ACT 38




「みこと・・・」

ぐったりと力を失ったみことの身体を、まるで大切な宝物を扱うように、柳がソッと抱きしめる。

みことから注ぎ込まれた温もりは、かつて柳が味わった事のないほどの心地良さと甘い痺れにも似た陶酔感をもたらしていた。

だが、みことの名を呼ぶ度にみことが心の中で『巽』の名を呼んでいるのが、柳にははっきりと聞こえていた。

「誰かの代わりではない」と言ってはいても、みことが求めているのは、常に『巽』という存在なのだ・・・。

その証拠に、ようやく呼吸を整えたみことが柳の身体から逃れようともがき始める。

「は、離してください・・!もう充分温ったでしょう?」

けれど柳はみことの身体を抱きしめたままその力を緩めようとはしなかった。

「なぜ離れようとする?さっきは自分から求めてきていたくせに」

「そ、そんなこと・・!!」

全身から火を噴いたように真っ赤になったみことが、更に柳の腕の中から逃れようともがき、肩の矢傷に走った痛みに絶句して傷を押さえ込む。

「・・・『巽』の事など忘れてしまえ。お前がたった今求めたのは『巽』ではなく、わたしなのだからな・・・」

その言葉に、みことがハッとしたように身を震わせた。

「今お前に触れ、こうして抱いているのは誰だ?」

柳の腕の中でうつむいて固まってしまったみことの顔を、柳が無理やり上向かせる。

「お前のこの唇に触れ、お前が求めたのは誰だ?」

ツ・・と柳の指先が、みことの唇の輪郭をなぞる。

その柳の指先の感覚に、先ほどの熱の火種が再びみことの体の奥底で疼きはじめる。

その疼きに愕然としたみことが、堪らず柳の腕の中から逃れようと無茶苦茶に暴れた途端、

「っう・・くぅっ・・!!」

肩に走った激痛と共に、ヌル・・っとした嫌な感触がみことの腕を伝う。

「バカな事を・・!」

叫んだ柳の腕の中から転がるように抜け出たみことが、肩を押さえてうずくまった。

みことの単(ひとえ)の着物の肩袖が、見る見るうちに鮮血で染まっていく。

「・・・そうまでして認めたくないか?『巽』の代わりに私を求めた事を・・」

ヒクリ・・ッとみことの肩が震える。

深いため息と共に落とされたその柳の声は、静かで悲しみに満ちていた。

『巽』ではないと分かっていたのに・・無意識に反応する身体を押さえ切れなかった自分。

『巽』の名前を心の中で呼びながら・・柳を求めた自分。

『巽』に対する罪悪感だけではなく、柳をも深く傷つけてしまった事に・・その自分の不甲斐なさに、みことが唇を噛み締める。

(・・・ごめん・・なさ・・い・・!)

自分自身に対する嫌悪感でこみ上げて来る吐き気と、肩の痛みに耐えながら・・みことが声にならない言葉を紡ぐ。

そのみことの身体を柳がゆっくりと引き起こした。

「・・・とりあえず、血止めをせねばな」

みことの単の片袖を脱がし、傷口にまかれていたサラシの布を取り去って血のりを拭う。

せっかく塞がりかけていた矢傷の傷跡が、再びぱっくりと口を開けていた。

流れ出る血をサラシで押さえて止血をしながら、柳が言った。

「・・・お前が私を受け入れ、温もりを与えてくれるなら、誰の代わりでも構いはしない。その代わり私の側に居ろ・・!」

「え・・!?」

「ケガの手当ての仕方など知らぬからな、私のやり方で血を止める。大人しくしていろ!」

有無を言わさぬ命令口調で言い放った柳が、みことの肩口と腕を押さえ込んだかと思うと、背中に流れ出る血のりを、柳の冷たい舌先が舐め上げた。

「・・・ひっ!?な、なにす・・?うぁ・・!」

背筋に沿ってザワザワ・・と得体の知れない何かが駆け上り、みことの全身の毛が総毛立つ。

逃げを打つみことの腰に手を廻し、柳が矢傷を容赦なく・・丹念に舐め上げていく。

「・・ぅ・・くぅ・・っ」

冷たい柳の舌先が傷の上をなぞるたび、その部分が熱を帯びたかのように熱くなっていく。

パックリと開いていたはずの傷口が、なぞられるたびにその痛みが和らいでいった・・・

(う・・そ!?血が・・止まってく・・!?)

確かに、とめどなく流れ続けていたはずの血が・・柳の舌先が傷を舐めるたびに皮膚の表面に薄いピンク色の表皮が再生されていく。

それは・・柳の持つ再生の能力が、その体液や直に触れることを通じても力を発揮する事を物語っていた。

だが、今のみことにはそんな事よりも肌蹴られた素肌に触れる柳の唇が、舌先が、背中に触れるしっとりと露を含んだ長い黒髪が・・傷口だけでなく、身体全体の熱を上げていくのをどうにもできない事の方が問題だった。

