ACT 10
日を追うごとに俺の指はほぼ元通りに完治していき(まあ、少しだけ爪の変形は残ってしまったけれど、パッと見は普通の指と変わらなかった)それにあわせてチキュウも時々俺を連れ出してくれた。
映画に行ったり、有名なパン屋を見て廻ったり、ゲーセンへ行ったりと、そんな他愛の無い事だったけれど、俺にとっては初めてありのままにワガママだったり、本気で怒ったり笑ったりできる、本当の自分を素直に出せる大切な楽しい時間だった。
そんなある日、仕事も終わりかけ、さあ帰ろうか!としていた時、1階と2階の階段の付近で聞きなれない声が響いてきた。
「兄貴ー!ご無沙汰してまーす!!豊福です!嶋さんも元気にやってはりますーーー!?」
その声に、チキュウの顔が本当に嬉しそうな顔つきに変わって、
「豊福か!?」
と、叫んで声のする方へ駆け出して行った。
嶋さんも、
「豊かぁ!?」
と、同じく嬉しそうに走っていく。
俺はそのチキュウの嬉しそうな顔を見た時、ズキンッと胸に何かが突き刺さったような気がして・・・でもそれが何なのか、その時にはまだ分からなかった。
二人の後を追いかけて2階の階段の上の手すりにつかまって下を覗くと、1階の事務所の所にチキュウと嶋さんともう一人・・・俺と同い年かちょっと下くらいに見える男が楽しげに話していた。
「久しぶりやなー!一年振りくらいか!?」
珍しくチキュウの声が弾んでいる。
「そんくらいですわ。ここのオープンから一年ちょとで実家に呼び戻されましたから」
屈託のない笑顔を満面に浮かべたその男の顔は、人好きのする絵に描いたような好青年で。
「ちょっと見ぃへん間にたくましくなったなー!なーチキュウ?あの頃はお前の下でシバキ回されながらやっとたのに!」
嶋さんもニコニコとして、いつになく上機嫌だ。
「豊福の頭、シバキやすぅてええ感じやったからなぁ・・今でも変わってへんか!?」
チキュウが拳を振り上げて、おどけたように笑っている。
「いやぁもう勘弁してくださいよ兄貴!おかげであん時、帽子のサイズが変わってもうたん、もう忘れたんちゃいますやろね!?」
「そういえば・・・って!アホッ!!あれはお前が生意気に俺の鉄拳かわした時、壁に頭ぶつけたせいやないかっ!」
「なんや覚えてたんや。忘れてたら兄貴にどつかれたせいにしよう思てたのに!」
「忘れへんわっ!」
チキュウの声が本当に生き生きと弾んで楽しげだ。
聞いていて、ああ、これが関西人同士の気兼ねのない会話なんだと、何だか妙に納得して更に胸がズキン・・と痛んだ。
俺と話していて、あそこまで生き生きと会話を交わすことなど一度もなかった。
それはやっぱり、生まれ育った場所柄の違い・・とでもいうのだろうか?生まれ持って染み付いた感性という物はどうやってもよそ者には真似できない。
嶋さんはもともと話し上手で、持って生まれた感性も関西人のノリに近くて、口下手で気の利いた会話もロクに出来ない俺とは、やはり違う。
何だか3人の会話に入る事も出来なくて、俺はポツンと一人階段の上で手すりにもたれ、泣きたくなるような気持ちでその様子を見つめていた。
10分くらいたった頃、ようやくその豊福と呼ばれた好青年が俺の存在に気づいて、
「あ・・・っ!?どーも!まいどです!!」
と、本当に嫌味のかけらもない屈託のない笑顔を向けてきた。
「あ・・・ど、どーも・・・」
俺は突然向けられた笑顔に、どうしていいかわからず・・・強張った笑顔を張り付かせた。
「おう!山ちゃん!そんなとこに居ったんかいな!何しとん?早う降りてきぃ!!」
と、嶋さんがニコニコと笑う。
(居ったんかいな・・・は、きついなぁ、嶋さん・・・)
心の中でため息をつきつつ下へ降り、一応3人の輪の中に入る事は出来た。
「孝明!こいつ豊福いうて俺の中学・高校の後輩で、この店のオープンの立ち上げ一緒にやっとった奴やねん。実家がパン屋してて、途中で呼び戻されたんやけどな」
と、チキュウが弾んだ声で言うのがひどく遠く感じられて、再び胸がズキン・・と痛んだ。
「へぇ?兄貴が下の名前で呼ぶなんて珍しいっすね?」
豊福が意外そうに俺の方を見返している。
そう言われて、そういえば・・・と、ちょっとだけ胸の痛みが和らいだのに。
「ああ?だってこいつ、俺と同じ山田やからな。自分の名字呼ぶん、なんや変な感じやし」
と、笑って答えたチキュウの言葉に、何だかめちゃくちゃに落ち込んでしまった。
「ほな、同じ山田でも兄貴は兄貴やから・・・山田さんは山田さんって呼んでいいですよね?僕の事は豊福でも豊でも、どっちでも好きな方で呼んでください!」
と言って、
「よろしゅうっ!!」
と、ペコッと頭を下げられ、俺も慌てて
「こ、こちらこそ!」
と、頭を下げた。
全く嫌味のかけらもない、非の打ち所のない好青年・・・。
なのに・・・!
