ACT 37
『ブルルルルル・・・ブルルルルル・・・』
自宅に帰ってからも職員会議でマナーモードにしたままだった携帯が、テストの採点をしていた舵の机の上で振動した
「・・・ん?」
細かい作業をする時だけかけている銀縁メガネを指先で押し上げ、舵が携帯に表示された見慣れぬ番号を凝視する
「・・・・誰だ・・?」
最近は妙な勧誘の電話も多い
その内、切れるだろう・・・と中断した作業に再び没頭しようとしたが・・・
不意に妙な胸騒ぎを感じて、携帯のフラップを開く
「・・・はい、もしもし・・・?」
出た途端、告げられた相手の名前に、舵が驚いて目を見開いた
「浅倉・・麗!?・・って、浅倉の弟の・・!?」
毎朝のように見る、遠めでも思い切り目立つ麗の金髪碧眼が舵の脳裏を駆け抜ける
(なんで・・そいつが俺の携帯番号を・・・!?)
とっさに思い浮かんだのは、以前に渡した、自分の携帯番号入りのメモ
でも、そのメモを七星は失くしたと言って、薄情にも舵の携帯番号を聞こうともしなかったはずなのに!?
(・・・っ!失くしたんじゃない、こいつが・・・!?)
そこまで思って、舵が嫌な予感に身を震わせた
「まさか・・浅倉に何かあったのか?!」
その舵の言葉を裏付ける、麗の返事
『・・・あなたに、お願いしたい事があるんです・・舵先生・・・』
続けられた麗の言葉に、舵が部屋を飛び出して行った
ポツ・・・ッ
不意に手の甲に落ちた、何かが当たる感覚
「・・・・?」
ようやく顔を上向けた七星が、ざわめく町の喧騒の中に居ることに気がついた
家を飛び出してから、どこをどう歩いてきたのか覚えていない
上を向いて見上げた先には、町の明るい光に照らし出された真っ黒な夜空
その光によって遮られた狭い夜空から、ポツポツ・・・と小さな滴が降り注いできた
「うわっ雨だよ!降るなんていってなかっただろー!」
「コンビニ行ったら傘ぐらい売ってるわよ!」
すぐ横を通りがかったカップルがそんな会話を交わしながら、足早に駆け抜けていく
「・・・・雨?」
呟いた七星が、上向いた拍子に頬を流れ落ちた温かな物に手を当てる
ポツポツポツ・・・・
真っ暗な夜空から止めどなく落ちてき始めた水滴に、温度はない
「なんだ・・・?これ?」
流れ落ちてきた先をなぞっていた七星の指先が、その源である目尻に行き着く
「・・・涙・・?泣いてるのか・・・?俺は」
茫然と呟いた七星の記憶の中で、最後に泣いたのは、北斗を助け出してくれたアルに向かって非難の声を浴びせ、泣きじゃくった・・・
あの時が最後
あの時以来、七星は泣いたことがない
北斗の泣き場所になっしまったことで、自分自身が泣ける場所を見失ったのだ
その温かだった涙の跡を、降り注ぐ雨が掻き消していく
「・・・・そう・・だ、涙なんかじゃない。これは・・ただの、雨なんだ・・・」
自分が泣いていることを認めずに、七星が再びうなだれて、傘もなく降りしきる雨に濡れそぼりながら歩いていく
どうして・・・こんなところを一人で歩いているんだろう?
どうして・・・涙なんて・・・?
何も考えられない
何も考えたくない
せめて・・・
見上げた闇色の夜空に、星の輝きでもあったなら、少しは・・・何か考える気力が湧いたかもしれないのに
泣いていた事すら無かった事に変えてしまった温度のない雨が、七星の全身から体温を奪い、更に思考能力を奪っていった
頼りない街灯に照らし出された薄暗い公園
降り続く雨は止む気配も見せず、七星がポツンと忘れられたかのように隅にあったベンチに腰掛けた
うなだれて、髪を滴り落ちる水滴をジッと見つめている
ジャリ・・・
濡れてぬかるんだ土の音が思わぬ近くで響き、七星がハッと顔を上げた
いつもなら、こんなに近くに来るまで人の気配に気がつかないことなんてないのに!
