天空の破片








ACT 6










翌日の朝は、あの適度な運動が功を奏したのか…北斗にしては珍しくすっきりとした目覚めだった。

うーーーーん!と絶妙な硬さ具合で寝心地の良かったベッドの上で伸びをした途端、まるでそれを待っていたかのように寝室のドアがノックされ、ディビッドが湯気の上がるティーポットを乗せたワゴンと共に現れた。

目覚めたばかりの身体を優しく温めてくれる紅茶は、ディビットのオリジナルブレンドだと言うモーニングティーで、爽やかなニルギニを基調に懐かしい…柚子の香りが微かに漂っていた。


「ぅわ…!これ、柚子ですか!?」

「はい。お口に合いましたでしょうか?」

「ええ、凄く…!なんだかホッとする…」


日本ではどこにでもあるお馴染みの香りだが、外国でその香りを嗅ぐことは滅多にない。
思わず立ち上る湯気を思い切り吸い込んだ北斗が、その懐かしい香りを堪能するように吐息を吐いた。


「バスルームにお湯が張ってございます。お召しかえも何点かクローゼットにご用意しておりますので、お支度が整いましたら中庭のテラスへお越しくださいませ。サンドラ様がそちらで一緒にモーニングを…とおっしゃっておられました」


にこやかな笑顔と共にそう言うと、北斗の返事を待たずに慇懃な一礼を返したディビットが寝室を後にする。
紳士的な態度のなかに感じる、押しの強さ。
さすが、あのサンドラに仕えるバトラーだけの事はあるな…と、苦笑ももれるが、そのこまやかな心遣いには感嘆させられるばかりだ。

身支度を整えた北斗が中庭のテラスに着くと、サンドラ自らが庭に植えられた草木の手入れをしていたようで、ガーデニング用のエプロンを身につけたカジュアルな格好で、仕上げの水撒きの真っ最中だった。


「あら、おはよう。昨晩はゆっくり眠れたかしら?」

「はい。こんなに気持ちの良い朝は久しぶりです」

「それは良かったわ。何と言ったって今日から特訓ですものね」

「え…?特訓…て?」


目を瞬いた北斗に、サンドラが水撒きのホースを片づけながらウィンクを返す。


「あら嫌だ、サマープディングケーキ作りに決まってるじゃない!」

「あ…!!」


自分から言い出しておきながら、すっかりと失念していたその事を思い出した北斗が苦笑を返す。


「すみません…すっかり忘れてました」

「困った人ね、自分から言い出したくせに。ま、いいわ、きっちり覚えるまで帰らせませんから、そのつもりでね!」

「はは…、でも、今まで一度も料理らしい料理なんて作ったことありませんので、その辺をご配慮いただけると…」

「あら逃げ腰ね。じゃ、こうしましょ!ちゃんとマスターできたら、ご褒美を上げるわ」

「ご褒美…ですか?」


まるで小さな子どもに言い聞かそうとするかのようなサンドラの物言いに、北斗の顔に苦笑が浮かぶ。

そんな会話の横で、いつの間にやら現われたディビットが椅子を引き、サンドラと北斗をテーブルにつかせたかと思うと、魔法のような早業でテーブル上に伝統的なイギリス式フル・モーニング…薄くこんがりと焼き上げられたカリカリトーストとベーコン、目玉焼き、英国風ソーセージ、マッシュルームのソテー、焼きトマト、 ブラック・プディング(豚の血で作った黒ソーセージ)、ビーンズの煮物などを所狭しと並べ立てていく。

