ACT 25
「そっちに行ったぞ!逃がすな!」
月明かりの中、数人の男達が鬼気迫る形相で手に手に鍬や鋤・・といった不気味に照り光る農具を振りかざして右往左往している。
その男達の目から逃れるように・・息を殺して岩陰に潜む薄汚れた少年・・。
追い立てる男達から逃げ回り、もうまる三日が経とうとしていた・・。
(お願い・・!来ないで・・!向こうへ行って!!)
祈るように胸の前でギュッと両手を握り締めたその手の上で・・土ぼこリや枯葉、泥汚れなどでその光沢を失った銀髪が小刻みに震えている。
着ている物も泥汚れと引っかき傷などでボロボロで・・一見すると乞食か薄汚れた流れ者・・のようにしか見えない、みこと・・だ。
夜となく昼となく入れ替わり立ち代り追い立てる人間が、山の中をうろついていて・・みことの体力・精神・共にもう、限界に近い・・。
そんなみことの必死の願いも虚しく、男達の声がだんだんとみことの方へ近づいてくる・・。
ガタガタと震えていたみことの体が・・
「い・・いたぞ!」
という、上ずった声にビクッと弾かれたように走り出した・・!
男達の気配のない方向へ向かって、生い茂る草や木々を掻き分けて・・ただ闇雲に走っていたみことの足が、その支えを失う・・!
「う、うわああああ・・・!?」
みことの絶叫が山の中に延々とこだまする・・。
「落ちたぞ!あそこだ・・!」
「・・ちっ!こっから落ちたら今から降りていくのは無理だな・・!」
「まあ、ここから落ちて助かった奴は居ない・・明日の朝になったら鬼の死体が転がってるさ・・」
男達が覗き込んでいる場所は・・切り立った深い谷間。
知らずに迷い込んだ者が必ず一度は落ちかけるという・・曰くつきの場所だ。
恐らくは・・この場所にわざと追い立てていたのであろう男達が、安堵の表情を浮かべてもときた方へと帰っていく。
やがて・・男達の足音と話し声が聞こえなくなった頃、谷間の崖から落ちて途中の木の枝に引っかかっていたみことが意識を取り戻した。
「・・う・・っつう!?」
崖の隙間から生え出ていた太い枯れ枝の上に覆いかぶさるように、かろうじて引っかかっている状態のみことの左足の向こう脛・・そこに枯れ枝の細い枝が突き刺さっていた。
「い・・った!」
思わず伸ばした手にも・・落ちた時に無意識に?んだのだろう草や木の枝で切りつけた細かい傷が無数についている。
「・・っ痛!これ・・抜いといた方がいいのかな?御影せんせ・・じゃないや、聖治さんだったら、なんて言うだろ・・?」
何とか追ってが居なくなったのであろう事を、周囲の静まり返った様子で察したみことが・・その安堵感と張り詰めていた緊張感の喪失で、ぐったりとその枯れ枝にもたれかかる・・。
今の自分の状態が・・非常に危険な崖の真ん中辺りで今にも折れそうな枯れ枝の上に居る・・状態だったとしても、もう、みことの思考能力は空腹と痛みと擦り切れた神経とで・・機能を停止していると言ってよかった。
もう・・枝が刺さっている痛みも、全身いたるところにあるすり傷の痛みも・・まるで神経が麻痺してしまったかのように・・ぼんやりとしか感じられない・・。
時々思い出したように走る痛みが・・ともすればどこか遠い所へ行ってしまいそうになるみことの意識を、かろうじて現実に繋ぎとめていた。
『・・ミシ・・ッ』
不気味な乾いた音と共に・・みことの体がガクンッと一段落ちる!
「・・あっ・・!!」
その途端ハッと覚醒したみことの神経が一気に緊張する。
「や・・やだ・・落ちちゃったら・・死んじゃう・・!だ・・誰か・・」
言いかけて、みことがハッと唇を噛み締める。
そうなのだ・・今、この場所にみことを知っている者も手を差し伸べてくれる者も誰も居ない・・。
そのことを、この逃げ回った三日の間に嫌というほど思い知っていた・・。
「・・なんで!?僕が何かした・・?何にも・・何にもしてないのに・・!」
やりきれない・・理不尽さに対する憤りがみことの胸に込み上げてくる。
その途端、みことの胸の辺りにポウ・・と暖かく柔らかい桜色の輝きが宿った。
「・・え・・?」
ハッとしてその輝きに手を当てたみことの体が・・
『メキッ・・!!』
という枯れ枝の折れる音と共に暗い闇の底へと落ちていく・・。
叫ぶ間もなく宙に浮いたみことの脳裏に、父と母の残した言葉と笑顔が甦っていた。
『みこと・・決してあなたのせいじゃない・・あなたを生んだ事を誇りに思ってるわ。みこと・・忘れないで、あなたの事を愛している人が居る事を・・!その存在は消えてなくなっても、思いは永遠に・・あなたが忘れない限り消えはしないから・・!』
『お前は決して一人ではない・・私も、千波もいつもお前の側に居る。それを忘れるな・・!』
(お・・かあさん・・おとう・・さん・・!)