ゾクゾクと駆け上がってくる総毛立つ感触。

自分の身体が放つ熱で、柳自身の触れる部分も熱くなっていくのがはっきりと、伝わってくる。

それがまた更にみことの心拍数を加速度的に上げ、ますます全身が熱くなってくるのを止めることができない。

「・・・あたたかいな」

すっかり血が止まった事を確認した柳が、まるでみことの心情を見透かすように微かに笑い・・うなじに唇を寄せてくる。

「・・・っ!?」

ビクンッとあからさまに反応したみことが、その唇の熱さから逃れようと身をよじる。

「やめておけ。それとも・・また私に治療してほしいか?」

耳朶を食むようにそんな言葉を囁かれ、動く事すら封じられてみことが身を強張らせた。

「・・・みこと」

耳朶を震わすその声音は、『巽』の声そのもの・・・

動く事も封じられ、早鐘を打つ心臓も、熱くなる身体も、触れる柳の熱さを心地良いと感じてしまう心も・・何もかもがどうする事も出来ない。

腕を掴んでいた柳の手が、スッと腰に伸びたかと思うと・・あっという間に帯を解き、片袖だけようやく身にまとっていた単の衣を取り去ってしまった。

「う・・わ・・っ?!」

「血で汚れた着物のままでは寝所が汚れる・・!」

「あ・・!」

もっともな言い分に、みことが露わになった身体を縮こまらせてその羞恥と肌寒さに身震いすると同時に、柳がその薄闇で淡く桜色に光り輝き、浮かび上がる身体を温めるように、すっぽりと腕の中に包み込んだ。

「お前といると・・こうして私でもお前を温める事が出来る」

一瞬驚いて、身体をビクつかせたみことだったが、その言葉通りに温かな柳の腕の温もりに・・思わず全身の力が抜け、その温もりに身を委ねてしまいそうになる。

だがそれは、結局は柳に『巽』を重ねてしまっているからであって・・柳を身代わりに仕立てて柳を傷つけ、『巽』をも裏切る行為であることに変わりはない。

その自分の情けなさに・・知らないうちにみことの閉じた瞳から涙が伝っていた。

『巽』の元へ帰るまで決して泣かないと・・そう誓ったはずなのに・・!

その決心をなし崩しにしてしまえるほど、柳の腕の中は心地良くて包み込まれるような安心感があった。

パチンっと柳の指先が薄闇の中で響き渡った途端、血に染まっていた衣が消え去りフワ・・ッと真新しい衣がみことの泣き顔を覆うように現れた。

「・・・泣くな」

『巽』そのものの声が耳元で切なげに訴える。

その声が、その切なさが・・柳を傷つけている事をみことに知らしめ、更にみことの居た堪らなさに拍車がかかる。

身を強張らせたまま涙を流し続けるみことの顔を上向かせた柳が、そのほほを伝う涙を唇でぬぐい去って言った。

「血を止めることはできても、お前の涙を止めることはできないか・・?どうすればいい?どうすればお前は泣かずに済むのだ?」

ギュッと再び新しい衣ごと包むようにみことを抱きしめ、その柔らかい銀髪に頬を寄せる。

その仕草もまた、『巽』の姿をみことに連想させるには充分で・・。

押し付けられた柳の狩衣に、みことの涙がにじんでいく。

「・・離して・・ください。服を・・汚してしまう・・」

必死に抵抗し、弱々しく自分の胸を押し返そうとするみことの肩を庇うように抱き込んで、横抱きに柳が寝所にもぐりこんだ。

「私にその涙を止めることが出来ぬのなら、好きなだけ泣くがいい。ただし、衣を濡らすその代償にお前のぬくもりを一晩借りる」

「え?!か、借りる・・って・・?!」

「心配せずともなにもしはせぬ。・・少なくとも、そのケガが完治するまではな。今はただこうして抱いて眠りたいだけだ。
なぜだろうな・・こうしているだけでお前の温もりは私の体を温めてくれる・・」

みことと出会うまで、柳が自分の身体に人と同じ温もりを得られるのは、人と交わっている間のほんのひと時だけに過ぎなかった。

それ故にその温もりを求め、男女の見境なく数限りない人間と交わってきたといっていい。

なのにみことは、ただ触れ合うだけで柳がかつて味わったことがない・・安らぎという名の温かさで身体も心も満たしていくのだ。

その何ものにも替えがたい安らぎを・・柳が決して離すまいとするかのように、しっかりとみことの身体を抱きこんだまま・・安らかな寝息をたて始めた。

柳の腕の中でガチガチに身を強張らせていたみことが、その規則正しい寝息に・・ようやく強張った身体の緊張を解いた。

柳の腕が、わずかに身じろげるほどの力強さでみことの自由を拘束している。

その拘束感が、かえってみことに安堵感とかつてない安らぎをもたらしていた。

どこにも行く当てのない、知っている者とて誰ひとりいないこの過去の時代で・・唯一柳の抱く腕が、ここに居ていいのだと・・お前が必要なのだと・・そう言ってくれているようで。

みことがその温かな温もりに身を寄せる。

(・・きっと、この人が巽さんの中に居るあの冷たい存在・・。だったら僕は、この人も温めてあげたい。巽さんじゃないけど、巽さんでもあるこの人を・・!)

フワ・・ッとみことの身体から桜色の輝きが溢れ出て、柳の身体を包み込んでいく。

そのみことの瞳からは、未だ止めどなく涙が流れ落ちていた。

その止めることのできない涙の理由を、みことはまだ自覚できないでいた。

こうして自分の存在を求められる事が・・どこにも行けないように抱きしめられて拘束される事が・・巽からは決して与えられなかった持て余すような熱さと疼きが、嬉しかったのだということに・・。

その夜・・みことの放つ淡い桜色の輝きに、つぼみが芽吹く直前の桜の花の香りが微かに加わっていた事を知るものは・・密やかに降り続く霧雨だけだった。




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