ACT 9

 

翌日から指の痛みも随分ましになり、一週間後には抜糸もできる程に怪我は回復してきていた。

「良かったね。爪、生えてきてるよ。もう少ししたら通わなくても自分で消毒するだけでいいからね」

と、先生にこの上なく嬉しい言葉まで頂戴して、俺はその日の午後もの凄く機嫌が良かった。

その上その日は早く仕事が終われそうで、病院から帰るとチキュウが、

「今日は早う終われそうやから、この辺案内がてら飯でも食いに行くか?」

と言ってくれ、それも楽しみでテキパキと仕事を片付けていた。

俺のその様子に、

「おーーー?なんや?えらいはりきっとるなぁ?なんかあるんか?」

と、相変わらず察しのいい嶋さんが声をかけてきた。

「チキュウが早く終わったらこの辺案内してくれるって。俺、こっちきてからここと家の間の往復しかしてなくて、全然どこに何があるのか知らないから」

「あーー!えーなぁ!俺も連れってて〜な!なー?チキュウ?ええやろー?」

ミキサーボールの掃除をしていたチキュウに向かって嶋さんが言った。

「嶋さん?今更この辺廻って何が楽しいんです?ただ、この辺グルッと廻るだけやないですか!」

振り返って答えたチキュウがあきれた様な口調で言い返している。

「チキュウが運転で、俺がガイド役や!ちょうどええやろ?な、山ちゃん!」

「嶋さんのガイドって、なんかおもしろそー!3人で行こうよ、チキュウ!」

俺は素直にそう思って(実際、嶋さんは相手のツボをよく心得た笑える話がもの凄く上手くて、いつも嶋さんの周りには笑いが絶えなかった)チキュウに問いかけた。

すると。

チキュウは俺に向かって一瞬、睨みつけるような鋭い一瞥を送り、

「・・・いいですよ」

と、嶋さんに向かって言うと、再び黙々と掃除を始めた。

「おーし!それじゃあ、とっとと片付けるか!!」

陽気に笑った嶋さんに笑顔を返しながら、俺はそのチキュウの視線がなんだったのか分からず困惑していた。

とりあえず仕事を早く終わらそうとリバースを掃除し、床掃除を始めた。

集めたゴミを屈みこんで取っていると、横を通りかかったチキュウが、

「どーせ俺のガイドじゃつまらへんわな・・・!」

と、俺にしか聞こえないほどの声で不満そうに呟いたのだ!

「え!?」

顔を上げたときには、もう既にチキュウは嶋さんと今から行くコースに着いて相談していて・・・しかも、今その言葉を呟いたとは思えない楽しげな口調で話している。

(い、今の聞き間違いじゃないよな?うわっ!どーしよう!そういうつもりじゃなかったのに・・・!)

今の今まで上機嫌だった気持ちがすっかり萎えて、俺はすっかり落ち込んでしまった。

そうこうしている内に仕事も片付き、4時頃には3人で車に乗り込み、あっちこっちと嶋さんの冗舌なガイド振りに3人で笑い転げながら楽しく市内を一巡し、俺の落ち込んだ気分もすっかり上向いて、機嫌よくなっていた。

チキュウもあの呟きは聞き間違いだったのか?と思うほど機嫌よく運転し、俺にも普通に話しかけてくれていた。

途中の蕎麦屋で3人で一緒にご飯を食べて、嶋さんを家の近くまで送って行った後、車の中で2人になった途端チキュウの表情が一変して、ムッとした不機嫌な顔つきに変わってしまった。

その何ともいえない気まずい雰囲気に、俺はハッとチキュウのあの不満そうな呟きを思い出し、慌てて言った。

「あ・・・あのさ、チキュウ?俺、別にチキュウのガイドがつまんないなんて思ったわけじゃないから!ただ嶋さん話すの上手だし、チキュウだって俺と2人だけより楽しいかな?って・・・」

必死に言い訳する俺を全く無視するように、チキュウは不機嫌な顔つきのままジッと前を見つめて運転している。

「・・・チ・・キュウ?あの、聞いてる?」

居たたまれなくなって恐る恐る聞き返すと、チキュウが突然車を側道の端に急停車させ、窓枠に肘をついてプイッとばかりに横を向いてしまった。

「チキュウ・・・?」

問いかけて、しばらくの気まずい時間の後。

「・・・チキュウやない」

と、ボソッ・・と、チキュウが不機嫌そうに呟いた。

「・・・え!?」

「チキュウやないって言うたやろ!?もう忘れたんか?お前は!!」

「えっ!?・・・あ、そっか!ご、ごめん。でも、なんで?チキュウって呼ばれんの嫌なのか?」

相変わらず横を向いたままのチキュウの後頭部に向かって聞いた。

「別に。いややない。ただ、チキュウって呼ぶんは仕事上で付き合う奴だけやから。俺は仕事とプライベートはきっちり分ける男なんや。まあ・・・お前が俺の事ただの仕事の延長でつき合うとると思っとんのやったら別に・・・」