ギュッ・・と自分の体ごとその桜色の輝き・・みことの父であった桜の精霊が残した、みことの精霊としての力を最大限に解放する輝き・・を抱きしめる。
「・・ごめん・・忘れるとこだった。僕は・・一人じゃ・・ない・・!」
何も見えない・・暗闇しかなかった谷底に、ポウッと、淡い桜色の輝きが広がる。
フワッ・・と暖かい春風にも似た風が吹き抜けて、たくさんの桜の精霊たちが落ちていくみことの体に手を差し伸べる。
『・・我らが幼き兄弟よ・・その心ある限り我らも共にある・・・』
谷底のいたるところに生えていた桜の木々が、そのみことの放つ桜色の輝きに触れて・・一斉に季節外れの満開の花を咲き誇らせる。
そのうちの一つの桜の花の上に、ふんわりとその体を横たえられたみことが・・懐かしい桜の香りと暖かい、胸に宿った桜色の輝きを抱きしめて・・安心しきった顔つきで急速にその意識を深い眠りへと落としていった・・。
次の日の朝・・
検非違使の役人と共に昨夜みことを追い立てていた数人の男達・・そして柳と真魚が谷底から流れてくる川辺を遡っていた。
「しかし・・信じられません!昨日まではこんな桜の花など咲いていなかったのに・・!」
騎乗の人となった柳と真魚、検非違使の役人に向かって、男達が口々に気味悪そうに・・しかしその桜の美しさに感嘆のため息を含ませながら言い募る。
谷底から流れ出る川に沿ってある桜の木々が、一晩のうちに満開の桜の花を咲かせていたのだ・・。
早朝にこの地に到着した柳と真魚も・・この季節外れの桜の花に、困惑顔で視線を交し合っていた。
検非違使も男達も柳の放つ独特な人を寄せ付けぬ雰囲気と、その・・近寄りがたい美貌を前にして、あからさまに畏怖の表情となって話しかけることすらしようとはしない。
言い募る男達の視線も、険しい顔つきの検非違使よりも人好きのする笑みを浮かべた僧侶姿の真魚に自然と集中する。
男達が真魚に向かってこの三日ばかりの山狩りの様子を事細かく話かけてくるのを、真魚が適当にあいづちを打ちながら聞き流していた。
・・というのも、その間・・ずっと柳と真魚は心話という方法で他の者に知られる事なくこの事態を話し合っていたのだ。
『・・紫水の話によるとその者、月虹龍と共に月虹を渡ってきたようだが・・ここのもの達の話とも辻褄があっているようだな。確かに・・こちらの鬼の方がより面白そうではないか・・?真魚よ?』
柳が意味ありげな視線を真魚に向かって投げかける。
『確かに。この季節外れの桜の花、その鬼によって成されたものならば、私もその鬼に会って話がしたい・・!』
笑みを絶やさずにこやかに男達と受け答えしながら、真魚が真剣な声音で柳に言う。
『桜が絡むと人が変わったようになるな・・?真魚?』
『・・柳、お主いきなりその鬼を殺すでないぞ?私は話がしたいのだ』
その言葉に柳が紫色の瞳に妖しい光をみなぎらせた。
『誰に向かって物を言っている、真魚?私のすることに反対ならばまことやり合う覚悟で物を言え・・!』
一瞬、柳を盗み見た真魚が、フウッ・・と短いため息をつく。
『・・・そう、ならぬ事を祈っておこう・・』
次第に険しくなる山道に・・とうとう馬を降りた柳たちと、検非違使と男達たちとで別々に鬼の詮索を始めることになった。
真魚とも途中で別れ、険しさを増す山道をものともせず一人身軽に山中を歩く柳の足が・・フッと、止まる。
何処からともなく聞こえてくる・・耳慣れない旋律・・。
周囲をさえずり渡る鳥達の鳴き声と同調し、普通の者なら気づかなかったであろうその歌声に、柳が気づいて耳を澄ます・・。
「・・・願い事が・・かなう・・なら・・ば・・つばさが・・ほし・・い・・」
その歌は・・みことが毎朝歌っていた、一番のお気に入りの歌・・だ。
その歌声に引き付けられる様に・・柳が一際大きく咲き誇る桜の木に歩み寄る。
「誰かいるのか・・!?」
桜を見上げた柳が訝しげな表情で問いかける。
途端にその歌声がピタッと止まった。