ACT 37




露を含んだひんやりとした風がみことの額にかかる銀色の髪をかすかに揺らす。

どうやらこちらの季節はもう秋の気配が漂う頃であるらしく、夜になると一気に肌寒さが増していた。

フルッと体を震わせたみことが、冷えた肩口の襟元をかきあわせながら目を覚ます。

湿った風が、御帳台から垂らされた、しだれ柳模様の薄絹を揺らしている。

「・・・雨?」

クンッと鼻を鳴らしたみことが外の庭の方へ顔を向けた。

霧雨のような雨が、庭に面した板張りの廊下の先・・明かり取りの影で白いベールのように煙っている。

その・・まるで一枚の水墨画のような情景の中に、闇に溶け込むかのように静かに座した柳の後姿があった。

霧雨の降るひそやかな雨音だけが満ち、虫の声も風の音すら失ったような静寂が柳の周りを包み込んでいる。

みことがこの館に来るまで、聖が出入りするくらいで・・人間がこの館に共に居た形跡は全く感じられなかった。

恐らく柳は、夜毎こうして板張りの縁側に座し、静かに闇の気配にその身を委ねて年月を過ごしてきたのだろう・・。

その背中には、寂しさだとか悲しさだとか・・そんな言葉では言い表せられない深い闇が巣くっているようで、その闇の片鱗に触れたかのようにみことの身体に震えが走る。

その震えが・・冷え切った肩口が・・みことの負った矢傷にズキンと凍みた。

「・・・つっ!」

思わず漏れた呻き声に・・

「・・痛むのか?」

思いがけず耳元で柳の耳朶を震わす低い声音が落とされた。

「えっ!?」

肩を押さえたまま顔を上向けたみことの頬に、柳の艶やかな漆黒の髪がすべりかかる。

そのくすぐったさと、真近くにある柳の紫色の瞳に・・みことが慌てて視線をそらし身体を縮こまらせた。

いつの間にそんな近くに来たのか・・衣擦れの音すら聞こえていなかったのに。

そのみことの首筋に、とても人の体温とは思えないほどに冷たい柳の指先が触れる。

「ひゃっ!」

その冷たさといきなり触れられた驚きに、みことの体が更に強張った。

途端に柳の指先が離れ、頬にかかっていた霧雨に湿る黒髪もスルリと離れていく。

そのまま訪れた静寂に、みことが恐々と柳の居る気配のある方を盗み見る。

部屋に灯された淡い明かり取りの灯火の中で、柳が悲しげに自分の指先を見つめていた。

「・・・熱がある時には丁度良かったのだろうがな・・」

「え・・?」

昼間の、あのみことをねじ伏せた同じ人物とは思えないほどの悲しげな呟きに・・みことが思わず身体を起こして柳を振り返る。

「・・・お前が私の手を握っている間、ずっと私の手も、この身体も温かかった・・」

「柳さん・・?」

「人という生き物は不思議なものだな・・。何の力も妖力もなくひ弱な存在なくせに、どんなに求めても得られぬものを持って、私を惹きつける・・」

ジッと自分の指先を見つめたままだった柳が、おもむろにその手の甲にもう一方の指の爪先できつく一筋の傷をつけた。

微妙に顔を歪めた柳の手の甲から、真っ赤な血が一筋流れ落ちる。

「なっ!?なにやってるんですか!?」

驚いたみことが、慌ててその柳の手を握って引き寄せた。

・・・が

見る見るうちにその傷は、かつてみことが巽に見せられた時の様に治癒して元通りに治ってしまった。

「あ・・・!」

そういえば、巽はそういう特殊体質だった・・と、今更ながらに思い出したみことの表情を見て取ったらしき柳が、みことの顔を覗き込んで言った。

「その者は、人間らしく温かだったのか?」

柳があえて、「巽」という固有名詞を使わなかったせいで、つい、みことが頷き返してしまう。

一瞬、柳の表情が険しくなったかと思うと、自分の手の甲に残った一筋の血のりをもう片方の指先で拭い去り、グイッとその手を掴んだままだったみことごと引き寄せて、そのみことの唇に自分の血をぬぐった指先を押し込んだ。

「っん!?んん・・!」

みことの口の中に、金臭い血の味が広がる。

押し込まれた指先は冷え切って冷たいのに、その血の味は自分のものと変わらない人間の血の味・・・だ。

「やめ・・・っ!」

顔を背けてみことが吐き出したその自分の指先を、今度は柳が舐め取っていく。

その様子はあまりに扇情的で、みことが真っ赤になって視線を彷徨わせる。

「同じ人の血が流れているのに・・なぜ、私の体はこんなに冷たいのだろうな・・」

キレイに舐め取った指をギュッと握りこみ、柳の悲しげな声音が湿った夜気の中で重く沈みこんでいく。

そのあまりに重い呟きと柳のやりきれない表情に、みことが堪らず言い放った。

「あの・・!冷たくなんかなかったです!あなたが僕の手を握り返してくれたから・・あなたの手の温もりがあったから、僕は自分を見失わないで済んだんです!あなたの体は冷たくなんか・・・」

