ACT 7
翌日から近くの病院で消毒してもらい、大袈裟だった手の包帯もなるべく邪魔にならないよう最小限にしてもらって、連休明けから俺はいつも通りに出勤した。
チキュウから早速かかってきた電話で、休みを替わってやるからもう一日休め!と言われたけれど、俺は頑としてそれだけは受け付けなかった。
チキュウだって12連ちゃんなのだ!
これ以上俺のせいで他の人に迷惑はかけられなかった。
とりあえず右手は使えないので、左手一本で作業しなくてはならず・・・なかなかはかどらなかったが、それでも何とかこなす事が出来た。
その上、運の良い事にちょうど夏場に差し掛かり、生産量も減ってくる時期だったので(夏の暑い、食欲減退の季節は、パン屋にとって最も売り上げの落ち込む時期でもあるのだ)俺にとっては好都合だった。
病院に通い始めて5日目くらいに、俺はいつもと違う先生の診察を受けた。
その先生は、俺のケガを見るなりこう言った。
「あーー・・・・これはあんまりよくないぞ。皮膚ごとずれ落ちかけた爪をそのままにしてある。これだと爪の再生が遅れるし、これが邪魔して変な形になりかねん」
「えっ!?」
「早く治したいなら、爪を取り除いてやった方がいいと思うんだけど・・・どうする?」
俺は突然そう言われても、どう答えていいか分からなかった。
だけど、それで早く治るのならそのほうがいいのかもしれないと思ったし、変な形の爪になるのもごめんだった。
「それで早く治るんなら、そうしてくれた方が・・・」
「そうか!じゃ、麻酔してその爪取ってしまおうか」
「ま、麻酔・・!?麻酔するんですか!?」
「当たり前だろう!落ちかかっているとはいえ、5日もたてば皮膚と癒着してるとこもでてきてる。その爪をはぐんだぞ!?指先のつめはがし拷問とかあるの知らないのか?そりゃあ痛いなんてもんじゃない!」
「げっ・・!!」
絶句した俺を尻目に、看護婦さんたちがテキパキと手の甲に麻酔を打ち(これだけでも半端じゃなく痛かったのだが)なぜか俺の手首から先が見えないように、衝立のような物で遮ってしまった。
「?あの、これ・・なんですか?」
「あ、これ?自分の爪はがれるとこなんて見たくないでしょう?見てるだけで麻酔してても痛みを感じちゃうから、見えないようにしといたほうがいいって先生が」
「そ、そんなに痛いんですか!?」
「麻酔してるから大丈夫よ!見ちゃって変に緊張されると先生もやりづらいしね」
こともなげにそう言って、俺から先生の姿も見えないようにカーテンまでしてしまったのだ!!
(う・・嘘だ!なんかすごく不安になってきた!)
思いもかけない出来事に、俺は不安で胸が苦しくなってきそうだった。
カーテンの向こうで先生と看護婦さんの会話だけが、虚しく響いてくる。
手の感覚は全くなくて、何をされているのか・・・その会話だけが頼りだった。
「・・・んー、よしっ!取れた!ああ・・・これはダメだ、肉が裂けてる。縫っておいた方がいいな」
(ぬ、縫う!?爪の下の所を?!縫うのか!?)
「こんな細かい所を?ああ、でも先生こういうの得意中の得意でしたよね?」
(と・・得意って!本当か!?)
その後も爪の下の細かい所を縫っているとは思えないほどの、冗談交じりの会話が飛び交い、俺は本当に不安で胸が押しつぶされてしまいそうだった。
麻酔をしていてもなんとなく伝わってくる、肉の中を糸が通されていくような・・・何ともいえない感触に思わず手を引き抜こうとしたけれど、看護婦さんの手らしきものに圧迫されて、ビクともしなかった。
『んー・・・・と、よしっ!これでいいだろう!』
『わ・・!本当に先生、手先が器用ですね。ちゃんと結び目まで作ってある・・・!』
『なんだったら、蝶々結びだって、できるぞ?』
『あらっ!見てみたかったわ・・・!』
(ひ・・・人の指で遊ぶなよ・・・!!)
思わず叫びたくなりそうな気持ちを必死で抑えていると、カチャンッと器具を置く音が聞こえ、プンッと濃い消毒液の匂いが漂ってきて・・・カーテンが開けられ、衝立が取り除かれた。
俺の手は、再び大袈裟に包帯でグルグル巻きにされており、たくさんの血のついたガーゼや清浄綿が片付けられていく。
俺は、先ほどの先生たちの会話と・・・血のついたガーゼやらを見たせいで、かなり気持ち悪くなってきていた。
背中を向けてカルテに何か書き込んでいた先生が、振り向いて言った。
『様子を見て抜糸するから、毎日ちゃんと消毒に来ること!それと・・・思ってたより、かなり深いところから爪がはがれていたから・・・もし、爪の再生細胞ごとはがれていたら・・・爪、生えてこないかもしれないから、そのつもりで・・・』
『・・・・・・えっ!?』
俺は、先生のその言葉に・・・心臓が止まる思いだった。
『つ・・・爪が生えてこないって・・・!?それ・・・どういう・・・・!?』
『言ったとおりの意味だよ?下の皮膚は再生しても、爪は生えてこない。こればっかりは様子を見ないと・・・爪が生えてくるかどうか・・・はっきり分からないな・・・・』
『・・・・・・・ッ!!』
俺は・・・ショックのあまり、本当に言葉が出なかった。
爪のない指なんて・・・想像できなかったし、考えるのも嫌だった・・・!!
