ACT 11
そのまま朝を迎え、結局俺は一睡もできなかった。
両手に残った智久の指跡はまだクッキリと残っていて、少し熱を帯びていた。
仕方なくシップを貼ってサポーターを巻き、何とか指跡を隠して家を出た。
店の前には嶋さんがもう来ていて、
「おはよーさん!」
と、いつものように陽気に声をかけてきた。
「おはよーございます!」
と、いつものように笑顔で応えた俺の両手のサポーターを目にした嶋さんが、目を丸くして
「どうした!?」
と聞いてくる。
「あーー・・・これですか?昨日メガホン叩きすぎちゃったみたいで、朝起きたら筋肉痛みたいになってて。やっぱ地元の応援の迫力は違いますね!」
俺は笑顔の仮面を貼り付けたまま、なんなく言い訳することが出来た。
「そーかー・・・山ちゃん、球場も応援も初めてや言うてたもんなー。ま、それも一つの思い出や、な?」
いたわるように言ってくれる嶋さんに、チクリと胸が痛みつつも俺は笑顔で頷き返した。
その俺の後ろから、
「おはよーさん・・・」
と、聞きなれた声がかけられ、俺はゆっくりと振り向いてチキュウと目を合わせた。
「・・・おはよう」
上手く笑えていたかどうか自信はなかったが、それでも、どうにか笑う事が出来た。
チキュウは、フッと一瞬俺の両手のサポーターに視線を投げて、何事も無かったかのように嶋さんと挨拶を交わした。
その目は本当に、一番最初に会った時と同じくらい無関心で冷たい目をしていて、俺はその日、チキュウの仕事上での付き合いと、そうでない付き合いの差・・・というものを、はっきりと身にしみて知る事になった。
結局チキュウは昨夜、あれから車の中で過ごしたらしく、嶋さんと体が痛いだの眠たいだのと、いつものように喋っていた。
俺のその会話に加わって、昨日の試合内容の事だとか他愛無い話を嶋さんを間に挟んでチキュウとも話をする事が出来た。
もし、今日が嶋さんの休みの日だったら?と思うとゾッとして、本当に嶋さんに感謝した。
7時頃に店長が出勤し、チキュウがその店長を呼び止めて何事か話した後、俺のところへ来ると、
「孝明!お前今日から仕込みやれ!」
と、唐突に言い渡した。
「し・・仕込み!?俺が!?」
本当に驚いて目を剥いた俺のことなどまるで無視して、チキュウが義務的に言い放つ。
「今、店長から許可もろたから一週間はサポートしたる。その後はお前一人やから、ちゃんとやれよ!」
「い、一週間!?たったそれだけで!?」
「アホッ!普通は3日くらいなもんやで?特別待遇や!ありがたく思えっ!」
「げっ・・・!」
そんな会話の最中もチキュウは何か仕事をしながら話しかけていて、俺と滅多に目を合わせない。
今までだってそうだったと言えばそうなのだが、それはむしろ俺のほうが意識していなかっただけの事で、振り向いたら必ずチキュウの目があったことに、今更ながら気がついた。
それがいつの間にか当たり前になっていて、俺は自覚もなくチキュウに甘えていたんじゃないかと、もうしたって遅い後悔を少しずつ感じ始めていた。
その上、一週間で仕込みを覚えろなんて!
はっきりいって、それは俺の能力の限界をはるかに越えているとしか思えない。
前から嶋さんも、『ここの仕込みだけはチキュウやないと無理やで・・・』と、チキュウが休みの日に仕込みになると必ず愚痴をこぼしていたし、店長も、『ここの店はモデル店だから、仕込みだけはきっちり出来る奴でないと任せられない』と、いつも言っていたのだから!