さすが、英国に来たら朝食を三度食べよ…とか言う言葉があるわけだ、と、それらを横目で眺めて北斗が納得しつつ、意味ありげな笑みを浮かべたサンドラを見つめ返した。


「ええ。こんな事でもなければ見る機会のない、アルが死ぬ程嫌がるだろう…小さい頃の写真とか…ね」

「え!?」


思わず北斗が目を見張る。
アルの小さい頃の写真!?
確かにそれはここに来なければ一生お目にかかれない貴重なものだ。


「そ、それは、是非!!」


身を乗り出すようにして勢いこんで言い募った北斗の眼前に、大きめのティーカップになみなみと注がれたミルクティーが差し出された。


「では、まずは冷めないうちにご朝食を…」


にこやかな笑顔と共に有無を言わせぬ雰囲気で、ディビットが朝食の始まりを告げた。 









「こう言ってはなんですが、今まで食べたサマープディングは正直美味しいと思ったことがなかったんです。それぞれの家で形も作り方も違うものなんですね」


たっぷりの朝食をとった後、腹ごなしも兼ねて再び丘へ登り、ベリーの群生地でイチゴや早生りのベリー類を採れるだけ収穫して、城内にある広いキッチンの大理石の調理台の上に並べていた北斗がサンドラにそう言った。

サンドラの作るサマープディングは、一般的に知られる食パンを使ったドーム型のモノではなく、土台のスポンジを別焼きにして、その上にムース状のベリーを注ぎこんで冷やし固めた、ホールケーキ型のものだったからだ。
食パンを何層かにしてその間にベリーを敷き詰めてホール型にしたものなら、以前北斗も見たことはあったが、パンを使わずきちんとスポンジを焼き上げて作るタイプのものは初めてだった。

パンを使ったものは、砂糖とレモンで煮たベリーを型に敷き詰めたパンに流し込み冷やし固めただけのもので、必ず濃厚な生クリームかソースが添えられ、それに絡めながら食べるのが一般的だ。
逆にいえば、そういったクリームやソースがなければ、味はいま一つ…とも言える。


「アルがね、ベリーは好きなくせにあの水分を吸ったパンの食感が嫌いだったの。それで考案した特性サマープディングだから、ちょっと凝ってるわよ?」


だから覚悟して覚えなさい!という意味合いの笑みを口元に浮かべたサンドラにより、その日から北斗にとって正に地獄のようなサマープディング作り猛特訓!が始まった。

土台になるスポンジは卵と砂糖、小麦粉、アーモンド粉末、レモン一個を使う。
卵黄と卵白は別々に取り分けて砂糖を半々にしてそれぞれに加え、卵黄は白っぽいクリーム状になるまで練ってレモン汁と細切りにした皮を入れる。
卵白は角が立つまで泡立ててから練った卵黄と混ぜ合わせ、ふるった粉とアーモンド粉も混ぜ合わせる。
それをホール型に流し込んで焼き上げるのだ。

まあ、普通のケーキスポンジを焼く工程と言えばそれまでなのだが、何しろ今まで料理らしい料理などしたことのない北斗だけに、初日は卵黄を練る段階で根を上げ、卵白を泡立てる処にすら至らない有様。
さすがにその不器用さと腕力の無さにあきれたサンドラは、その晩から腕立て伏せ50回!という筋トレを北斗に課した。

ケーキ作りで筋トレする羽目になろうとは…!と、北斗が筋肉痛に悲鳴を上げつつ、土台のスポンジをサンドラの合格点がもらえるほどの出来栄えに焼き上げられるようになったのは、三日後のことだった。
ようやくか…!と、思う暇もなく、次はメインとなる土台のスポンジの上に乗るサマーフルーツ・ムース作り特訓が始まった。

早生りのベリーだけでは量が足らず、昨年ディビットが収穫し冷凍保存してあったベリーが役立った。
いつでも作れるように…と、毎年摘み取ったベリーは冷凍保存してあるらしい。
サンドラが作るサマープディングケーキは、ベリーを火にかけて柔らかくした後ミキサーにかけてトロトロにし、さらに漉し器で漉す…というものなので、冷凍でも何ら問題なく作ることができた。

ムースだけに、こちらでも卵を卵黄と卵白に分けて別立てし、さらに生クリームも七分立て位に立てて混ぜ合わせなければならない。
ゼラチンも、高すぎる温度で溶かすと固まらない特性があり、北斗は何度も失敗し根を上げそうになったのだが、その度にサンドラが気分転換しましょ!と言っては北斗を外へ連れ出して、二人乗りの小型プロペラ機で空の散歩を楽しませてくれた。

