ACT 10

 

 

 

放課後

いつものように魚に餌をやり、準備室に戻ってきた七星が、いつものように舵からコーヒーの入ったマグカップを手渡される

いつの間にかその一杯のコーヒーを飲む間だけ・・七星はこの準備室のパイプイスに座り、舵と取り留めのない話をするのが日課になっていた

初めはあの本屋での一件で、舵と”賭け”をさせられてしまったことが理由だった

『口説き落とす』と言われ『・・誰が!』と売り言葉に買い言葉

よくよく考えてみれば、そんな”賭け”をまともに取り合う必要もなかったはずなのに

なぜか・・舵からここへくるための理由を与えられ、それを理由にここへ来ている自分が居る

確かに、舵に自分の行動を見透かされ、今まで誰にも・・自分自身でさえ気がついていなかった感情を突きつけられて、悔しかったことは確かだ

負かしてやりたい・・!そう思ったことも

そのはずなのに・・・舵は特別”口説く”わけでもなく、ただ七星の顔を見、話すことが楽しくて仕方がないように取り留めのない話を嬉しそうに話し、聞いてくれる

そのひと時が、いつの間にか七星の中でホッと出来る時間になっていて・・・

その事を自覚させたのが、天文部の新部員達と準備室に通ってくるようになった教師達の存在だった

もともと長居できる時間のない七星だっただけに、それと入れ替わりに帰ればいい・・・ただそれだけのはずだった

けれど

まだコーヒーを飲み終わらないうちに誰かがやってくることも多くなり、それに合わせて七星もいつもより早く舵の元から去らなければならない事が増えてきたのだ

(今日は誰も早く来なければいいのに・・)

ジッと立ち上る湯気を見つめていた七星の胸に、ふとそんな思いが宿る

「最近、ゆっくり浅倉とお茶する時間が減ったよなー・・」

かけられた言葉に、「・・え?」と七星が顔を上げる

その目の前に、七星の顔をジッと見つめ返す舵の・・まるで包み込むような優しい眼差しの栗色の瞳があった

思わず見詰め合ってしまった七星が、カッと顔を赤らめて視線をそらす

そんな風に優しい眼差しを向けられたなどなかった

何か見返りを求めるわけでもなく、何か目的があるわけでもない

ただ、そこに居て、話すことを望んでいてくれる眼差しを

その上、たった今自分が思っていたのと同じ事を口にされ、自分が一瞬でもそういう気持ちになったことに気づかされる

(なんで!俺は思ってないぞ!絶対、思ってないっ!)