「・・・絶対、無理だって!」
と呟いてみたものの、店長の許可が下りチキュウの命令が下った以上それはやらねばならず、ましてや今のチキュウに俺が何か言えるはずもない。
俺は必死になってメモを取り、仕込みの仕事を始めたのだ。
チキュウの入社当時そのままの(と、いうより、それ以上の)怒声に罵倒されながら。
とはいえ、チキュウは仕事となると誰よりも厳しくて、そしてキチンと教えてくれる。
けれど、仕事上の付き合い・・・である俺には、本当に仕事に関する事でしか話しかけてこず。
最低限必要な日常会話は交わしてくれるものの、嶋さんや店長抜きでは、他愛のない会話など望むべくもなかった。
改めて俺は、今までの俺に対するチキュウの態度が友達としてのものだったのだと、今更ながらに実感せざる得なかった。
だから、余計に突然断ち切られたその理由が知りたくて、俺のチキュウに対する思慕と不信感は日々つのっていった。
仕込み3日目になっても、まだチキュウの残した指跡は消えず、相変わらず俺はサポーターでごまかしていた。
その日はカスタードクリームを作る日になっていて、俺は大量の卵を一個ずつ小さな容器に割っては巨大な銅鍋に移し替えていた。
チキュウいわく、業者納品の卵は時として質の悪い物が混ざっている事があって、一個ずつ腐っていないか確かめてから入れないと、入れてしまってからでは他の卵ごと全部捨ててしまわないといけなくなる!ということだった。
面倒くさくて大変な仕事なのだが、チキュウは絶対この手の手抜きをしなかった。
まあ、こういう仕事に対する姿勢がチキュウの仕込むパン生地が他の誰よりも美味しくて、評価も高い所以なのだけれど。
その後を引き継ぐ俺には高すぎるハードルと言う他ない。
全部の卵を割り入れて弱火でジックリと、しかし底が焦げ付かないように、手は絶対に休めずに動かし続けなければならず、仕込みの中でも一番の重労働といえた。
チキュウは時々俺の手の動かし方にアドバイスを入れながらジッと後ろに立って、その作業を監視していた。
「・・・よしっ!それでオッケーや。火消して冷ましてから、タッパーへ移し替えたら今日の仕事は全て終了やな」
「うえ〜〜・・・・手が棒になった・・・!」
ただでさえ指跡の残った所がまだ押すと痛んで、時々そこへかき回しているホイッパーの先が当たってしまい、思わず、
「・・・痛っ!」
という小さな声を上げてしまって、チキュウに聞こえやしないかとヒヤヒヤしながらやっていたので、精神的にも疲れきっていた。
けれどこの作業を2日に一回はチキュウがやっていたのを思い出し、俺は手首に残された指跡の強さを、改めて納得していた。
これだけ腕に負担のかかる作業をすれば当然握力もつくし、あのチキュウの両腕のキレイに張った筋肉にも頷ける。
だいたい、仕込みの作業全般が重いものを移動させたり持ち上げたり、筋トレ並の重労働なのだから。
作業台の上でカスタードが冷めるのを待ちながら、疲労しきった両腕を伸ばしてつっぷしていた俺のその腕を、誰かがいきなり掴んでサポーターを捲り上げた。
驚いて顔を上げるとチキュウが新しいシップを持ってきて、貼り替えようとしていた!
「じ、自分でするよっ!!」
その手首の跡を見られたのが悔しくて、俺はカッと顔が熱くなるのを感じながら、チキュウの手を撥ね退けて背中を向けた。
「・・・悪かったな」
ボソッ・・・と呟いたチキュウの答えが、その指跡に対するものなのか、シップを貼り替えようとした事なのか、俺はどちらともとることは出来なかった。
「・・・カスタード炊くと腕がだれるからな、よう休めとけ」
そう言って横をすり抜けた時。
俺の頭をポンッと軽くなでていったのが嬉しくて、思わず泣きそうになってしまった。
そんな自分が情けなくて悔しくて、それでも一緒に仕事をしている時だけが、唯一チキュウの側に居られる時間だったから、だから俺は必死に仕事に打ち込んでいた。
なぜならそれ以外、その時の俺には出来る事がなかったのだから。
期限の一週間がたち、俺はチキュウに言われたことを余す事無く書き込んだメモとにらめっこしながらも、何とか仕込みの仕事をそつなくこなせる様になっていた。
そんな俺に嶋さんが、
「えらいもんやな山ちゃん!ほんまに一週間で物にしよった。ほとんど失敗もしてへんし、これやったら安心してあっちへ移れるな?チキュウ!?」
と言って、最後にチキュウに向かって笑いかけた。
「・・・えっ!?」
俺は驚いてチキュウを振返ったが、チキュウはそんな俺とは視線を合わせようともしないで、嶋さんに向かってこう言った。
「ちゃんと見張っといてくださいよ!こいつ目ぇ離すとすぐ手抜きしようとしよるから!」
「し、しないよっ!!それより、それ、どういう事なんですか!?嶋さんっ!!」
「あれ?山ちゃん知らへんかったんか?チキュウは新しく出来た工場の立ち上げに移動すんねん」
「えっ!?い、いつから!?」
「仕事の引継ぎが終わり次第言うてたから、明日くらいか?チキュウ?」
俺と嶋さんの会話をまるで他人事のように聞き流し、仕事の手を休める事もなくチキュウがちらっと嶋さんに視線を投げた。
「明日は俺休みやから、明後日からちゃいますか?」
「あーー・・・そしたら今日でこの店は終わりか、ほな!終わったら飯でも行くか?」
嶋さんが『どーや?』という、同意を求めて俺のほうを見返す。
俺は思い切り頷き返したのだが。
「悪いんですけど・・・俺、今日ラストやし。その辺の自分のもん片付けておきたいから遅うなりそうなんで、またにして下さい」
と、チキュウが切り捨ててしまった。
俺は突然の出来事にショックを隠しきれなかった。
チキュウと話せるのは仕事をしている間だけなのだ!
なのに一緒に仕事が出来なくなったら・・・?
そんなことになったら、滅多に顔を見ることすら出来なくなる!
それでなくてもここ1〜2日、チキュウは必要最低限の日常会話的コミュニケーションすら、俺に対して拒否の姿勢を見せ始めていたのだから!