難関のムース作りも何とか克服し、北斗がサンドラから合格点をもらったのは、特訓が始まって七日後の事だった。


「…ん!これなら合格。最初はどうなることか…!と思ったけど、やれば出来るようになるものね」


一番最初の卵黄練りで既に料理する以前の問題を突き付けられ、石のように固いスポンジを前にして途方に暮れた…時のことを思い出したサンドラが感慨深げに呟いた。


「本当ですか!?やった!」


これでようやく筋トレ並みのケーキ作りから解放される!と、まるで小さな子どものように思わずガッツポーズをとった北斗が、この上なく嬉しそうに歓声を上げた。


「ふふ…お疲れ様。このサマープディングケーキは私がアルに残してやれるたった一つの母親の味なの。親らしいことは何一つしてやれなかったあの子がこの味を覚えてるかどうかは疑問だけど、いつか機会があったら作ってあげてね?」

「っ!?は…い。約束します、サンドラ。根気よく教えてくださってありがとうございました」


ハッと一瞬目を見張った北斗が、胸に手をあて誓いを立てるように告げ、心からの感謝を込めて頭を下げた。


「こちらこそ…よ。あなたが言ってくれなければ、私はアルに何一つ残してやれなかったもの」


にっこりと微笑んだサンドラのその言葉に、北斗が胸を突かれてその胸にあてた手をギュッと握りしめていた。
サンドラは、北斗に対して最大の礼儀を尽くして歓待してくれたばかりか、アルのパートナーとして認め、アルに対する自分の想いをも託してくれたのだ。
思えばこの七日間、サンドラは自分の仕事を何一つせず、すべての時間を恐ろしく不器用な北斗に付き合うことに費やしてくれていた。
通常ならば、分単位のスケジュールで世界中を飛び回っている…と言って過言でない女性が。

自分から言っておいて忘れているような失礼な輩だったのに。
ほんの軽い気持ちの思いつきで言ったことだったのに。

サンドラはそんな事など鼻の先にも気にしてはいなかった。
それだけ、たくさんあった料理の中からこのサマープディングを気に入った北斗が、自ら望んで『作り方を教えてください』と言った言葉は、サンドラにとってこの上なく嬉しい一言だったのだ。

作り方を習っていて分かった、サンドラのアルに対する愛情の深さ。
スポンジのきめの細かさに対するこだわりも、ムースの滑らかさに対するこだわりも、こんな手間暇かかるケーキを考え出したのも、全ては当時まだ子供だったアルを想ってこそ。
そしてここに来た時にしか作らない限定品…だと言ったのも、そのアルとの思い出を大切にしているからこそ。

アルは、生まれ育ったこの場所へもう二度とは帰らない…そんなアルの性格を誰よりも良く知り、理解しているのもサンドラだ。
だからこそ、あえて北斗をこの場所へ拉致同然で連れてきた。
ひょっとしたら、アルが北斗を迎えにここへ来てくれるんじゃないか…?そんな微かな期待も込めて。

けれど。


「…昨夜、アルから連絡があったわ」

「え!?」


サンドラのその一言に弾かれたように顔を上げた北斗の表情には、隠しきれない嬉しさと不安がないまぜになった、複雑な色合いが浮かんでいる。


「あなたの息子達は全員無事よ。アルも契約通り仕事を完遂。あなたをバカンス先に連れて来い…ですって。分かってはいたけど、ここへ足を踏み入れる気はないみたいね」


その言葉に、北斗が安堵のため息をつき、ホッと胸をなでおろした。
その横でふぅ…と淋しげな溜息をついたサンドラが、おもむろに首筋に手を回し、身につけていたスクウェア型のロケットペンダントを外し、北斗へ差し出した。


「…え?」

「約束のご褒美よ。アルの小さい頃の写真はそのロケットの中にある一枚きりなの」

「たったの一枚!?」


叫んだ北斗に、サンドラが苦笑を返す。


「薄情な親だなんて思わないでね。あの頃はなんの力もなかったから…その一枚を守るのがやっとだったのよ」

「あ…、すみません!そんなつもりじゃ…」


分かってるわ…と言いたげに肩をすくめたサンドラに、視線でロケットを開けるように促された北斗がパチンッとロケットを開くと、そこには5歳くらいと思しき子供の年季の入ったモノクロ写真。

サラリと額にかかる真っ直ぐな短髪。
大きな愛くるしい瞳。
ふわりと微笑んだ…幸せそうな笑顔。

さながら天使のような、美少年…!


