天空の破片







ACT 5






暖かく大きな暖炉の中で静かに燃える炎を見つめながら、北斗がその前に配置された横長のソファーに寝そべって思案顔になっている。

6月ながら、その多くを大理石等の硬質な石で囲まれた城の中は昼間でもひんやりとしている。
夜ともなれば何か羽織っていなければ心もとないほどの肌寒さだ。
寝室といえど天井が高く広い室内で柔らかく燃える暖炉は心地良く、ちょうど良い暖かさに保ってくれていた。


「…村田響、日本人、通称キョウ、イビル・アイとも呼ばれていた元傭兵…それが”イレブン”かぁ」


シャワーを浴びた後、バスローブ姿のまま少し硬めのクッションを腕の中に抱き、その上に顎を乗せた北斗が、先ほどディナーの席上でサンドラから聞かされた話をもう一度反芻する様に呟いた。

丘の上で問いかけた北斗の問いに対し、もう日も暮れるし城に戻ってからゆっくり話すわ…とサンドラが返し、北斗はそれに従った。
城に帰ってから案内されたゲストルームは、北斗好みのクラッシックで落ち着いた色調で統一された部屋だった。
リビングには最新鋭のオーディオシステム、書斎にはバラエティに富んだ豊富な書籍、ゆったりとした浴室、暖炉付きの寝室…と、ここでなら何日籠城したって構わないな…と思わず思ってしまうほどの快適な空間と設(しつら)え。

リビングの大きな窓からは月影を写して輝く海原を一望でき、さながらそれ自体が部屋に飾られた一枚の絵画のようだ。
長年の習性から、つい室内を細部までくまなく見て回っている自分に苦笑を覚えながら、北斗が監視用の盗聴器や隠しカメラの存在がないことを確かめ終えた頃、部屋のドアが控えめにノックされた。

現われたのはディビットで、北斗の体躯に合わせて作らせたらしき正装用のタキシードを手渡された。
夕食は城のメイン・ダイニングで二時間後に…と告げられ、『正装で…?』と、驚く北斗の問いには答えずに、慇懃に一礼を返したディビットがドアの外へと消える。

自分はただの人質のはずなのに…?と首を傾げながらも、北斗が手渡されたタキシードの仕立ての良さに、さすが英国仕様だな…!と細部まできちんと完璧に縫製された職人芸に舌を巻いた。

きっちり二時間後、まるであつらえた様にぴったりのタキシードを身につけた北斗が、再び現れたディビットに案内されてダイニングに向かった。
そこで待っていたサンドラは昼間の雰囲気を一変させる艶やかなドレス姿で、思わず北斗がハッと姿勢を正して息を呑んだ。

城の主であるサンドラが正装し、現われた北斗に対し優雅に一礼を返して出迎える…それは正式に北斗をゲストとしてもてなしている事の表れで…。
王室にもつながるという貴族の血筋であり現公爵の妹、おまけにどの国に行ってもVIP扱いで”空飛ぶ至宝”の異名をとる女性が、北斗ただ一人のために正装し、礼儀を尽くす…その事実は今まで一度としてそんな歓待を受けたことのない北斗にとっては、驚愕以外の何物でもない。

おまけに一体どうやって保っているのか?と思わずにはいられない磨き抜かれたその肢体を前にしては、ただ見惚れる以外なく…改めて北斗を感嘆させた。

供された食事もハイティーの時間が遅かった事や小食の北斗を考慮しての、少量・多品種な和風仕立ての料理構成になっていた。
めったに日本に帰国することのない北斗の心情を考慮しての配慮…その十分すぎるほどの歓待の態度と申し分ない料理を堪能しつつ聞かされた”イレブン”と呼ばれる人物の正体が、村田響ことキョウなる人物だったのだ。

そのキョウが、なぜ”イレブン”と呼ばれ”生死にかかわらずその確保が最優先”とされて軍に追われているのか?
それは、キョウが”エフ”と呼ばれる麻薬製造に関わったからだという。

北斗も”エフ”という名の幻と呼ばれる麻薬があることは、噂で聞いたことがあった。
麻薬の中で最高のエクスタシーが得られる薬。
その効果は、恍惚のなか人を死に到らしめるほどのものだと言われている。