「そ、それって、ただの仕事の上だけの付き合いじゃなくって、ちゃんとチキュウの友達として俺の事見てくれてるってことか!?」

「何を今更寝ぼけた事言うとんねん、お前は?ただの仕事仲間にドアホン10分以上鳴らしたり、30分以上電話鳴らしたりせえへんぞ、普通」

あきれたようにそう言って、ようやくチキュウが俺の方に顔を向けてくれた。

俺は嬉しさのあまり目が潤むのを感じながら、満面の笑顔でその顔を見つめた。

「・・・なに目ぇ潤ませとんねん?」

チキュウがちょっとビックリしたように言った。

「あ・・・、ごめんっ!嬉しくて!俺、もともと涙もろくてすぐ泣くから、だから、こっち来る時に絶対泣かないって決めて・・・」

言い終わる前に、チキュウが遮るように言った。

「ほな、俺以外の奴の前で泣くな!そういう潤んだ目ぇもすんな!分かったか!?」

「?う、うん。それって、仕事とプライベートは分けろって事か?」

俺は慌てて潤んだ目をぬぐい去った。

「そういう事!せやから仕事中や他の仕事仲間が居る時は、そういう目ぇしたり智久って呼ぶな。分かったか?」

それを聞いて、俺はようやく気がついた。

「あ・・・ひょっとして嶋さんが一緒なのは仕事の延長上になるから嫌だったのか?だから?」

「それもある。けど、それだけやのうて・・・」

チキュウがフッと、普段見せないような笑顔を浮かべて、俺の顔を覗き込む。

「・・・な、なに?」

その笑顔に俺は再びドキンッと自分の心拍数が跳ね上がるのを感じて、うろたえた。

(な、なんでまたドキドキするんだよっ!おかしいって!絶対!!)

そんな俺の反応には全く気づいていないかのように、チキュウが言葉を続けた。

「お前今日、医者になんやええ事いわれたんちゃうんか?病院から帰ってからごっつい機嫌良かったからなぁ・・・」

その言葉に、さっきうろたえた事も胸のドキドキも吹き飛んで、俺は勢い込んで言った。

「そ、そう!爪っ!!生えてきてるって!!もう少ししたら病院通いもしなくていいって!!」

「やっぱり!良かったな。それも聞こう思て誘とんのに、嶋さんが一緒やと聞かれへんやろーが!お前、爪の事俺以外に言うてへんし。もしそうやったらお祝いもかねて飯おごったろーと思とったのに!ほんまにオオボケかますな、孝明?俺がおごるなんて滅多にあらへんで?」

そう言って、悪戯っ子のような目つきで笑うチキュウは、本当に男の俺から見ても絵になっていて、羨ましいくらいカッコイイ。

俺は一瞬見とれかけてハッと我に返って言った。

「そうだったのか?ごめんっ!全然そんなこと考えもしなかった!」

「せやからお前は天然もんのオオボケ野朗やって言ってんねん!それくらい気づけ!!アホッ!!」

チキュウの口の悪さもこの時ばかりは全く気にならず、むしろどうしてその事に気づかなかったのか?と、本当に自分の鈍感さを恨めしく思ったほどだった。

「でも本当に智久の言うとおりになったな、やっぱりお前は凄い奴・・・」

俺は、初めてちゃんとチキュウの事を智久と呼んで、何だか嬉しい反面気恥ずかしさを感じつつ、感慨深げに自分の右手を掲げて見つめた。

その手をいきなりグイッと掴んだ智久が、俺の体を自分の方に引き寄せた。

「うわっっ!?」

反動で俺は助手席から運転席のほうへ身を乗り出す格好になり、その上左手も智久に掴まれて、無理な姿勢のまま智久の顔を間近に見上げる状態に縫い止められた。

「・・・けど惜しい事したなぁ。この手、もらいそこねてしもた・・・」

そう言った智久が、間近にある俺の顔のまん前で、しかも今度は包帯の巻かれていない部分の手の甲に自分の唇を押し当てて、キス!したのだ!

