天空の破片







ACT 7






インド洋に点在する約1,200の島々からなる国、モルディブ。
かつて「真珠の首飾り」と呼ばれたこれらの島々は珊瑚礁から成っており、約90の島に、「ワンアイランド・ワンリゾート」と呼ばれるほど多くのリゾートが存在している。

その中でも、ブルーラグーンの遠浅の海が広がる水上に独立して建てられた七棟のコテージ…ソネバギリ・クルーソーレジデンスは、ビーチから500メートルの位置にあり、究極のプライバシーを約束してくれる。

そのコテージをはるか遠くに見やる沖合いに、水上発着出来る装備を装着した黒塗りのヘリが着水した。


「お待たせして申し訳ありません。兄がすぐに迎えに来ると…」


にこやかな笑みを浮かべてヘリの操縦席から振り返ったダグラスだったが、連日の慣れないケーキ作りの疲労が出たのか…北斗は後部座席で眠りこけていた。


「…これはまた貴重なものを。噂によると北斗は滅多に他人に気を許さないはずなんですが…」


思わず目を細めたダグラスが、あどけない寝顔で眠る北斗を見つめた。
通常なら、ダグラスが言う通り他人が居るところで気を許すことのない北斗である、こんな風に無防備な寝顔を曝すことなどあり得ない。
だが、連日サンドラと共に過ごしゲストとしてのみならず、まるでもう一人の息子同然に扱われた事は、北斗の中で他人…という垣根を取り払うのに十分な出来事だったのだ。

ましてやダグラスはそのサンドラの息子で、顔立ちもそっくり。
その上、アルの実の弟…北斗が気を許すには十分な条件だったと言っていい。

操縦席から身を乗り出すようにして、ダグラスが後部座席で眠る北斗の様子を間近に捉えた。


「…あの人も、眠るとこんな風なんでしょうか…?」


ふふ…と口元に笑みを浮かべたダグラスが、誰に問いかけるわけでもない小さな呟きを洩らした途端、不意にヘリのドアが開け放たれた。


「それ以上近寄るな」


不機嫌この上ない絶対零度の冷たさを伴った声音と共に、ダグラスの背中に硬質な銃器と思しきモノの先端が押し当てられていた。


「っ!、に…いさん!?」


小さく息を呑んだダグラスが降参を示して手を掲げ挙げることすら出来ずに、背筋を凍らせた。
着水してからまだほんの数分。
水上コテージからこちらに向かうスピードボートの影を視認してはいたが、この男…いったいどんな早業で音もなくヘリに乗り込み、自分の背後に立っているのか…!


「お前の兄はもうこの世に居ない。忘れたのか?」

「い…え。すみません…アル」

「それでいい。で?あの人というのはあの黒い渡り鳥だろう?まだ籠の鳥にできていないのか?」

「!?」


微かに笑いを含んだアルの言葉に、ダグラスが目を見開いて絶句する。


…何でそんな事まで、この人は…!


「ふ…、ブラック公爵の名に似合いのペットじゃないか、飼い慣らせれば…の話だがな」

「大きなお世話です…!」


眉間にシワを寄せたダグラスが言い募るのと、北斗が目を覚ましたのが同時だった。


「…れ?え?ダグラス…?嘘…俺、寝てたのか?いつの間に…って!アル!?」


パチパチと目を瞬いた北斗が、目の前に居たダグラスに一瞬目を見張り、次の瞬間、その横に立っていたアルに気が付いてさらに目を見開いた。


「いつまで寝ぼけてる?俺の居ない場所で眠りこけるとは…随分と手なずけられたものだな」

「ホントだな…自分でびっくりしたよ」


アルの不機嫌そうなもの言いをまるで気にもかけず、北斗がクス…と笑みを漏らす。

アルが本当に無事で目の前に居ること。
居眠りしてしまうほどに、ダグラスに気を許してしまっていること。

何だかそんな事が、無性に嬉しい。


「…アル、お前で良かった」


出会えたこと。
選んだこと。
その全てが。


自分を見下ろすダグラスとその横に居るアルに向かい、北斗が見る者の視線をくぎ付けにせずにはいられないほどの満ち足りた笑みを見せつける。


「…っ、」


たちまち眉間に深いシワを刻んだアルが後部ドアをスライドさせて開け放ち、北斗の腕を掴んだかと思うと、グイッと力任せに自分の方へと引き寄せた。


「ぅ…わっ!?」


つんのめる様に崩れ落ちかけた北斗の身体を軽々と肩に掲げ上げ、アルが体を反転しながらダグラスに向かって言った。


「土産(みやげ)だ、やるよ」

「え…っ!?」


背中に突きつけられていた硬質なモノの存在がなくなってホッと息をついていたダグラスの目の前に、小ぶりな茶色いモノが放り投げられる。
ハッと、慌ててキャッチしたそれは…!