俺はなぜかそれを認めてしまうのが悔しくて、そんな自分がとても嫌で、たまらなくて!早くその場を逃げ出してしまいたかった。
それなのに!!
「もう、仕事終わりでしたら、今から野球見に行きませんか?外野のチケットまだ売ってましたよ!?」
と豊福が言い出して、結局4人で野球を見に行く事になってしまった。
その日は平日のナイターで、客もそこそこ入っていて、外野席はほぼ埋まっていた。
俺は野球場に入ったのは恥ずかしながら生まれて初めてで、こんな素直になれない嫌な自分を抱えていなければ、もっとワクワクして楽しめたろうに・・・と思いつつ観戦していた。
・・・が、そこはさすがに地元球場での地元球団。
いわゆるトラキチ応援軍団のにぎやかさと楽しさに・・・俺はいつしか夢中になっていた。
飲め飲め!と、嶋さんや周りの見ず知らずのハッピ姿のおじさん達にビールをどんどん勧められ・・・普段飲めないはずの俺も雰囲気で飲んでしまい、気がつけばメガホン片手に大声を張り上げていた。
そのおかげで俺は嫌な自分をかろうじて忘れて、楽しむ事が出来た。
チキュウも同じく、すぐ近くで豊福や嶋さんと楽しげに応援してはいたが、何だかその存在がひどく遠い物に感じられ話しかけることすら出来なかった。
その日、試合は快勝し、初観戦にして初めて六甲おろしを大合唱するという幸運にも恵まれて興奮の冷めやらぬままに球場を後にした俺たちは、電車で来たという豊福と駅で別れて、それぞれに家路についた。
久しぶりに酔っ払ってはいたものの、だんだんと酔いと興奮も冷めてきて家に近づくにつれ、再びあのズキン・・と来る胸の痛みに襲われてしまった。
いつもなら酒なんて買おうとは思わないのだが、どうしてもその痛みを消し去ってしまいたくて、ビールを買い込んで家に帰った。
シャワーだけ浴びて出てきた途端、玄関のドアホンが鳴った。
続いてドンドンとドアを叩く音と、
「孝明ー開けろー!」
という、少し酔っ払った風なチキュウの声が響いてきた。
「と、智久!?」
慌ててドアを開けると、酔っ払って少し赤い顔をした智久が、
「悪いっ!検問やってんの見えたから車で帰られへん。泊めてくれるか?」
と、気まり悪げに笑って言った。
「い・・いいけど、布団ないからその辺に雑魚寝だぞ?」
「全然かまへん。ほな、オジャマすんで?」
と、相変わらずまるで自分の部屋のように上がりこみ、まだ濡れて髪にタオルをかけたままの俺の頭を、ポンッと軽く叩いていく。
たったそれだけの事だったけれど、俺はなぜかひどくホッとしている自分に戸惑っていた。
そしてだんだんと、あの胸にズキンときた痛みの理由が分かってきた。
(これって、嫉妬・・・だよな)
今まで嫉妬するほど何かに執着した事などなかった俺は、その自分の感情をどう納めればいいのか、その術を持ち合わせていなかった。
「おーー!ビールやん!もらうでー!」
上機嫌でそう言うと、智久がテーブルの上に置いていた缶ビールを開けて飲み始めた。
「なんか、上機嫌だよな?智久・・・」
智久の機嫌の良さがどこから来ているか分かっているだけに、俺の声は自然とトーンが下がってしまう。
でも、上機嫌の智久はそんな事など気にも留めない。
「うん?そうやな、今日は野球も勝ったし久々に気ぃ合う奴と話できたし・・・まあ、機嫌はええ方や。ほれ、お前も飲め!孝明!」
「飲め・・・て。それ、俺のビールだってば!」
智久の横に腰を下ろした俺は、テーブルの上に組んだ腕の上に首をかしげる様に乗せ、智久がビールを飲む姿をジッと見上げていた。
普段あまり深酒しない智久にしては珍しく、煽るようにビールを飲み干している。
(・・・それだけ機嫌がいいってことだよなぁ。ほんとに豊福と会えて楽しかったんだ、俺なんかよりずっと・・・)