「え…!?これ…が、アル!?」


にわかには信じがたい、今のアルとはかけ離れたビジュアルに、北斗が目を瞬いた。
けれど…あの、一瞥されただけで戦慄が走る冷たいアイスブルーの眼光…生まれつきあんな眼光を放てる人間など居はしないのだ。

5歳の頃でこの容貌なら、死んだと見せかけて姿を消したという10歳頃もまた、人目を引く相当な美少年だったろう。
多少身を守る知恵と技量を身につけていたとしても、所詮は子供。
家を出てからのアルがどんな目にあい、どんな試練を乗り越えてきたのか…それを想うと北斗の胸に痛みが走る。


「…覚えておいてあげて。アルにも、そんな子供時代があったんだってこと。きっと本人でさえ、忘れてしまっているだろうから」

「はい…」


その無垢な笑みを脳裏に刻み込んだ北斗が、名残惜しそうにロケットを閉じ、サンドラに手渡した。
年季の入ったシルバーロケットは、古いものであるはずなのに磨きこまれ、温もりのある輝きを保っている。
けれど触れると分かる、そこかしこにある変形とたくさんの傷。
戦闘機乗りとして軍に戻ってアルの消息を探していたと言っていた…恐らくはそのころからずっと肌身離さず身につけていたのだろう。


「さてと!じゃ、送るわ。ちょうどヘリが戻ってきたようだから」


再びロケットを身につけつつそう言ったサンドラの視線が、キッチン内にあった窓の外へと注がれる。
つられてその先を見つめた北斗が、はるか上空に浮かぶ黒い点に気が付いた。


「え…?ヘリ、ですか?あの黒い点が?」

「ええ。私のプライベート機。ステルス機能搭載な上、音速で飛べる優れものよ」

「ステルス…」


プライベート機に何でステルス機能や音速飛行機能がいるんだ!?という突っ込みをなんとか呑み込んだ北斗が苦笑を浮かべる。
『行くわよ』という言葉と共に踵を返したサンドラが、城の最上階へ向かうべく北斗と共にキッチンを後にした。

やがて黒い点にしか見えなかったその機体が、城の最上部に設けられていた発着場に降下した。
乗っていたのは、操縦していたらしき男が一人だけ。
ヘリから降り、北斗とサンドラの前に立った男が被っていたヘルメットを無造作に取り払う。
ヘルメットの中から現れたのは、緩やかなウェーブのかかった短髪の、見事なプラチナブロンド…!


「…え!?」


その顔を見た北斗の瞳が、驚きで大きく見開かれた。
なぜなら…。


「ふふ、驚いた?親子だけにそっくりでしょ?」


北斗の傍らでその驚いた顔を満足そうに見つめながら、サンドラがくすくす…と笑った。
そう、その男の顔は髪の色こそ違えど、サンドラが若かった頃はきっとこんな感じだったろう…と想像した通りの顔…!と言っても過言ではないほど似通っていたのだ。

サンドラの美貌をそっくり受け継ぎ、なおかつ雄らしい凛々しさを滲ませた青年の口から、アルのそれとどこか似た響きを持った声音が流れ出た。


「はじめまして、ダグラス・アレンビーと申します。マジシャン北斗にお会いできて光栄です。母のわがままにつき合わせてしまって申し訳ありませんでした」


恐ろしく優美な笑顔を浮かべたダグラスが、北斗に一礼を返す。
顔が上がり、北斗をまっすぐに見つめ返したその瞳の色。

サンドラと同じラピスラズリの色合い…”天空の破片”と呼ばれるにふさわしい双眸がそこにあった。











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