ACT 16
「・・ったくよー、あの世界史教師、授業にこんなでかいもん使うなっつの!そう思わねぇ?浅倉〜」
「・・・・伊原、授業に使わなかったら何に使うっていうんだ?こんな地図・・・」
昼下がりの気だるい午後の廊下を、伊原と七星が世界史で使う大きな壁掛けタイプの地図をそれぞれに持って歩いている
「だってよー、一番遠いんだぜー?俺たちのクラスから資料室・・!」
「・・・日直なんだから仕方ないだろ?」
「そりゃそーだけどさー・・・ああ!もう!重い・・っ!!」
七星の前を歩いていた伊原が、小脇に抱えていた無駄に横長い地図をブン・・ッとばかりに肩に担ぎ上げる
そのキレイな曲線を描いて担ぎ上げられた地図を視線で追っていた七星の視界に、廊下の角を曲がってこちらにやって来る・・白い実験服姿の男が映りこんだ
「・・お!?舵じゃん!かーじー!こんなところで何してんの〜?」
伊原のからかうような言葉に、舵の視線がゆっくりと上がった
陽射しに透けた栗色の髪と瞳が、金色に輝いて見える
「・・・なんだ、伊原か。お〜校内宅配便、ご苦労さんだねぇ〜」
心地良く耳に届く、いつものふざけているんだか本音なんだか・・今ひとつ掴めない声音、僅かに上がって笑う口元
小脇に抱えた資料冊子を支える、細くて長い指先
実験着用の白衣ですら、様になって似合ってしまう均整の取れた体つき・・・
思わず見惚れてしまいそうになる自分を叱咤するように、七星が慌てて視線をそらす
「お暇なら手伝ってかなーい?おにーさーん?」
「おにーさんは時給が高いよ〜?働け働け、日直係〜!」
屈託ない笑顔を浮かべて舵とすれ違う伊原とは対照的に、七星は視線をそらしたまま、俯き加減で無言ですれ違っていく
伊原とすれ違った途端ヒシヒシと感じる、自分に注がれる舵の視線
それでも顔を上げることが出来ずに、七星が舵と無言のまますれ違う
あの深夜のパパラッチとの遭遇事件以来、七星は確かに以前とは違う意味で舵を意識し始めていた
ふとした瞬間に甦る、あの時の舵の艶を含んだ声音
・・・・『・・・浅倉』・・・・・
自分の名前を呼ぶその声と、首筋に押し当てられた熱い体温
それを思い出すたび、ゾクリ・・・と肌が粟立つような感覚と、カッ・・と一気に熱くなる感覚が呼び覚まされる
今までこんな風な感覚で甦る事等なかった
ただ、嫌悪感と冷たく冷え切った拒絶の感情・・・それだけが降り積もってきたのに
それなのに
舵はその七星の拒絶の感情であったものすら、受け入れてしまった
・・・・『当たり前だろ?浅倉だって俺の事、何にも知らないじゃないか』・・・・
と笑顔で応え、更にその上
・・・・『俺に、守らせろよ・・浅倉』・・・・
今まで一度だって七星が言われた覚えのない言葉まで、七星の中に注ぎ込んだ
それ以来、ずっと七星の中でその言葉とその時感じた動揺が、渦巻いている
素直に受け入れればいいはずのその言葉と動揺を・・・七星は受け入れることが出来ないのだ
ずっと心の奥底で居座っている・・・七星自身でさえ気がつけないでいる物のせいで・・・
前を歩く伊原が次の角を曲がった瞬間、七星がずっと自分の背中に注がれ続ける熱いほどの視線に、堪らず振り返った
途端に立ち止まったまま七星を見つめ続けている舵の視線に、捉えられる
(・・・・え?)
囚われた視線の中で、舵が微笑んでポンポン・・と白衣のポケットを意味ありげに叩く
その動きに誘われるまま、自分の制服のポケットに手を入れた七星が、その中に入っていた紙の感触にハッと舵を見返した
舵はそんな七星に笑いながら軽く片手を振って、振り返り様、ウィンクを投げて行く
(い・・一体何を?!)
そのままその紙を引っ張り出そうとした七星だったが
「おーーい?浅倉ー?なにやってんだー!?遅刻しちまうぞー?」
伊原の呼び声に、慌ててポケットに突っ込みなおし教室へと向かって行った
世界史の授業を受けながら、こっそりと開いたその紙には
・・・・・本日、一身上の都合により部活はなし!
今度ゆっくり、お茶しに行こうな!