心の中でさざめきたっている波をどうする事も出来ないまま、見るともなしに見上げていた智久の顔が、いつの間にか鼻先が触れ合うほどに間近にあって。
驚いて上げようとした顔を智久の手で押さえ込まれてしまった。
「な・・・っ!?」
「いい匂いしてんな・・・風呂上がりかぁ。どうでもええけどお前、もうちょっと自分で自覚せえよ!さっきみたいな顔で見つめられたら、誘とんのかと思てまうやろ?」
「・・・へ!?一体何のこ・・・」
俺の髪に鼻を押し付けていた智久が、押さえ込んでいた手を俺の両ほほにあてがったかと思うと、グイッと顔を持ち上げて自分の顔に近づける。
「こーゆーことされても文句は言われへん、いうことや・・・」
顔を寄せた智久が何をしようとしているのか気づくのに時間がかかって、俺は今にも唇が触れそうになった瞬間、張り手を打った。
「ふ、ふざけんのもたいがいにしろっ!!目ぇ覚ませっ!!酔っ払いっ!!」
「・・・ってーー、惜しかったなーー・・・もうちょいやったのにー・・・・」
「何がもうちょいだっ!飲みすぎなんだよっ!!目ぇ覚めないんなら、もう一発!」
腕を振り上げた俺からフッ・・・と視線をそらした智久が、張り手を食らったほほをさすりながらノロノロと体を起こし、テーブルの上に額をゴンッとぶつけてつっぷした。
「もーえーって・・!目ぇ覚めたわ。すまん、酔っ払いの悪ふざけや・・・。久々に結構飲んでしもたからなぁ・・・」
俺は振り上げた手を下ろしながら、納まりきれずに溢れ出たさざ波をどうする事も出来ずに口にしていた。
「・・・俺ももっと早くにお前と会いたかったな。そしたらもっと・・・」
言ったところでどうなる物でもない事くらい、俺にだって分かっていた。
だけど俺もこの日は酔っていて、足元に寄せたさざ波に足をすくわれたのだ。
その上まさか、その波が大きな津波の引き金になるなんて、誰が予想できただろう?
「俺は会いとうないっっ!!」
酔っているとは思えないほど、はっきりとした口調で強く言い切った智久に、俺は一気に酔いの覚めるのを感じた。
「え・・・!?今、なんて?」
「もっと早うになんて、会わんでええっ!って言うたんやっ!!」
つっぷして、うつむいたまま言う智久に、俺はたまらず言い募っていた。
「何でだよ!?豊福は良くて俺はダメなのかよ!?俺なんて、早くに会ったって同じだとでも言いたいのかよっ!?」
「?なんなんや、それ?何でそこに豊福が出てくんねん?」
気だるそうに顔を上げた智久が、怪訝そうな表情を浮かべている。
「・・・今日の智久と豊福見てたらさ、俺なんかじゃ絶対入り込めない、絶対真似できない世界があって。だから、もっと早くに会ってたら・・・って」
「アホッ!!何でお前が真似せなあかんねん!?孝明は孝明やろ?俺かてお前の昔の友達の中に居ったら絶対入り込めへんわっ!関西人はアクが強いから拒否られるとどないしようもないからな!!」
言ってもラチのあかないことを言い合っていると頭の中では分かっていた。
だけど。
後から後から湧いてきて押し寄せる波に、ずっとずっと心の奥底で囲っていた言葉を押し出されてしまった。
「・・・でもさ、智久、俺といて楽しいか?なんか無理してないか?」
『・・・ッダンッッ!!』
と、智久がテーブルに拳を叩きつけ、俺はビクッと体を震わせて智久を見た。
その顔は上機嫌だった顔から一変して、この上なく不機嫌な顔になっていた。
「お前は・・・!俺がどういう人間かまだ分かっとらんのか!?俺は気に入らん奴と一緒に居ったりせえへんっ!!無理してまで人と付き合おうとは思ってへんわっ!!」
その言葉だけで、いつもなら充分なはずだった。
なのに!
