ACT 45




「柳様・・!」

みことが紫水によって運ばれた薬湯と粥を食べ終えた頃、馬のヒズメの音と共に聖の慌てたような声音が屋敷の壁越えに響き渡った。

「・・?聖さん?」

部屋の周りにかけられていた御簾は既に上げられ、みことが居る寝屋からも外の庭の様子がよく分かる。

「・・呼びに行く手間が省けたようですね。しかし・・あの慌てぶりからすると、あまり良い知らせではないのでしょう・・」

食べ終えた器を下げ、まだ少し冷えるみことの肩口に紫水が上衣を着せ掛けた。

「あ・・、ありがとうございます」

ニコッと微笑み返したみことの顔とその肩口に視線を落とした紫水が言った。

「・・聖様に見せる必要もなさそうですね・・傷口がほとんど塞がっています。・・・ひょっとしてこれは柳様が?」

「・・・えっ!?あ、あの・・その・・」

まさか柳に傷口を舐められた・・などと言えるわけもないみことが、茹蛸のように真っ赤になって口ごもる。

その様子に・・恐らくは柳の行動を予測しえたのだろう紫水が、その顔に驚きの表情を浮かべた。

「・・・あの柳様が人間の傷を治すなどと・・今までに一度たりともなかったことです。あの方には人が感じる傷の痛みも苦しさも・・無縁なものですから」

「・・・そう・・なんですか・・?」

『巽』と同じく柳は、ケガをしても手当てをする必要のない高い治癒能力を有している。

だから人が負った傷など見ても、治すなどという概念は持ち合わせてなどいないのだ。

その痛みも苦しさも知らぬ柳が傷を治してやろうと思う理由・・それがあるとしたら、それは傷に対してではなくそれを負ったみことに対する思いから来るものだとしか思えない。

「・・・本当に、あなたがここに留まれる人間だったら・・・!」

小さく呟いた紫水が深いため息をもらす。

柳はこれまで人間に対して、ただ冷たい体を温めるための道具としてしか扱ってこなかった。

何の見返りも無しに自分の力を分け与えるなど・・ありえないことだったのだ。

なのに柳は、傷ついて瀕死の状態だったみことに自分の「気」を分け与え、更には傷さえも治している。

それはつまり、柳がそれだけみことを特別に思っているということであり、更には自分の力を与えても構わない・・それだけの価値がある同等の存在だと思っている事の表れともいえる。

あるいは初めて柳が『愛情』というものを持つかもしれない・・今まで柳が求め続けていた「温もり」の源を柳自身が身を持って知る事が出来るかもしれない・・。

今までずっと一人で「温もり」の本当の意味を知らず、ただ一時の「温もり」を貪るようにして生きて来た柳をずっと見続けてきた紫水である。

そんな淡い期待を抱いたとて不思議ではない。

人間でないとはいえ、紫水はあまりに永く人と関わってきたせいで妖魔らしからぬ感情を持ち合わせているのだから・・・。

だが・・例えみことがこの時空に留まれたとしても、もしもみことが柳の心に応えなかったとしたら・・・?

その懸念が紫水の表情を一変させた。

「・・紫水さん?」

急に顔を強張らせた紫水に、みことが不安げに問いかける。

ハッと我に返った紫水が、みことに真顔で問い返した。

「みこと様、もしも・・もしも、元の時空へ帰る方法が見つからなかったとしたら・・あなたはどうなさるおつもりですか?」

その問いかけに、みことが揺るぎない笑顔を返す。

「見つけます・・!例えどんなに時間がかかっても、僕は守りたい人のところに帰ります。僕が生まれてきたのはその人のためだから・・」

その笑みと返された言葉に、紫水がグッと唇を噛み締めた。

皮肉にも柳にみことに対する関心を惹きつけた『巽』への強い思い。

それがこの先何があっても揺るがない事を、紫水にこの時確信させていた。

「では、申し上げておきます。元の時空に帰る手立てはこちらの世界からでは月虹龍だけです。ですがその龍が現れるのは何百年に一度あるかないか・・。こちらからの働きかけで元の時空へ帰る事は出来ないと思って間違いはないかと」

その言葉に、明らかに落胆の色を隠せないみことであったが、紫水の含みの残る言い方に気が付いていた。

「こちらからの働きかけでは・・?」

「はい。こちらからは無理です。ですが、みこと様が来られた時空からの働きかけなら・・まだ可能性はあります。あなたはもともとあちらの世界の存在・・あちら側からの呼びかけで時空の扉が開かれ、そこにあなたの帰りたいという強い思いを重ねる事が出来たなら、おそらくは・・・」

それはつまり、誰かがみことを呼ばなければならないという事を示唆している。

だが、呼ぶとは・・一体どうやって?

それに・・・。

果たして巽は自分を元の世界に呼び戻したいと・・そう思ってくれているのだろうか・・?

