ACT 28




「・・・戻って来たか?」

懐かしい・・声と暖かな手の温もり。

声のするほうにゆっくりとみことが視線を向ける。

そこはもう夢の中ではない・・。

さらさらとした肌触りの良い布団の中に寝かせられ、周りはまるで天蓋つきのベッド・・のように四隅に支柱を立て、天井の部分には白絹を張ったような明かり障子が乗せられている。

その四方には薄い絹仕立ての白絹が天井から垂らされていて、空かし細工の柳の葉の模様が緩やかに風に舞う・・。

「・・ここ・・は・・?」

握られた手を確かめるように握り返したみことが、すぐ横でゆったりと座っているその手の持ち主を見上げた・・。

そこに居たのは・・矢を放った時のように冷たい瞳ではなく、なんともいえない優しい色を湛えた紫色の瞳を細めて、ホッとしたような安堵の顔つきの柳。

「・・ここは私の寝所。お前を追い立てる者はもういない。安心してその傷を癒せ・・」

「き・・ず・・?」

言われた途端、まるで体がそれを主張するかのように痛みを訴える。

手を握っていたのは左手で・・いつのまにか汚れは綺麗に落とされた上に擦り傷や切り傷も手当てが施されている。

その反対側・・右手の、右肩が熱を帯び・・サラシの白布できっちり巻かれたその布に、うっすら血が滲んでいる。

検非違使によって射抜かれた矢の傷跡だ。

でも、左胸を射抜いたはずの矢の傷跡はどこにもない・・。

「・・あ・・れ・・?確か、こっちにも矢が・・」

単衣(ひとえころも)と言われる薄衣を着せられたみことの左胸には、特に布が巻かれているわけでもなく・・左手も自由に動かす事が出来た。

「・・こちらに意識が戻った以上、心配する事はない。あれは破魔の矢・・穢れた物だけを祓う矢だ。お前の体を傷つけたりなど出来はせぬ・・」

「・・破魔・・の・・矢・・?」

呟いたみことが、ようやく自分の体の異変に気づく。

喉がカラカラで掠れた声しか出ない。

その上、頭がくらくらして・・目が霞み呼吸も浅く息苦しい。

その苦しさを訴えるように、力の入らない手で柳の手を握り返す。

その手の意味を察したように、柳がみことの額にもう片方の手を当てた。

ひんやりとしたその手の感触があまりに気持ちよくて・・みことが安心したように目を閉じた・・。

「・・まだ熱が高い。疲れと傷からくる熱だ。その熱が下がるまで眠るが良い・・熱が下がれば聞きたい事が山のようにあるのでな・・・」

柳が額に当てていた手を、その柔らかい銀髪の感触を楽しむようにフワ・・ッと掻き揚げる・・。

みことがこの柳の屋敷に連れて来られてから、既にまる二日が経とうとしていた。

その体の汚れを綺麗に落とした時のみことの容貌は、柳ですら目を奪われ驚かされていた。

その・・同じ人とは思えぬほどに透き通るような白い肌。

光の加減で自ら輝きを放っているかのように輝く銀髪。

そしてなにより、夜の闇の中でも浮かび上がるかのように薄く桜色の光を放つその体・・。

その光の側に居ると、不思議と心が休まって・・そこから離れられなくなる。

心が休まる・・などという事は、かつて柳が感じた事のない不可思議な感情で・・そんな物を感じている自分に驚いていたのだ。

闇の中に浮かび上がって、何処に居てもその存在をしらしめてくる・・それはまるで自分を呼んでいるように・・側に居てくれと言っている様に思われて、柳は片時も離れずみことの側についていた。

そして・・先ほど伸ばされたみことの手を握った途端に感じた、力強い・・春の陽だまりのような暖かな波動・・。

それは今も握られた手を通じて柳の中に注ぎ込まれていた。

「・・この満たされた気持ちはなんなのだ・・?こうして・・ただ触れていたいと思わずにはいられない・・この気持ちは・・?」

何度もその髪を優しく撫で付ける柳の手を、気持ち良さそうに受け・・まどろみ始めたみことが無意識に掠れた声で言う・・。

「・・み・・ず・・」

「水か・・?」

その言葉に答えた柳がフ・・と思案顔になる。

握られた手をほどかないと、みことに水を飲ませられそうにない。

・・が、半分意識がないように思えるみことの手は、まるで二度と離さないとばかりにしっかりと柳の手を?んでいた・・。

そして、柳もまたその手を離す気になれないでいる。

「・・仕方がないな・・・」

フッ・・と意味ありげに笑った柳が、片方の手で側に置いてあった水差しから水を口に含み・・口移しでみことに水を飲ませた。

一瞬、ピク・・ッと握られた手に力がこもったけれど・・それもすぐに喉を潤す水に満足したように弛緩する。

そのまま・・夢すら見ない深い眠りについたみことは・・更に数日まるで死んだように眠り続けたのだ・・。







時折・・深い闇の中に居る自分にみことが気づく。

不安になって、必死で目を凝らしても何も見えない闇の中で・・今にも何処へとも知れず落ちて行ってしまいそうなその場所で、唯一確かであった物・・。

それは・・みことの手を握っていてくれる暖かな手。

握り返すと、必ず握り返してくれた手・・だった。

その手があったから、みことはかろうじて残っていた気力でその熱と戦う事が出来た。

左足に負った枯れ木の突き刺さった傷と、右肩に負った矢傷・・そして全身に及ぶ打撲と切り傷、極限にまで達していた疲労と精神困憊・・その無茶が一気に押し寄せた結果の高熱だった。