その日の俺は、比べるべきではない物を智久につきつけてしまっていた。
「だけど!智久笑ってた!本当に嬉しそうな顔して豊福が来た時笑ってた!!俺にはあんな笑顔、見せてくれた事ない!!」
智久の顔がハッとしたように強張って、苦しげに歪んだ。
「それは・・・それは、しゃーないんやっ!あいつは・・・豊福は、数少ない俺の大事な親友やから。お前は・・・お前とは、違う!」
「・・・っ!?」
俺は思わず絶句した。
それは、お前は親友ではない。と、はっきり宣言されたのと同じ事で。
親友になれると・・・いや、自分の中ではもう、智久は一番大事な親友になっていた俺にとっては、絶望的な答えだった。
頭の中が真っ白になって、なぜか俺は逆に冷静になって、自分の中の微かな希望を求めて問いただしていた。
「それは、俺が智久にとって親友にはなれない存在だって事か?」
一瞬押し黙った智久の目元が、ピクッと動く。
それは、本当に俺を絶望の淵へと追いやった。
だってそれは、図星である時の智久の癖だったから。
長い沈黙の後、溜息と共に智久が言った。
「・・・そうや」
「この先どんなに頑張っても、俺は親友にはなれないのか?」
「・・・多分、無理や」
俺はまるで死刑宣告を受けた被告人になった気分だった。
「・・・じゃあ、俺は智久を親友だと思ってて、いいか?」
「・・・孝明は、俺を親友として扱いたいんやな?」
「うん。俺は・・・智久を一番大事な親友として見てる』
「そうか。それやったら、それでええ。俺は我慢するわ・・・」
最後の言葉は本当に密やかで、多分、口に出して言うつもりのなかった無意識の言葉だったのだと思う。
だけど俺の目と耳は、それをしっかりと認識してしまったのだ!
途端に俺の中で何かがブチッ!!と音をたてて、切れた。
「なんだよそれっ!?ガマンってなんだ!?やっぱりお前、無理して俺と付き合ってたんじゃないかっ!俺の弱音を聞いて同情したのかよっ!?そんなの要らないっ!こっちから願い下げだっ!!」
「アホッ!!ちゃうわ!!誤解すんな孝明!誰も同情なんてしてへんし、無理なんてしてへんっ!俺はただお前を・・・!」
「ただ・・・なんだよ!?」
怒りを込めて睨みつけた俺の目を、智久が何か言いたげな目つきで見つめて言った。
「ほんまにお前はオオボケ野郎やな!そんなんやから、俺は我慢する言うてんのに!」
「何だよそれっ!?それじゃ意味分かんないだろっ!!はっきり言えよっ!!」
智久の胸もとを掴んでいた俺の両手をいきなり智久が引き剥がしたかと思うと、俺の抵抗など物ともせずに、顔の前でギリッ!と悲鳴を上げたくなるほどの強さで握りしめてきた。
「お前!前に俺の手が好きや・・って言うたよな?大きゅうて守ってくれるみたいで好きやって、言うたよな!?言うとくけど、俺の手はそんな風に守ってばっかりの手ぇとちゃうんやぞ!?」
「い、痛いっ!離せよ!痛いってば!!」
容赦なく思いきり握りしめられたその力の強さに驚きつつも、そのあまりの痛さに俺は涙目になって、半ばヤケクソになって叫んでいた。
「痛いってっ!!何なんだよっ!?訳わかんないだろ、はっきり言えって!!」
「この、ボケッ!いややっ!!言わへんっっ!!」
「くそ・・・っ!!」
俺は使えない両手の代わりに足を使って蹴り倒そうとして、逆に智久に足をすくわれて仰向けに倒れこんだ。
その弾みでしたたかに頭を床にぶつけてクラッときた俺は、一瞬無抵抗になって、智久にのしかかられるようにして床の上に縫い止められてしまった。
両手両足とも押さえつけられてビクともせず、握りしめられたままの手の痛さと身動きできない悔しさに、俺は知らない間にポロポロと涙を流していた。
「離せっ!!痛いだろっ!!」
「いややっっ!!」
その強い口調にハッと智久の顔を見上げると、ゾッとするくらい冷たい、獲物を前にした肉食獣のような目をした智久の顔が間近にあった。
俺はその目に射すくめられて、一瞬、本気で智久が怖い!と、そう感じてしまった。
その怯えを見て取ったのだろう。
「・・・・怖いんか?」