「…その”エフ”が、もとは画期的な抗ガン剤で遺伝子治療薬だったとしたら?」


不意にサンドラが告げたその言葉に、北斗が『え!?』と瞠目した。


「麻薬としての”エフ”はその治療薬から痛みを取り除く成分だけを抽出、特化して作られたものよ。キョウはガン多発性の遺伝病を持っていて、その治療薬開発が目的だったんでしょうね…軍のウィルス研究に関わっていたの」

「遺伝病の治療に、ウィルス研究…?」

「遺伝治療には、遺伝子改良されたレトロウィルスを投与して細胞に感染させ、細胞自体の遺伝子を書き換えさせる方法が一番副作用がなくて有効だと言われているわ。キョウは自分の遺伝子タイプに合わせてレトロウィルスを書き換え、掛け合わせて特殊な亜種ウィルスを作り出してしまったの。彼にとっては病気に有効なウィルスだけど、他の人間にとっては感染すれば致死率の異常に高いキラー・ウィルスをね」

「キラー・ウィルス…」


呟いた北斗の眉間に深い溝が刻まれる。
そんな危険極まりないもの、いくら遺伝治療のためとはいえ、あってはならない。


「…その、作られたウィルスはどうなったんですか?」

「キョウがウィルスごと全てのデータを消し去ってしまったから、データ自体は残されていないわ…ただし、彼の身体の中を除いてね」

「身体の中!?」

「ええ。ウィルスは彼の身体の中で生き続けているのよ、感染力を弱めた状態でね。だからキョウの身体の中から取り出されて手を加えられない限りは無害なの。そして彼はその天才的な能力でウィルスを体内で殺すことなく寄生・共存させることのできる薬も作りだした…それが”エフ”のオリジナル。おまけにそのオリジナルにはとんでもない副作用があったらしいの」

「副作用?いったいどんな?」

「オリジナルはMDK(ミッドカイン)と呼ばれるタンパク質を増殖・活性化させることでウィルスによって引き起こされるアポトーシス(細胞死)に対抗、その活動を最小限に抑え込む事により体内で共存させる作用があるの。このMDK(ミッドカイン)っていうのは胎児に大量に発現するたんぱく質で、若返りや再生治療で注目されててね、そのウィルスと共存し”エフ”を服用し続ける間は、細胞の増殖とアポトーシス(細胞死)が相殺されて、加齢が阻害されてしまうのよ」

「加齢が阻害…って、つまりは、年を取らないってことですか!?」

「実際には、非常にゆっくり加齢が進む…っていうのが正しい言い方かしらね。その効果によってガンの進行も著しく遅行させることが可能になるの。通常の治療では副作用を極力抑え込もうとするものなんだけど、キョウはその副作用を逆手にとった…まさに逆転の発想ね。で、そのMDK(ミッドカイン)の存在する場所が染色体の11p 11.2、っていうところで、彼が”イレブン”と呼ばれる所以はそこね」


目を見張った北斗が軽いため息を落とす。
軍がキョウを”生死にかかわらずその確保が最優先”として追うわけだ。
危険なウィルスを体内に共存させたまま、キョウを野放しにするわけにはいかないだろう。
おまけに、不老ともいえる副作用…研究対象としても喉から手が出るほど欲しい逸材に違いない。


「…確保されたとしたら、キョウはどうなるんですか?」

「生きていれば研究対象として扱われるでしょうね、一生。だから彼はすべてのデータを消し去って軍から逃げたんですもの。そして、死んでいた場合その体は切り刻まれて標本化され研究材料…ってところかしら」

「っ、死んでいても、ですか…!」


思わず北斗の声が裏返る。
もしも自分が死に、そんな研究対象として切り刻まれるとしたら…?
冗談じゃない…そう考えるだけでゾッとする。


「…サンドラ、あなたもそうなることを望んで彼を追っているんですか?」


思わず、北斗が口調を硬くして問う。
危険な存在…であることに間違いないが、ただ自分の病気の治療法を見つけて生き延びている…それだけのことなのに…!?と。


「彼の場合、遺伝病上一度ガンが発生すると進行は止まらないの。例え症状を抑え込めていても、確実に全身はガンに侵されていくわ。もしもどこかでキョウが死に、火葬されなかった場合、体内に残されたウィルスが何らかの形で生き残る可能性がある…それは阻止する必要があるでしょ?それに、アルとキョウがどういう関係かはよく知らないけれど、キョウが日本へ帰国した情報が入ったら教えてくれ…と言われていたの。帰国する時がキョウの死期が迫ったときだろうから…てね」