言いかけたみことの頬に、柳がまるで試すかのように両手をあてがって包み込む。

「・・・詭弁だな。現にこの手は冷たいだろう?」

柳の言うとおり、その手は氷のように冷たくて・・みことの身体に震えが走る。

再び駆け抜けた肩の矢傷の痛みを何とかやり過ごしたみことが、未だ悲しみの色を残す柳の紫色の瞳を挑(いど)むように見つめ返した。

「冷たいのは、今のあなたが心を閉ざしているからなんじゃないですか!?さっきみたいに一人で背中を向けていたら、誰だって心が冷え切って・・・」

「私に対して心を閉ざしているのはお前の方ではないのか!?お前が心を開いているのは『巽』だけだ・・!」

「そ、それとこれとは全然別の話でしょう!?僕が言いたいのは、誰かの代わりとか、そんなんじゃなく、あなたの手は本当に温かくて・・僕を助けてくれたのはあなたのこの手だから・・・!」

頬に当てられた柳の手に、みことがソッと自分の手を添える。

冷たい柳の手に触れたみことの手から、温かい陽だまりのような波動が柳の中に流れ込んでいく。

その温もりに目を細めた柳がみことの銀色の瞳を覗き込んで、言った。

「この手が『巽』の代わりでないというのなら、もう少し効率よく私を温めてみろ・・」

「え・・?」

「心を閉ざしていては心が冷え切ってしまうのだろう?ならばお前も私に対して心を開け。そうでなければ私の心は冷えたままだぞ・・?」

みことの頬を包んでいた柳の両手に力がこもり、その顔を上向かせたかと思うと・・その唇についばむようなキスを落とす。

「っ!?な、なに・・!?」

真っ赤になったみことが、必死になって柳の体を押し返そうともがくものの・・片腕しか使えない状態では、抵抗の意味を成してはくれない。

「効率よく・・と言っただろう?もう、さっきより温もりが増している・・」

目の前にある柳の瞳がまるでみことの慌てる様子を楽しんでいるかのように、細められる。

「そ、それは・・!」

「お前が受け入れなければ私も心を開けぬだろう・・?」

「だからって・・!」

「言い出したのはお前の方だ・・私を温められないのか・・?」

みことを試すような口調の中に、どこか・・すがるような声音が潜んでいる。

「・・・寒い・・みこと・・」

まるで救いを求めるかのような柳の声が、みことの中で巽の声とすり替わっていく。

重なった唇の冷たさと温かな口内に侵入してきた柳の冷たい舌先に・・みことが一瞬息を呑んだものの、その触れる唇の感触は鮮明に記憶に残っている巽のものと同じ・・。

例え頭の中では巽ではないと分かっていても・・・

「みこと・・」

キスの合間に巽と同じ声音で名前を囁かれると、途端に身体の力が抜けていく。

未だ口内に残る血の味を、まるで味わうかのように柳が丹念に探り、犯していく。

「・・・ん・・ぅ・・」

冷たかったはずの柳の舌と唇が、いつしかみことのそれとどちらのものか判らなくなるほど熱くなり、その熱がみことの全身に広がっていく。

(巽さん・・・!!)

もう二度と呼ばないと誓ったその名を、みことが心の中で叫ぶ。

しがみついた柳の肩口から触れる長い髪・・・

息苦しさの中で漂う巽とは違う柳の香のかおり・・・

そんなものが時としてそこに居るのが巽ではなく、柳なのだとみことに知らしめる。

けれど柳に与えられる熟練された愛撫によって生まれる心地良さに、身体の方が抵抗する力を失っていく。

全身の力が抜け、体の中から湧き上がる熱をどうにかしたくて・・みことが柳の冷たい身体にその熱を注ぎ込むかのようにすがり付いた。

持て余す熱の捌け口を求めて、みことの舌が柳の舌先に絡んでいく。

「ん・・んん・・・ぅっ」

途端にその持て余していた熱が、まるで吸い取られるような感覚と共に、柳の体内へと注ぎ込まれていった。

「・・は・ぁ・・っ」

ようやく解放された唇からみことが荒い息をつく頃には、冷たかったはずの柳の体がみことから注がれた熱によって、心地良い温もりを放っていた・・・。




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