「なんや?山ちゃん顔色悪いで?大丈夫か?」
その俺の様子を察した嶋さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「えっ!?あ・・・いや、今初めて聞いたからちょっとビックリして・・・」
「なんやチキュウ?お前話してなかったんかいな?」
嶋さんが意外そうな表情で俺とチキュウを見比べている。
チキュウは、チラッ・・と俺の方に意味ありげな視線を送り、
「・・・話そう思てたら、なんやいろいろあって忘れてたんですわ」
と、言った!
俺はハッと、あの夜・・・チキュウが俺の家に来たのは、ひょっとしてその話をするためだったのか!と気がついて、自分を呪った。
皆の居る所ではなく、わざわざ一対一で話をしに来てくれたのに・・・自分のつまらない嫉妬心からチキュウに愛想をつかされてしまったのだ!
(・・・さいてーだな、俺・・・)
心の中で呟いて唇を噛み締めた。
その日は店長が休みの日でチキュウが遅番だったので、先に昼休みをとった俺と嶋さんは、いつもの定食屋に食べに出た。
俺はあまり食欲もなくて、頼んだ親子丼を細々とつついていた。
「・・・おまんら、なんかあったんか?」
嶋さんがカツ丼を豪快にほお張りながら聞いてきた。
「え?あーー・・・ちょっとチキュウに愛想尽かされちゃったみたいで・・・」
口ごもりながら言う俺に、嶋さんがカタンッと箸を置いて真面目な顔つきになった。
「そのサポーター、チキュウにやられたんやろ?」
「えっ!?」
俺は思わず目を見開いて絶句した。
確かに、最初の日には嘘をついてごまかしたが、仕込みを始めたせいで本当に筋肉痛と腕の張りが出始め、嶋さんはどこのメーカーのシップ薬が良いとかアドバイスまでくれていたのに!
「な、なに言ってんですか嶋さん!これは・・・!」
「アホやな。そんくらい見とったら分かるわ。それ巻いて来た日の朝、チキュウの奴それ見たくせに何も言わんかったし。時々、心配そうな顔して山ちゃん見とったしな。まあ、ケンカしたんなら今日中に仲直りしときや。今度チキュウが行くとこ結構遠いし、滅多に会われへんなんで?」
「で、出来るもんなら、とっくにやってますよ!でもなんでそうなったのか、訳分かんなくて・・・」
うなだれてしまった俺を見て、嶋さんが『うーーん・・・』と、考える人のポーズをとって言った。
「なあ・・・山ちゃん?チキュウってもともと、とっつきにくうて人に気い許さへん奴やろ?そういう奴の事知ろう思たら、必死で食らいついていって、無理やりにでもその心の扉・・・ちゅう奴か?それをこじ開けなあかんちゃうか?ほんまにチキュウと友達になりたいんやったら、受け身やったら進まへんで?自分から努力せなな!」
嶋さんが言った事は前に俺が自分で言った事と似たような意味で、俺自身そう思っていたはずのことだった。
思っていたくせに。
それを、その努力を俺はしていなかったと、今更ながらに痛感させられていた。
「けど!チキュウに俺とは一生親友にはなれないって、そうはっきり言われたし・・・」
「そこであきらめたらアカンッ!言うてんねん!それにな、チキュウが山ちゃんにそういう風に言うたんは、多分もっとちゃう意味で言うたんやと俺は思うで?」
「・・・へ?どういうことですか?」
「うーーーーーん。こればっかりは山ちゃんが自分で考えなアカン思うわ。でもな、これだけは言うとくわ、チキュウは山ちゃんが嫌いになったわけやない。ただ、怖がっとるだけや」
「怖がる!?チキュウが!?何を!?何で!?」
ハァーーーーーーッと、嶋さんが大きくため息をついた。
「山ちゃん!もうちょっと相手のことも考えたりや!自分のことばっかり考えとったらアカンで?今度の移動の事にしたって、ほんまは誰でもよかってん。それをチキュウが自分から行く言い出したんやで?その辺、よう考えてみいや?」
俺はますます訳が分からなくなった。
嫌われたのなら、それはそれで納得がいく。
だけど、『嫌いになったわけやない』と断言されては、どういう風に考えれば良いのかと、途方に暮れてしまった。
「自分から?なんで・・・?」
すがるように問い返した俺に、嶋さんがあきれたように俺を見つめた。
「なんで・・・どうして・・・って、人に聞いてばっかでどないすんねんな?チキュウが何でそうしたんか知りたいんやったら、それを知るためにはどうしたらええか、自分で考えや!!」
「・・・う、はい・・・」
嶋さんの言葉は、一つ一つグサグサと俺の心に突き刺さってきた。
よく考えてみたら、俺は今まで何一つチキュウの事を知ろうとしていなかった。
自分の事ばかり押し付けて、チキュウがそれを受け入れてくれるのを当たり前のように思ってなかっただろうか?
それを。
”なぜだ?”
と、なぜ問いかけなかった?
いや、それだけじゃなく、チキュウ自身に関することを俺は何一つ問いかけてもいない!
チキュウが何を考えて、いきなり俺を仕事上の付き合いに戻してしまったのか?
どうしても俺は知る必要があるのだ!
そして、どうして自分から店を出て行こうとしているのかも!
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