そんなメッセージと共に、一番下には、舵の携帯番号の数字が書き込まれていた
(・・・誰が、何の理由で電話するって言うんだ!?)
グシャ・・と手の中で握りつぶしたその紙を、無造作に制服のポケットに突っ込み返す
(でも・・奇遇だな。俺も今日は美月さんとの約束があるから、どのみち部活へは行かないつもりだったし・・・)
Wホテルのある場所は少し離れていて、いつもより早く家事を終わらせ、出かける準備をしておかなくてはならない
放課後、お茶の時間をしている暇は、なかった
ふと教室の窓際に目をやり、向かい側にある舵の居る教棟の4階を眺める
そういえば・・・
さっき舵とすれ違ったが、舵がこちらの教棟に居る理由が見つからなかった
それにポケットに入れられたメモ紙・・・
どう考えても事前に準備しておかなくては、あのタイミングで七星に渡せるはずがなかった
(・・・・まさか、俺に会うためにわざわざこっちの教棟に・・・!?)
ハッとして見上げた生物・科学室では、授業中らしき生徒の影が窓際に映っている
こちらの教棟から向かい側の教棟の4階まで行こうと思ったら、かなりの時間を要する
次の授業まで間のなかったあの時間からして、舵が今行っている授業に遅刻したことはまず間違いない
その上さっきすれ違った廊下は、資料室から上がってくる時にしか七星が使わない廊下だ
(・・・あ!確か世界史の山下先生って、昼休みも準備室でよく一服してるって言ってたな・・・)
舵が山下から、七星が日直で地図運びをさせることをリサーチしたと考えれば、その用意周到さにも納得が行く
だが、ただそのメッセージを伝えるためだけにわざわざ・・・?
今日は七星のクラスは舵の授業がない
つまり部活がないということは、教棟の違う舵にとって七星に会えない日・・・ということになるのだ
だから会いに来た
七星と、ただすれ違うためだけに・・・
その事に思い至った七星の首筋が、ほんのりと赤みを増す
(・・・まさか・・とは思うけど、ほんっと、物好きな奴・・・!)
心の中で悪態をつきながら・・・七星の手がそっとポケットに伸び、突っ込み返したメモ紙の存在を確かめていた
学校からの帰り際、七星がスーパーに着くと、ちょうど夕方からのタイムセール中で・・・それを抜け目なくチェックしながら買い物カゴに商品を入れていく
小さい頃から主婦並みの家事全般をこなしてきた七星だけに、買い物も手馴れたものだ
日用品のコーナーで特売セールの表示見つけた七星が、立ち止まる
そこには新発売で特価表示のシャンプー&トリートメントが並んでいた
「あ・・・これ、こないだ麗が一度試してみたいとか言ってた奴・・・!」
浅倉家の中で、一番そういった関連のものにうるさいのが麗だ
確かに、頭を撫でていて一番感触のいいのが麗の金髪だよな・・・などと思い出しながら七星がそのシャンプーに手を伸ばし、ふとその手を止めた
・・・・・『あ、浅倉の使ってるシャンプー、いい香りだな。俺の好きなタイプの香りだ』・・・
頭の中に甦った、舵の言葉
いつもはシャンプーの銘柄だとか、香りだとか・・・七星は全くこだわりなど持っていない
だからその時に一番安かったものとか、麗のリクエストとか・・・そんな判断基準以外では選んだ記憶がなかった
「・・・・今使ってるのって・・・確か・・・」
伸ばしかけて止めた手を、棚に沿って滑らせていく
順に視線でその銘柄や模様を追っていた七星の指先が、止まった
「・・・あ。確か、これ・・だ」
見た記憶のあるパッケージリングに、七星が迷わず手を伸ばしてカゴに入れていた
入れた瞬間、七星がハッとする
(ちょ・・・と待て!何であいつの言葉なんか思い出してんだ!?)
無意識に舵の言った言葉を思い出した上、行動に起こしてしまっていた自分に気づき、七星が思わずカゴの中のシャンプーを凝視する
そのシャンプーは特に安くなっているわけではない上、どちらかといえば高い方の値段の部類に入る
以前買ったときは、確か特売品だったのだ
しばらくの間、ジッとそのシャンプーを見つめていた七星だったが・・・それを棚に戻せずにいる
「・・・・ま、こないだは助けてもらったし・・な」
まるで自分自身に納得でもさせるように呟くと、麗がリクエストしていたシャンプーをもカゴの中へと放り込んでいた
(・・・・別に、二つあったって構わないよな・・・)
そう、心の中で言い訳しながら・・・