智久の物とは思えない、低い絞り出したような声に、俺はビクッと体を震わせた。
「俺が怖いんかって聞いてんねんっ!!」
智久の容赦ない怒声が浴びせられ、俺は思わず目をギュッとつぶって叫んでいた。
「こ・・・怖くなんか、怖くなんかないっっ!!」
「せやったら泣くなっ!!もう俺の前で二度と泣くなっ!!」
「痛いんだよっ!痛いから・・・!?」
言いかけて、俺は自分のほほに生温かくて柔らかい物が押し当てられたのを感じて、ハッと目を開けた。
その目の前いっぱいに智久の顔があり、流れ落ちる涙を智久が自分の唇でぬぐっている。
「な、な、何してんだよ!?」
「うるさい!泣くな言うたやろ!嫌やったら、これ以上泣くなっ!!」
「そ、そういう問題じゃ・・・」
「うるさい言うたやろ!それ以上ゴチャゴチャ言うんやったら、その口塞ぐぞっ!!」
「うっ・・・!」
ほほを伝って目じりから目頭までぬぐわれて、俺はどうする事も出来ずに、ただギュッと固く目を閉じてそれに耐えていた。
あまりの恥かしさと悔しさに、頭に血がのぼり過ぎて、こめかみがズキズキと脈打っている。
(く、くそー!こいつ、俺がこういうの苦手だって知っててワザとやってる!なんでだよ!?なんで!?)
フッ・・・と、目元にあった温かい物が遠ざかり・・・恐る恐る目を開けると、智久が俺の肩の所に頭を置いて、うなだれた様にうつむいていた。
俺からは智久の表情も顔も全く見えなくて、ただ俺の手を握り締めている智久の手が、微かに震えていた。
「・・・ええな、二度と俺の前でも他の奴の前でも泣くな。俺のことも、もう二度と『ともひさ』って呼ぶな、分かったな!?」
「それ・・・て、もう仕事上の付き合いしかしないって事?」
「そうや!」
「なんで・・・?なんでだよっ!?ちゃんと理由言えよっ!!そんなんじゃ全然わかんな・・・」
「言わへんっっ!!」
ギリッと両手を掴む手に力がこもり、俺は痛さのあまり再び涙ぐみそうになり、声にならない悲鳴を上げて堪えた。
「絶対、絶対お前には、お前にだけは言わへんっ!!」
「だから、なんで!?」
「うるさいっ!!同じ事何べんも言わすなっアホッ!今日の俺は酔うとってまともやないねん!それ以上しつこうすると、責任もたれへんっ!!」
フッと顔を上げた智久の表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
立ち上がり際に俺の唇に触れていった智久の指は、まるで壊れやすい物に触れるように震えていて、容赦なく握り締めていた同じ指とは思えないほど優しかった。
そして、何かを吹っ切るように勢いよく体を反転させた智久は、振り返りもせずに部屋を出て行ってしまったのだ。
俺は愕然として、遠ざかっていく智久の足音をただ聞いているしかなかった。
(なん・・で?何で智久が泣きそうな顔してんだよ!?泣きたいのはこっちの方なのに!!)
ようやく自由になった体を引きずるようにして半身を起こし、壁にもたれかかった俺は、智久に握り締められていた両手を見つめた。
両方の手首辺りに、クッキリとうっ血した智久の指跡が残っている。
その指の跡と、智久の唇と指先が触れていった涙の跡と唇がジンジンと熱を帯びて、まるで飴と鞭のように感じられた。
はっきりと嫌われたのならあきらめもついたのに。何にも言ってくれず、その上こんなどうとったらいいのかまるで分からない行動をとられては、津波にさらわれ、どうする事も出来ない状態そのものだ。
「・・・痛いじゃないか。何なんだよ・・・智久。手も、心も、痛いじゃないか。俺が何したっていうんだよ?何で・・・何も言ってくれない・・・?」
堪えきれずに涙があふれてきた。
悔しくて、悲しくて。どうしてこんな事になってしまったのか分からなくて。
ただ・・・床の上にポタポタと流れ落ちる涙を見つめていた。
(・・・前にもあったな、似たような事・・・)
フッ・・・と、こちらへ来る前の晩の事を思い出して、俺は唇を噛み締めた。
(絶対、泣かない!今日で最後だ!!泣くもんかっ!!)
二度目の決意だった。
トップ
モドル
ススム