「チ・・チ、チキュウッ!?」

思わず俺はいつも言い馴れてるほうの名前で叫んでしまっていた。

「あーーーっ!間違いおった!ほな、こっちは言い間違えた罰や!」

と言って、左手の甲にもキス!したのだ!

「な・・な、何すんだよっっ!!」

俺は真っ赤になって、必死に掴まれた両手を引き抜こうとしたのだけれど、無理な姿勢になっているせいで全然力が入らなかった。

その俺の慌てぶりを、智久が余裕の笑みを浮かべて笑いながら見つめている!

(こ、こいつ!またからかってる!せ、性格悪すぎっっ!!)

「ちっとは反省したか?今度こんなオオボケかましたら、これくらいじゃすまさへんぞ!?よう覚えとけ!」

「わ、分かった!分かったよ!!ごめんって!!ほんとーにごめんなさいっ!!だから!手、離してっ!!」

俺はまともに智久の顔を見ることも出来なくて、うつむいて叫んでいた。

パッと両手を離した智久が、クックッ・・・と、車のハンドルにもたれかかって肩を震わせて笑っている。

「お前って、ほんっとに性格悪いぞっ!!智久っ!!」

俺は悔しさと恥かしさのあまり涙目になって、智久を睨みつけた。

「クックックッ・・・た、孝明、その反応素直すぎ!お・・前、本当に可愛い奴・・・!」

「お、男に向かって可愛いとか言うなっ!やっぱ、第一印象でやな奴だと思ったの、間違ってなかったっ!!」

俺は本気で気分を損ねて怒りまくった。

「そりゃお互い様やで!俺かて最初見た時、こいつとだけは絶対合わへんって、思とったからな!・・・せやのに不思議なもんやな?なんで、今こうしてここに居んねやろ?」

ふと笑うのをやめて真顔になった智久が、俺をジッと見つめている。

その目に見つめられていると、何だか自分の嫌な所を全部見透かされているようで・・・慌てて視線をそらして言った。

「ジ、ジロジロ見んなっ!ただでさえお前のせいで、顔から火が出るほど恥かしかったんだからなっ!!」

「はーーーーん、さてはお前女出来ても、モーションかけられるまで何も出来へんタイプやろ?」

「なっ・・・!!」

なんで知ってる!?という言葉を飲み込んで、俺は真っ赤になって口ごもってしまった。

「お、お前って、ほんま素直な奴・・・!!」

智久が再び突っ伏して肩を震わせて笑いを堪えている。

「いちいち笑うなっ!苦手なんだよっ!そういうの!!どーせお前はさっきみたいに面白半分に女落としてきたんだろ!?」

不意に、ピタッと智久が笑うのをやめ、どこか遠くを見るような目つきで言った。

「女には、ええ思いであらへん。それにな、皆一様に見た目と中身が違いすぎる言うてきよる。めんどくさいと思わへんか・・・?」

「あのなぁ・・・それって、もてない男のヒガミを一心に受けそうな言動だぞ?」

「アホ。そういう意味やない!本気で俺を知ろうとする奴が居らへんかった!いう、可哀想な男の話やないか!少しは同情せーよ!」

何だかいつでも自信たっぷりの智久の口から出た言葉とは思えなくて・・・つい、笑ってしまっていた。

「・・・なに笑とんねん!?」

ムッとした表情になった智久に、俺は慌てて笑いを押し殺した。

「クックッ・・ごめん。でも、智久だってさっき笑っただろ?お相子だよ!俺はどっちかって言うとその相手の女の子達に同情するなぁ・・・。智久って、ほんとに公私を使い分けるって言うか天邪鬼なとこあるから、それを知ろうと思ったら本当に大変そうだからさ」

「ほーーーお?お前がそれを言うか?孝明?」

「あ・・・っ!」

すっかり自分の本音を知られていた事を思い出し、俺は再び赤面してしまった。

「ま、孝明の場合第一印象が最悪やから、これ以上悪うなる事はあらへんもんな。安心して悪態がつけるから楽でえーわ!」

「それはお互い様だっ!」

顔を見合わせて笑いながら、本当に智久には自分を偽らなくていいのだと、そう思うととても嬉しくて。

智久もそう思ってくれているだと思って、とても誇らしかった。

でも、この時点で既に俺は智久に甘えていて、智久が言った”本気で俺を知ろうとする奴が居らへんかった”という中に、自分も含まれているのだという事に、俺は気づいていなかったのだ。

 

 

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