巽は決してみことを束縛するような事を言ってはくれなかった。

みことが望むなら居て欲しい・・そう言っただけだ。

そしてこちらの世界に来ることを・・巽の側から離れる事を望んだのは他ならぬみこと自身・・。

どんなに帰りたいと・・巽の側に居たいのだと望んでも、それは今の巽には決して伝わらない。

もと居た世界から自分を呼んでくれるという確たるものはなにもないのだ・・・。

思わず視線を彷徨わせたみことの様子に、紫水が怪訝な表情になって問いかける。

「まさか・・とは思いますが、その方はあなたを呼んではくれないとでも!?」

「・・・呼んでくれるのかな・・?自信ないや・・・」

はは・・と、力なく笑ったみことがうつむきながらも紫水に言った。

「・・・それでも、僕は守るって決めたんです。だから・・絶対に、帰ります・・!」

自分が生まれてきた存在理由・・それは巽を守るため。

それをあきらめてしまったら、みことは生きる目的を失ってしまう。

(・・絶対にあきらめたりしない・・!)

そう、みことが新たに心に誓った時、庭先に聖が駆け込んできた。

手には一枚の書状らしきものを握り締め、柳の姿を求めて視線を彷徨わせている。

「・・!紫水!柳様は・・!?」

紫水の姿を認めた聖が、板張りの廊下の上に身を乗り出すようにして問いかけた。

「もうそろそろお帰りになられるかと・・。どうかされたのですか?その慌てようは一体・・?」

聖のいつにない様子に、紫水が怪訝な表情を向ける。

「空海僧正が・・!帝が・・!柳様をもう一度召し出せと・・・!」

要領を得ない、その聖の叫び声に近い声音に・・

「・・・真魚がどうかしたのか?」

まるで柱の影から滲み出るかのように柳が現われ、聖の持つ書状を奪い去った。

突然現われた柳に、聖が慌てて庭先にひざまずく。

「空海様が鬼退治に苦戦との一報が・・!既にその鬼によって多数の死者も・・!?」

聖が書状を見つめる柳の表情に息を呑んで、言葉を失った。

その柳の紫色の双眸が・・底光りのする邪気をはらみ、異様なまでに輝いていた・・!

「・・・その鬼を退治ねば、咲耶を真魚に返す約束は反故にする!?その上、鳳の一族にその責を負わせて流罪に処すだと・・!?」

帝からの書状に書かれた内容を柳が呟き返すと同時に、その書状が柳の怒りを受けて『ザアッ!』と跡形もなく粉砕されチリと化す。

柳の体から立ち上る氷のように冷たい霊気が、その場をまるで真冬のような寒さに豹変させた。

「・・柳・・さま!?」

震える声で呼びかけた聖の口元からは、白い真冬の息。

その聖をこの上ない冷たい瞳で見返した柳が、抑揚のない低い声音で告げた。

「何が鬼を生むかも知らぬ愚かな人間どもが勝手なことを!真魚と交わした契約を覆し、同じ鬼として扱う私に条件付きで退治ろとは・・身勝手極まりないな!!
真に鬼を退治よというのなら・・望み通りにしてくれる!後で後悔しても知らぬと伝えておけ・・!」

「は・・はい・・!」

弾かれたように一礼を返した聖が、白い息を漂わせながら足早に屋敷を出て行った。

「紫水!先に行ってその鬼の所在、確かめておけ!」

背中を向けたまま柳が言い放つ。

「・・はっ!」

短く答えた紫水の姿がみことの目の前でフィッと掻き消えた。

部屋中を満たす凍えるほどの冷たい霊気に、みことの身体に震えが走る。

背中を向けたまま微動だにしない柳に・・みことの中の何かが警鐘を鳴らす。

(このままじゃ・・いけない・・!柳さん・・このままあの鬼の所へ行っちゃいけない・・!)

この冷え切った空気を・・

全てを拒否するように冷たい霊気を立ち上らせる柳を・・/p>

止めなければ・・!

どうにかして・・この冷え切った場所を・・今の柳の心そのままのこの氷のような霊気を、暖めなければ・・!

みことの口元が無意識に白い吐息を紡ぎ始めた。

最初は寒さに震えて声すら掠れていたそのみことの吐息・・・

やがてそれは微かなメロディを刻み始めていた。

『巽』と、『柳』と・・それぞれに出会ったときに歌っていた歌・・。

みことの一番のお気に入り・・『翼を下さい』のメロディを。

その歌と共に、みことの体から桜色の輝きが放たれ始めていた。

その輝きはやがて、金色の波動に変わり・・柳の足元へと波のように打ち寄せていく・・

その波動と微かに聞こえてきた歌声に、柳がハッと怒りに身を任せていた自分を取り戻す。

振り向いた柳の視界に、桜色の輝きを放ち、花が芽吹く直前の微かな芳香をも漂わせたみことの歌う姿が焼きついていた。




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