ACT 13
チキュウが自分で言っていた通り、翌々日から新工場の方へ正式に移動になっていた。
あちこちに置いてあったチキュウの私物が跡形もなく片付けられ、キレイに隅々まで掃除されていた。
そのいつもと全然違う仕事場が、『もう二度と俺の前に現れんな!』と言ったチキュウの言葉をはっきりと裏づけしているようで、俺はいたたまれなかった。
あの最後の夜から、俺はいつも以上に笑顔の仮面を貼り付けて仕事をこなしてはいたけれど、家に帰った途端、張り詰めていた糸が一気に緩むようにクタクタに疲れきって、ベッドの上に倒れこんでしまっていた。
もう見なくても覚えてしまったはずの仕込み用のメモを、俺は毎日欠かさず見ながらやっていた。
そこに書きこんだ内容の一つ一つがチキュウの言った言葉であり、浴びせられた罵声であり・・・それを見ることでチキュウと一緒に仕事をしている・・と、そう自分に言い聞かせて、あの夜の事を忘れようと努力していた。
だけど。
それはやはり無駄な努力で。
ようやく消えた指跡の痣や、キスマークの痕、強烈に刻まれた貪るようなキスの感触・・・どれ一つ取っても消し去る事など不可能だと、思い知らされるだけだった。
そしてその度に、あの時感じた言い知れぬ恐ろしさと絶望感を思い出し、体に震えが走った。
「いつまでもつかな?こんなんで・・・。一人前の職人になんて、なれんのかな?」
思わず漏れた本音に、俺は苦笑を浮かべた。
初めて親に、周りの物全てに逆らってここへ来たというのに、一年も経たないうちにこんな弱音を吐いている自分が情けなかった。
もう戻る所も何もなくて。
前に向かって行くしかないというのに、その前に目標として掲げていたチキュウが、追いたくても追えない存在になってしまって・・・実の所、もう半分どうでもいいじゃないかと、やけになりかけていた。
そんな時。
見ることすらなくなっていた携帯の呼び出し音が、鳴ったのだ!
俺は思わず、
「チキュウ!?」
と、叫んで電話に飛びついた。
そして、そこに表示された名前と電話番号に、わが目を疑った。
それは、田舎の・・実家の物だったから。
恐る恐る意を決して電話に出ると、
「・・・孝・・・明?」
と、心細げな、聞き間違うはずもない母親の声が聞こえてきた。
「・・・うん、そう・・だけど・・」
ようやくその一言を絞り出して、答える事ができた。
お互いに長い沈黙の後、
「・・・帰っておいで。お父さんも帰ってきたら許してやるって・・・」
俺はたまらず電話を切って、床に向かって投げ捨てていた。
一番聞きたくない、今の自分にとって絶望的に甘い誘惑の言葉だった!
「・・・チ・・キュウ!何で・・お前、居ないんだよ!お前にしか相談できないだろ!バカヤロウ!!」
電話が鳴った時、無意識にチキュウの名前を呼んでしまったのが、自分の本音なのだと思い知らされた。
本当は、チキュウの声が聞きたくて、チキュウにこんな悩みを『アホやな、お前!』と、一言で切って捨ててもらいたくて・・・!
本当は、会いたくて、会いたくて、仕方がないのだと・・・!