『まあ、たいていの場合生えてくるから大丈夫だとは思うけど・・・一応、可能性として心に留めておいて』
そう言って再び背を向けられ・・・俺は何とかお礼を言って、待合室に出た。
その日の治療費を払っている時、看護婦さんが・・・
『今日の先生、細かいとこ縫うの得意な先生でね!すっごくキレイに治してくれるから大丈夫よ!!滅多にこっちの方まで来ないんだけど・・・あなた、すっごく運がいいわ!!』
と、励ましの言葉をかけてくれたような気がしたけれど・・・俺はなんと返事を返したのかすら覚えていなかった・・・。
店に帰り着いて、従業員用出入り口の所で立ち止まり、俺は大きく深呼吸した。
病院からここに帰ってくるまで・・・ずっと不安で・・・体の震えが止まらなかった。
右手の麻酔はまだ効いていて、全く感覚がなく・・・・それがまるで・・・右手がないかの様に感じられて・・・余計に不安が煽られる。
俺は・・・パンッ!!と、左手で顔を軽く叩いて、自分に言い聞かせた。
(ちゃんと笑え・・・!!笑って・・・ちゃんと説明するんだっ!!)
ドアを開けて店の中に入った時・・・・俺は、ちゃんと笑えていた・・・。
『・・・・!?山ちゃん!?どないしたんや!?その手!?』
俺を目ざとく見つけた嶋さんが、再びグルグル巻きにされた右手を見つめて・・・目をまん丸にしている。
昼休みの休憩時間を使って病院へ行っていたので、そろそろ休憩時間の終わる時間帯だった。
作業台の所に、嶋さん、店長、チキュウの3人が座って・・・俺を振返っている。
俺はその中の、店長と目を合わせ、言った。
『あははは・・・なんか、また大袈裟にされちゃいました。はげかけてた爪、取った方が早く治るって言われたから・・・麻酔して取ってもらって、おまけに・・・縫われちゃいました・・・』
『縫ったぁ!?なん針縫った!?』
店長が眼鏡の奥の細い目を見開いて、ビックリ顔で聞く。
『え・・・えーと、確か・・・2〜3針って言ってたような・・・』
『それで・・!?大丈夫なのか!?』
『今のとこ麻酔のせいで感覚ないんでよく・・・分からないんですけど・・・先生は大丈夫だって言ってました。様子を見て抜糸するから、毎日ちゃんと消毒に来るように・・・て、言われました』
俺は・・・自分でもビックリするほど・・・ニコニコと笑顔で言う事が出来た。
でも・・・多分・・・それは、チキュウと目を合わさなかったおかげだ・・・。
チキュウの・・・痛いくらいの視線を感じてはいたけれど・・・俺は、絶対、視線を合わせなかった。
『そりゃあかん・・・。おまん、もう今日は帰りや。仕事の方もほとんど終わっとるし・・・今日は3人居るしな。ええやろ?店長?』
嶋さんが気の毒そうに言ってくれ・・・店長も・・・
『ああ、もうええから・・・かえって休んどき・・・』
と、言ってくれた。
俺は素直にそれを受け
『すみません。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます・・・』
笑顔のまま一礼を返して、更衣室へ向かった。
着替えて・・・荷物をまとめてドアを開けると・・・チキュウが階段の所で背中を向けて・・・タバコを吸っていた・・・!
俺は一瞬、息を呑んだが・・・逃げるようにその横をすり抜け・・・
『お先に・・・!!』
と言って、階段を一気に駆け下りようとした・・・・が、
『なに、無視しとんねんっっ!!』
と言う、チキュウの怒りを含んだ声に、思わずビクッと、足が止まってしまった。
『お前・・・変やぞ!!なに隠し・・・』
俺はチキュウの言葉を遮るようにして、一気に言った。
『手の甲のとこに麻酔すんのって、すっげー痛くてビックリした!だから、今日は帰って大人しく寝とく!!おやすみっっ!!』
真昼間から『おやすみ』もないのだが・・・その言葉以外、思いつかなかった。
『おいっ!孝明・・・!?』
チキュウの声は聞こえていたけど・・・俺は無視して走り抜け、出入り口のドアの外へ逃げるように走り出た。
そして・・・そのまま自転車に飛び乗って、一目散に家へと向かってペダルをこいだ。
チキュウが追いかけて出て来るのは分かっていたし・・・それより何より、今は絶対に、チキュウと目を合わせたくなかった・・・。
あの目に見つめられたら・・・多分・・・俺は泣いてしまうような・・・そんな気がしてならなかったのだ・・・。
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