早まった鼓動をなんとか静めようと、七星が必死に自分の気持ちを否定する

一瞬、薄っすらと赤くなったはずの七星の顔から、見る見るうちにその赤みが引いていく

その様子をジッと見つめる舵の瞳が、複雑な色を浮かべた

どうしてこいつは、こんなに自分の気持ちを押さえ込んでしまうのか・・そう思って苛立つ心と

こんな風に一瞬でも素直な一面を見せる七星を、どうしようもなく可愛いと思う気持ちと

そうして結局、もっと困らせてやりたくなる気持ちに傾くのだ

この困った教師は

「ま、それはつまり・・浅倉の部活動の時間が減ってるって事でもあるわけだから、たまには部長らしく部活動しとかないとなぁ・・」

「・・は?」

舵の言った意味が分からず、七星が再び舵と視線を合わせた

けれどそのわずかな一瞬の間に七星の気持ちは否定され、視線を合わせても、もはや顔を赤らめることもない

その無表情に戻ってしまった七星の顔を見るたびに、舵はどうにかしてそこに違う表情を浮かべさせたくなるのだ

「今夜、2回目の天文部天体観測を実施する!夜になったらここの屋上に来ること!以上!」

「なっ・・!?」

舵が言い放った途端、七星の顔に驚きの表情が浮かぶ

「もう学園長の許可ももらってるから、月に2回くらい金曜日の夜に屋上で天体観測を実施することにした。普段部活をする暇のない浅倉は、絶対参加のこと!」

にこやかに命令口調で言う舵に、七星が慌てたように目を見開いた

「ちょ、ちょっと待て!そんな勝手に決められても・・!」

「どうしてだ?1回目の観測の時にはちゃんと来れたじゃないか。それに、夜なら家の事が終わった後に出て来れるだろう?本屋にだって出て来れるんだから」

「ッ!!」

言い逃れできない理由を突きつけられて、七星が言葉に詰まる

しかも、本屋の一件まで引き合いに出されては・・確実に七星のほうが分が悪い

どう切り返してやろうか・・と七星が悔しげに舵を上目使いに睨み返す

その表情は、いつも大人びている七星の顔を、通常の思春期の少年に引き戻していて・・舵が満足そうに口元に笑みを浮かべ、目を細めて七星を見つめている

その舵の笑みに対して、七星が更に悔しさを募らせる

その自分の態度こそが、舵を喜ばせている源なのだということに気がつかないまま・・・

だが

そんな舵の楽しみの時間も無粋な訪問者によって、あえなく強制終了させられる

常連になっている教師が、準備室のドアを開け放って入ってきた

「舵先生、研修に行ってた先生からの土産がありますよ」

菓子折りを手に上機嫌で入って来た世界史教師の山下の姿を見た途端、七星の表情が元の大人びて感情の読めない顔つきに変わる

「・・じゃ、俺はこれで」

いつものように立ち上がった七星に、山下が声をかける

「なんだ?一緒に食っていったらどうだ?浅倉?」

「いえ、もう時間なんで・・・」

慇懃に一礼を返した七星が準備室の片隅にある手洗い場にマグカップを持っていき、一口も口をつけることのなかったコーヒーを排水溝へ流し込む

最初の頃は流されるその黒い液体はほとんどなく、透明な水でただカップを洗い流すだけだったのに・・

その量が日増しに増え、渦を巻いて消えていく黒い液体を見るにつけ・・七星の心の中にその流される量だけの黒い何かがわだかまっていくようで・・堪らない気持ちになる

ゴウ・・という水音を伴って消え去った黒い液体の跡を少しも残すまいとするかのように、七星がカップと排水溝の周辺を念入りに磨いている

その背後では、山下がもう七星の事など気にもかけずに菓子折りの包みをガサガサと開いていた

自分の残ったコーヒーを飲み干した舵が、そのカップを洗おうと七星の横に立ち、ソッと耳元に囁きかけた

「・・来いよ。待ってるぞ」

「・・ッ!?」

山下に気づかれない位置で、舵が七星の耳朶に唇を寄せて触れ、途端に七星が弾かれたように身体を離す

「っこ・・の・・ッ!」

耳朶を朱に染めた七星が悔しげに舵を睨み返し、けれど山下の存在のせいで『このセクハラ教師がっ!』と言い放ってやりたかった言葉を呑み込む

こんな風に舵は、あからさまに口説くことはしない代わりに、七星が油断して忘れた頃合を見計らうように触れてくる

しかも今のように、七星が面と向かって拒絶できないほんの一瞬の隙を狙って触れるのだ

「・・?どうかしたのか?浅倉?」

何が起こったのかまるで知らない山下が、七星に問いかける

「・・いえ、なんでもありません。ちょっと・・カップを落としそうになっただけですから」

熱くなった顔を山下から隠すように、七星がすぐ横にあるコップ置き場になっている棚の方へと向き直る

その棚のガラス戸に映った舵が、もう既に山下の方に向かってにこやかに話しかけている

その舵の笑う横顔を見た途端、七星の中で言い知れぬ憤りが生じていた

(なんなんだ!?何だってこんなに腹が立つ・・?!」

その憤りが・・・

目の前で自分ではなく誰か他の者に舵の笑顔が向けられたことに対するものなのだ・・と言うことに、七星はまだ気がついていない

少し乱暴にカップを置き戻した七星が、その腹いせといわんばかりに無言のまま準備室のドアを出て行った

その後姿を、舵がクスクス・・と忍び笑いをもらしながら見送っていた

「舵先生?なにがそんなに面白いんですか?」

不思議そうに問いかける山下に、舵が楽しそうに言った

「いや・・ほんとに自分の事に関しては何にも気がついてないんだなぁ・・と」

「・・・は?」

ますます困惑顔になった山下をはぐらかすように、舵が別のマグカップを取り出す

「そんな事より、コーヒーと紅茶、どっちにします?」

その舵の言葉に、山下の視線と思考は茶菓子とカップに向けられた

 

 

 

 

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