だけど。
そう思えば思うほど、あの時のチキュウの真剣な眼差しと何の抵抗も出来なかった言い知れぬ恐怖が思い出されて、俺は自分でもどうしたらいいのか分からなくなっていた。
そうして無情にも月日は流れ、チキュウが居なくなってから3ヶ月が経とうとしていた。
季節はすっかり冬へと変わり、俺の心の中も虚しく冷たい北風が吹き荒れていた。
あれから一日だってチキュウのことを思わない日はなかった。
ただ思い出すのは、一緒にあちこち連れ出してくれていた頃の楽しかった事ばかりで。
俺の心は立ち止まったまま、どこにも行けずに立ちすくんでいた。
仕事の方も、どこか冷めてしまったパンへの思いと、ただ作業に追われるばかりの現実に、俺の中で逃げ出してしまいたい・・!という思いが日々大きくなりつつあった。
一度だけかかってきた母親の声が、その甘い誘惑が、消える事無く俺の心の中で渦巻いていた。
そんなある日の朝。
いつものように嶋さんと並んで作業していると、
「・・・なあ、やまちゃん。パンっておもろいと思わへんか?」
と、話しかけてきた。
「・・・え!?なんですか?急に?」
「俺な、一番最初にパン作ってるの見た時、こんなにちっこい物があんなにおっきく膨れて、焼けるとええ色になって美味そうな匂いになんねやろ?て、不思議でしゃあなかった。ほんで、焼き立て食べさせてもろたらメチャメチャ美味い!こんなん作れんのは天才や!!って、本気でそう思ったの覚えてる。おまんはどうやった?」
「一緒です!イースト菌入ってるから膨れるの当たり前なんだけど、でも全然見飽きなくて!大きくなっていって、いい色に焼けて、それを誰かが食べて『美味しい』って思ってくれたら!そう思っただけでワクワクしてきて・・・」
言いかけて、俺はようやく嶋さんがどうして急にこんな話題を振ってきたのかが分かって、それ以上言葉を続ける事が出来なかった。
「・・・そういう気持ち忘れてへんのやったら、頑張って山越えてしまい。あんまり思いつめると体壊すしな?最近、山ちゃん飯もロクに食うてへんやろ?・・・チキュウの奴も心配しよるから、頑張りや!」
「・・・えっ!?チキュウが?心配・・って!?」
俺の心底ビックリした顔に、嶋さんがあきれた顔で言った。
「当たり前やろ!!こないだあっちの工場に用事あったから顔見にいってん。そしたらあのバカ!なに考えとんか知らんけどアホみたいに仕事して、休みもロクに取ってへん!せやのに俺の顔見るなり、『孝明の奴元気にしてますか?病気とかしてませんか?』って聞いてきよんねん!人の心配する暇あったら自分の心配せえっ!ちゅう顔しとったのにやで!?」
「っ!!」
俺は言葉が出なかった。
俺は、チキュウがあっちの工場に行ってどんな風に仕事をしているかとか、体調崩していないかとか・・・そんな事、全然考えていなかった。
ただ、毎日チキュウの事を責め続け、悩んでいる事すらチキュウのせいにしようとしていたのだから・・・!
黙り込んでしまった俺に、嶋さんが陽気な声でこう言った。
「・・・ほな、心理テストいってみよか!?」
「・・・へ?」
「今、山ちゃんの目の前に、自分の大好きな、絶対失くしたくない物が木の実としてなっとるとして、自分はそれを食べないと餓死してしまうとする。その時、その、手を伸ばせばすぐ届くその実をもいで食べてまうか、失くしたくなくて餓死すんのを待つか、どっちを選ぶ?」
俺はしばらく考えて、
「え・・・と、食べる・・かな。だって、死んじゃったらどうしようもないでしょ?」
「・・・チキュウは迷わず餓死する方を選びよったで?」』
「えっ!?」
思わず嶋さんのほうを見返したけれど、嶋さんは作業をする手元を見つめたまま言葉を続けた。
「・・・他の奴もな、皆山ちゃんと一緒やった。チキュウはそういう奴やねん。ほんまに大事なもんは自分が死んだって守ろうとしよる。そういうの、やっぱ誰にも理解されへんのかいな?・・・けど、ほんまにあいつに好きになられた奴は幸せもんやと、俺は思うけどなぁ・・・」
嶋さんは、いつもの口調で独り言のように言ったけれど、だけどそれは・・・多分、俺とチキュウの間で起こった事を何となく分かってて、言ってくれた事なんだと、俺にだって理解できた。
だって、考えてみればチキュウが本気で俺をどうにかしようと思えば・・いつだって、出来たのだ。
俺の両手に痣をつけたあの時だって、あのまま・・やろうと思えば出来たわけで。
それを、全然気づかない無防備な俺をそれ以上傷つけたくなくて・・・俺のために自分から離れていったのだ。
チキュウがどれだけ俺の事を考えていてくれたのか、ようやく分かった気がして、俺は泣きたくなってきた。
「・・・ね、嶋さん。もし、その木の実の方も餓死させたくないと思ってたとしたら・・・そういう場合、どうなるんでしょうね?」
「ん?そうきたか・・・。そうやなぁ・・・そういう場合、やっぱそれぞれ思うてる事を正直に伝えあうんが大事やないか?そのまんまにらめっこ状態しとったら、お互い共倒れにしかならへんやろ?」
やっぱりこの人は凄い・・・と、改めて嶋さんを尊敬せずには居られなかった。
「・・・嶋さん、ありがとうございます」
「ん?なに言うとん?俺、礼言われるようなこと何もしてへんで?そんなん言う前に、する事せなあかんちゃうか?山ちゃん?」
それはまるで、スピードが遅くなった俺の作業を注意するような言葉だったけれど、その実、何もしようとしていなかった今の俺にちゃんと釘をさしてくれている、嶋さんらしい言葉だった。
トップ
モドル
ススム