっていた時点から張られていたと思ってまず間違いない。
もちろん、北斗の素性も分かった上で…だ。
どう考えても、誘拐然とした状況…なのに、不思議とピリピリとした緊張感も危険な感じも、全く感じられない。
それどころか、女性の言い方と雰囲気には、まるでこの状況を心底楽しんで、お茶でもいかが?と気軽に誘っている…ようにしか思えないのだ。
クス…と、思わず北斗の口から笑みが洩れる。
まさに大胆不敵、とんでもないナンパの仕方だ。
「ずい分と派手なお茶のお誘いですね」
「そう?でもきっと退屈はさせないわ」
そんな言葉を残して、エアバスが浮き上がる。
巻き起こった風で木々がざわめいた後には、またいつもどおりの静寂さを取り戻した憩いの場を、リス達が駆け巡っていた。