「ッ!?ハリ…ネズミ!?」


ソネバギリのマスコットともいえる、ハリネズミを模して造られた愛嬌たっぷりな置き物。
ハリの部分で足に付いた砂を落としたりするのにも使われるため、どのコテージの玄関先にも大きなハリネズミの置き物が置いてある。
アルが投げて寄こしたものは、土産用に作られている手のひらサイズの可愛らしいものだった。


「え…まさか、さっきまで背中に感じてたものって…、」


硬質で銃器の先のようだったモノは、ハリネズミの出っ張った鼻先…。
唖然としながらそれを見つめたダグラスの耳に、スピードボートが遠ざかっていくエンジン音が聞こえてくる。
慌てて振り返ったダグラスが、美しいライトブルーの海に刻まれるボートの立てた白波を見やり、目を眇めた。


「ダグラス…!ありがとう!サンドラにもよろしく!」


ボートの奏でるエンジン音に半分掻き消されつつも、助手席から身を乗り出すようにして嬉々として手を振る北斗の姿と、礼の言葉が聞こえてきた。
けれどその姿が見えたのは、ほんの一瞬。
次の瞬間には、操縦席に居るアルに引っ張られたのだろう…その姿がダグラスの視界から消失した。


「…兄さんって、あんな人だったんですね…」


あっという間に地平線の彼方へと消え行くボートから、手の中にある愛らしいハリネズミへと視線を移したダグラスが唖然としながら呟きを落とす。

ダグラスの知るアルは、特Aランクの傭兵で狙った獲物は絶対に逃がさない蛇のような執念深さ、一目見ただけで凍りつくアイスブルーの瞳の色そのままに、冷徹な男…だった。
母であるサンドラからそのアルが、死んだ…とされている自分の兄だと知らされても、にわかには信じ難かった。
けれど、ブラック公爵家直系の血筋にのみ受け継がれる、独特な青さを秘めたその瞳の色。
突き刺さるような殺気と背筋を凍りつかせる眼差しの鋭さに、つい見過ごしがちだが、アイスブルーの色合いを湛えたラピスラズリの双眸は、確かに”天空の破片”の異名を持つ一族の血を受け継いでいることを物語っていた。

アルにとっては迷惑この上ない忌むべき瞳の色…だが、その瞳を持つが故に実の父であるファハド国王が一目で我が子だと認識したのだという。
以来、アルは父である国王のもと籠の鳥となる事を甘んじて受け、工作員さながらの仕事やハサン王子のボディーガード兼養育係まがいの事までやっていた…らしいのだが。


「それもこれも、全て北斗のため…とはね」


まさかとは思っていたが、それが真実なんだと、眼前で起こったすべての事がダグラスに知らしめる。


「…本気で手に入れたければ、それぐらいの覚悟がいるぞ…ってことか?ハリネズミ君?」


目の前までハリネズミの置物を掲げ挙げたダグラスが、至極真面目な顔つきで問いかけ、そんな自分に苦笑を洩らす。
と、同時にヘリに搭載している無線機から通信を傍受した事を知らせるランプが点滅し、ピーピー…という呼び出し音が響き渡った。

ハッと通信機を装着したダグラスの耳に聞こえてきたのは、サンドラの不機嫌極まりない声音だった。


「ダグ、今すぐあのバカを連れ戻してきて!」

「は…?あのバカ…って?」

「あの好き勝手に飛びまくる黒い渡り鳥よ!」

「…カイエン司令ですか…」

「違反行為に対する軍法会議があるって言ってるのに、日本で休暇中とかぬかして音信不通よ!?ありえないでしょ!?司令官のくせに…!」

「…相変わらず困った人ですね」

「とにかく!今すぐ連れ戻してきてちょうだい!」

「…了解」


そう返して通信機を切ったダグラスが、思わず寄ってしまった眉間のシワを解す様に指先で揉み解しながら、もう片方の手で再びハリネズミを掲げ挙げる。


「…これってやっぱ、司令の指揮を無視した俺に対する仕返しかなぁ?どう思う?ハリネズミ君?」


物言わぬキュートな表情のハリネズミの背後に広がる美しいブルーラグーンをちらりと見やり、意地悪く居所を突き止めさせないだろう最悪な相手との追いかけっこを憂(うれ)えたダグラスの口から、深い深い溜め息が吐き出されていた。










「っ痛!」


ダグラスに向かって手を振って礼を言っていただけなのに、いきなり運転席に居たアルに手を引っ張られた北斗が、スピードボートの助手席に勢いよく引き倒されて抗議の声を上げた。


「アル!礼ぐらい言ったって構わないだろ!?」

「礼だと?人の休暇を台無しにした奴らになぜ礼など言う必要がある?」

「ぅ…、そりゃ、まぁ…そうだけど…。って!そういえば俺の次の仕事…!」


そう、本来の休暇は、そっくりサンドラ達と過ごした時間で消化されてしまっている。
本当なら明日あたりから次の仕事のために香港へ行かねばならないはずだった。
香港系華人財閥の一つ、不動産デベロッパーでその名を馳せる陳(チャン)家のハンロン・グループが主催するイベントでの公演依頼…だ。


「…問題ない。華人財閥系のネットワークにちょっとした”事故”が起こったとかで、イベントは急遽延期になって依頼はキャンセル。その間の五日が新たな休暇だ」

「それはまた都合よく…」


言いかけた北斗が、ハッと思案気に眉根を寄せた。
華人財閥系…その言葉に、ふと、あの闇色の瞳と髪を持つ印象的な男…カイエンの顔がよぎったのだ。


…まさか、ね


そこに何かの形であの男が関わっていたとしても、それは北斗の感知するべきことではない。


「…どうした?」


訝しげに聞いてきたアルに、北斗が笑み返す。


「なんでもない。良い休暇になりそうだな…!」


目の前に広がる、どこまでも青く煌めくブルーラグーンを眩しげに見やった北斗が、何もかも忘れて楽しむぞ!とばかりに大きく腕を伸ばして胸いっぱいに潮の香りを吸い込んだ。








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