「…そうですね、俺も死期が近いと分かったらきっと帰ると思います」


大事な思い出のある場所。
自分の心のよりどころ。
自分の起源。

死期が迫ったとき時、脳裏をよぎるところ。
故郷とは、そういう場所だ。


「それと、誤解のないように言っておくけど、私が追っているのはキョウじゃないわ。キョウのデータを欲しがっている連中よ。アルとはキョウの情報と引き換えにその連中をあぶり出す…っていう契約になってるの」

「契約、ですか!?」

「ええ。ホントに可愛げないわよね。たとえ親でも契約を持ち出すなんて!で、ちょっとムカついたから、あなたを強引に拉致ってデートすることにしたってわけ」


ふふ…と、艶やかな唇に不敵な笑みを浮かべたサンドラが、ラピスラズリの異名”天空の破片”と呼ばれるにふさわしい、見た者を虜にする深く煌めく青い瞳で北斗を見据え…そう、言った。







「つまり、俺がここに居るのは、半分は親子ケンカ…ってわけか」


ハァ…ッと、盛大な溜息が北斗の口から洩れる。
あのアルが誰かに頼みごとをするなど、滅多にないことのはず。
母親であるサンドラだからこそ、アルはキョウに関する情報提供を頼んだのだ。
けれど、アルのことだから母親とはいえ…いや、母親だからこそサンドラに借りなど作りたくなかったのだろう。

だから契約と称してサンドラ側の思惑を引き受けた…素直に礼を言わず、親に甘えるなどという事もしないアルの態度は、確かにサンドラからすれば”可愛げがない!”ものだったろう。

おまけに。
七星達に何か危険なことが降りかかるかもしれない…その危惧を言い募れば、


「あら、私は自分の息子を信じてるわ。あなたは信じていないの?」


そう面と向かって言われてしまう始末…これには、さしもの北斗も何も言えなくなってしまった。

アルなら、七星が危険に曝されても必ず守ってくれる。
七星なら、たとえ危険な目にあったとしても弟達と力を合わせてそれを乗り越える。

サンドラの息子であるアルを、自分の息子である七星達を、北斗も信じているのだ。
そして、アルもまた北斗を信じているからこそ、北斗の側を離れたのだ。
七星達は必ず守る…そんな無言のメッセージを込めて。

それに、確か”エフ”にはファハド国王の腹違いの弟…あの、ハサン王子誘拐事件を計画したサウードも絡んでいたはずだ。
”エフ”を作ったのがキョウならば、サウードとキョウも繋がりがあると見るのが無難。

あの誘拐事件のとき、サウードが王位継承者として指定した彼の息子は捕まることなく逃げ延びたと聞いた。
その出自は宗教的意味合いが強く、未だ欧米化政策に対して根強い反発が残る国の中で、次期王位継承者であるハサン王子の地位を脅かす危険な存在。

ハサン王子が”AROS”を立ち上げ、その代表代理にアリーを置いたのも、王族に対する反発の強いベドウィンの中で最も影響力の強い部族の次期後継者…だからだ。

たまたまハサン王子に気に入られた流と同じく、赤い髪、赤い瞳を有したアリーを”ダブルクリムゾン・スター”と揶揄したのも、かつての争いで語り継がれる逸話から”抗う者”になることを期待してのこと。

もともとある脈々と受け継がれてきたものに抗い、新しいものを作り上げていく指導者としての資質と可能性。
ただ、それが、ハサン王子達の目指す国作りに追随するものになりうるか、反体制を支持するものになりうるか…それは誰にも分からない。

凶星の星となるか、吉星の星となるか…未知数な”抗う者”だ。

そしてそこに、流もまた否応なく巻き込まれる事は必至だ。
今回の”エフ”絡みでキョウとアルが日本に居ることは間違いない。
キョウと”エフ”で繋がっていたと思われるサウード…おそらくはその息子もまた…。