その熱もようやく治まり・・みことが本当に何日かぶりに目を覚ます・・。


ピクッ・・と身じろぎして、ゆっくりと開いた銀色の瞳に、すぐ間近で肘掛の様な物に寄りかかって眠っている柳の横顔が写った。

ハッと気づいて視線を手に移すと、しっかりと自分の手を握っている柳の手・・が飛び込んできた。

「あ・・・!この・・ひと・・が・・・!?」

ずっと・・苦しい時、どこかに落ちて行ってしまいそうになった時・・いつも必ずみことの手を握っていてくれていた・・手。

その手の持ち主が・・自分を冷たい視線と冷たい言葉で、何の躊躇もなく矢を放ち射抜いた柳であったとは・・!

みことがにわかには信じられずに、目を見張る。

(・・やっぱり・・居るんだよね・・?そう信じて良いんだよね・・?この人の中に巽さんと同じもの・・僕の守りたい巽さんが居てくれてるんだって・・!)

時空を越えてこの時代にやって来て・・初めて感じた、唯一信じられる希望の光にも似た確信・・。

ずっと耐えてきた何かが、ツン・・と鼻の奥を刺激して・・不覚にも一粒涙がほほを伝う。

「・・なぜ・・泣く・・?」

いつに間に目を覚ましたのか・・みことの顔を真上から見下ろした柳が問う。

ハッとその柳の顔を見上げたみことが、慌てて視線をそらして横を向いた。

そのみことの顔を無理やり上向かせた柳が、再び問いかける。

「・・なぜ、泣いているかと聞いている」

一瞬、ギュッと力いっぱい目を閉じたみことが、キッとその目を見開いて言った。

「・・泣いて・・ません・・!」

一度泣いてしまえば誰かにすがって泣きたくなる・・その、すがれる相手は・・すがって泣きたい人は、今のみことにとって巽だけだった。

だから、巽の元に帰るまで決して泣いたりしない・・!と、この時心にそう固く決意したみことだった。

「・・・私が『巽』ではないからか・・?」

みことの心を見透かすような柳の問いに・・みことがこれ以上ないほどに銀色の瞳を大きく見開く。

その瞳を見つめ返す柳の表情が・・悲しげな色を滲ませた。

「・・ずっとその名を呼んでいた。お前がずっと握って離さなかったこの手は・・私の手ではなく、『巽』の手・・・」

スッ・・とみことの顔の前にその手を持ってきた柳が、ギュッとみことの手を握り返す。

闇の中で・・みことを支え続けてくれた、その違えようのない感触・・。

「・・これは私の手だ。『巽』の手ではない・・!」

「あ・・・!」

柳の、責めるような・・すがるような視線を受けたみことが、そのあまりに真剣な表情に言葉を失う・・。

「私が『巽』でないと分かった以上、もう、この手も必要あるまい・・?」

あまりに長く握っていたせいで・・その状態のまま固まってしまっているみことの手を、丁寧に・・しかし容赦なく引き剥がした柳が、その手を布団の中に入れ直す。

「紫水!!」

みことからフイッと視線をそらした柳が御帳台の外に向かって呼びかけた。

「・・控えております・・」

突然現れた人影と、ズン・・と腹の底に響くような声音・・。

御帳台にかかる薄い白絹に柳模様の帳を捲くった柳が、背中を向けたままその動きを止める。

「・・名前は・・?」

「・・え・・?」

いきなり問われたみことが、一瞬間をおいて答える。

「・・あ、み・・みこと・・です・・」

「みこと・・か。良い名だ・・」

そのまま御帳台を出て行く柳に、みことが必死の思いで掠れた声を絞り出す。

「あ、あの・・!手!ありが・・とう・・ございました・・・!」

「・・まずは体を厭え。話はそれから聞く・・」

それだけ言い残して、柳の姿が掻き消えた・・!

「え・・!?」

まるで・・前鬼や後鬼のようにいきなり掻き消えた柳に、みことが目を見張る。

「・・失礼致します・・みこと様・・とお呼びしてよろしいですね?」

スッ・・と御簾を音もなく捲くって現れた紫水の顔を見たみことが、更に驚きの声を上げた。



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