究極にまで落ち込んだ思考能力は、七星の危険察知能力さえ鈍らせてしまっていた
「・・・へぇ、急に雨になったから今日は収穫なしかと思ってたのに・・・どうしてかなりの美形君じゃん?」
「・・・っ!?」
フードつきのパーカーにサングラス
雨除けも兼ねているのだろう目深に被ったフードの下で、ニヤ・・と笑う口元だけが妙にはっきりと浮かんでいる
「雨の中・・・っつーのもいいかもな」
笑いながらそう言った男が、サングラスを無造作に取り去った
その下から現れたその男の自分を見る視線に、七星の背筋が凍りつく
それは相手を陵辱する視線
「・・・じょ・・冗談じゃ・・!」
七星が弾かれたように立ちあがり、進路を塞ぐその男の脇をすり抜けようとした途端
自分よりも一回りも大きい体格の男に腕を取られて、ベンチの上に思い切り叩きつけられた
「・・・っくぅ!!」
ベンチの背もたれに背中を強打して、一瞬、息が止まる
「今更逃げんなよ。こんな雨の日に、ここがそういう場所だって知ってて来てんだろ!」
その言葉に、ハッと七星が以前、麗に言われたことを思い出していた
二駅ぐらい先にある公園は、夜になると男同士の発展場になってるから、近付くな・・・と
どこをどう歩いてきたのか覚えていないが、いつの間にかそこへ紛れ込んでしまっていたらしい
「違・・っ!離せっ!!」
男を押し返そうとした七星だったが、一瞬息を詰めた無防備なわずかな合間に、ベンチの背もたれを利用されてのしかかられ、身動きができない
「すぐに良い気持ちにさせてやるから、騒ぐんじゃねぇ・・!」
ドスの利いた声が耳元でそう言い放ったかと思うと、ベンチの背に首筋を引っ掛けるようにして、大きな手が七星の喉を捉えて顔を仰け反らせる
「・・・っ!!」
かろうじて呼吸できるかどうか・・という強さで喉を圧迫されて、声がでない
その首筋から鎖骨を、生温かい男の唇が滴る雨を舐め採るように這い回り、七星の肌がおぞましさに粟立った
喉を押さえられているせいで自由になった片腕で、七星が必死に男の身体を押しのけようとするが、身体を仰け反らせ、呼吸さえままならない状態では、大した抵抗にはなりはしない
「・・・へ、濡れて透けたシャツに張り付いた乳首っつーのも、そそられる光景だな・・・」
「・・・ぅん!?」
耳を疑いたくなるような言葉と共に、男の唇が濡れて仰け反ったシャツに浮かんだ未成熟な桜色のそれをシャツ越しに甘噛みする
途端にゾ・・ッと悪寒が駆け抜け、七星の全身に鳥はだが立った
「・・・ぃや・・・や・・め・・・!」
叫ぼうとする言葉が、声にならずに掠れた空気音だけが虚しく響く
必死に身をよじって抵抗を続ける七星に、男が「チ・・ッ」と舌打したかと思うと、喉を掴む指先に更に力をこめた
「・・・・ぅぐっ!?」
更にままならなくなった呼吸に、七星の視界が酸素不足で霞み始める
抵抗する手足からも徐々に力が抜け、それをいいことに男の手が七星のシャツをたくし上げ、素肌を撫で回し始めた
冷たくせり上がってくる、吐き気のするほどの嫌悪感
少しでも気を抜けば遠くなっていきそうな意識を、七星が必死になって何かにすがって保とうとする
(・・・っぃやだ!こんな奴に・・・触れられたくない・・!!)
心の中でそう叫んだ途端、思い浮かんだのは舵の顔
舵なら、こんな触れ方はしない
こんな風に・・・悪寒が走る事も鳥肌が立つことも・・ないのに!
(・・・か・・じ!・・・舵っ!たすけ・・・助けて!!舵っ!!)
声なき声で呼ぶその声は、七星が初めて、自分のためだけに心の底から誰かを求めた、叫び声だった