「ややこしいことになってなきゃいいけど…なっちゃってるんだろうなぁ…きっと」


もう何度目かすら分からなくなった特大のため息を落としながら、北斗がようやくソファーから立ちあがった。

ここで自分が鬱々と悩んで考えたところで、事態が好転するわけでもない。
ただ、七星の恋人・舵貴也の背景と自分との関わりは把握できた。

キョウの本名が村田響だと聞いた時、まさか!と耳を疑った。
村田響…その名前は宙と七星と共に京都へ行った時に世話になった茶の家元、そこで聞かされた行方不明中だという家元の兄の名前と同じだった。

そして、あの時出会った、美月の茶の先生・佐保子の息子だという少年。
実際は家元の実子ではなく、その兄・響の子だと美月に聞かされた。
当時はまだ村田貴也と名乗り、髪の色も真っ黒だった…10歳の子供。
泣きわめいていた七星が、その少年に抱かれた途端、嘘のように泣きやみ、笑った。

それを見たとき、何か運命めいたものを二人の間に感じたのを北斗は今でも覚えている。
だからこそ、いくら秘密を守るためとはいえ、こんな子供に…と迷った挙句、その少年に暗示をかけ七星の記憶を封印した。
”きっと大丈夫、この子たちはもう一度必ず出会うはずだから”…そう言った宙の言葉に後押しされた事もあった。
昔から妙に勘の鋭かった宙は、時々先を見通したようなことを言い、それが外れたことはなかったのだ。

あの時の、あの少年が、舵貴也。

一年前、七星の秘密を体を張って守ってくれた教師として出会った時には、不覚にもその事を思い出せないままだった。
だが、思い出せないままであっても『この人ならきっと七星を守ってくれる』…と、なぜか確信に近い気持を抱いたのは確かだ。

その舵先生が、キョウの息子。

舵と七星が再び出会ったのは、おそらく佐保子も絡んでの、美月の思惑によるものだろう。
そこにアルは無関係だ。

アルは舵に出会った時、彼がキョウの息子だと気づいていたのだろうか?
そう考えて、そう言えばあの時、珍しくアルが人前に…舵の前に自分の姿を曝したな、と北斗が思い出していた。
当時はただ、七星のために舵にアドバイスしておきたかったのだろう…程度にしか考えていなかったが、今思えばキョウの息子だと気づいたからこそ曝したのかもしれない。

いつかこんな風に関わり合いが出てくる相手だと、分かっていたから…。

サンドラは、アルとキョウの関係は彼女自身もよくは知らないと言った。
ただ…。

『昔交わした約束がある』

そう、アルは言ったのだという。
そしてその約束を果たすためには、七星達を巻き込むことになる…とも。


「だから、不本意だけどアルは私にあなたを託す事を承知したのよ。今回の事には、以前あなたが関わったハサン王子誘拐事件の首謀者であるサウードの息子、イスハークも絡んでるの。
だから、あなたが彼らの前に現れると、せっかくダグラス達が仕掛けた罠よりあなたの方に意識が向き、計画が失敗しかねない。そしてアルも今回ばかりはあなたの側を離れざる得ない…安全な場所にあなたを隔離しておくことが、私達とアルの共通の利害の一致、だったってわけ。ごめんなさいね」


そう、すまなそうにサンドラに告げられれば、北斗も返す言葉がない。
アルが北斗に一切の説明をしないまま消えたのも、知れば必ず七星達の元へ行こうとする北斗の性格を知り尽くしていたからだ。

泣くことが出来なかったあの七星に、『泣ける場所ができたから、父さんも幸せになって…!』と、言わしめた男。
けれど、その男には、七星が知り得ない過去と、とんでもない背景が秘されていた。

おそらく七星は今回の事でそのことを知ることになるだろう。
それでも、自分が選んだ男を信じて、手に入れることを望むのか?
その決断を迫られた時、七星はどうするのだろう?

北斗がアルの出自を知ってなお、共に居たい…と思ったように、それを受け入れられるのだろうか?

今の北斗にできることは、何がどうなったとしてもそれを受け入れ、大切な者達を信じて待つ…ことぐらい。


「…何があっても、負けずに乗り越えて幸せになれ、七星。父さんも頑張るからな…!」


カーテン越しに覗く月影と星の輝きを見つめながら、北斗が祈るような気持ちで呟いていた。





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