ACT 46
まるで地上に降り立った柔らかな太陽。
その全身から、暖かく、柔らかな輝きと温もりと・・心を癒す微かな芳香。
冷たく、凍り付いていた部屋が・・柳の心が・・・
その太陽から放たれる金色の波動を受けて、凍てついた空気を・・感情を溶かしていく。
触れることすら躊躇われるほどの神々しい輝き。
その、桜の精霊としての力を発揮するみことの顔つきは、先ほどまでの顔つきとはまるで違う。
妖艶でいて清楚。
惹きつけられ、触れることを望まずにはいられない欲望と・・触れることに対する罪深さへの呵責。
人であったなら誰しも・・
その姿を見たものは二度と忘れる事が出来なくなるであろう・・魔性の存在。
散る事もなく、永遠に咲き誇り続け・・人を狂気へと走らせる罪深き花。
柳の紫色の双眸から邪気の輝きが消え、その瞳がスウッと細められた。
「・・・みこと」
忘れるはずのない『巽』と同じ甘やかな声が、みことの意識を精霊から人間へと引き戻す。
ハッと我に返ったみことの目の前に、柳の細められた紫色の瞳があった。
「あ・・!よ・・かった。もう、冷たくないですよね・・?」
みことの喋る吐息も、もう白い軌跡は描かない。
震えていた体も今は温かく、確認するように触れた柳の頬もまた温かだった。
その頬に添えられたみことの手に、柳が自分の手を重ね・・その温もりを堪能するように目を閉じて言った。
「・・・なぜ、歌を歌った?」
「え・・!?僕にもよく分かりません・・。ただ、あんな冷たい心のままあの鬼に会っちゃいけない・・そんな気がしたんです・・」
そのみことの答えに、柳がフッと目を開けた。
「あの・・鬼?」
「あ・・っ」
ハッとしたようにみことが慌てて口を覆って視線を泳がせる。
そのみことの顔を包み込む様にして上向かせた柳が、聞いた。
「知っているのか?その鬼の事を・・?」
思わず視線をそらし、固く口を閉ざしたみことの様子に、柳が楽しそうにくぐもった笑い声を上げた。
「ククク・・!なるほど・・その鬼が『巽』と深く関わるものなのか・・?ならば私がその鬼を殺すか生かすか・・それで『巽』の存在自体を消す事も可能なのだろうな。さて・・どちらだ?みこと?」
その柳の言葉にみことの顔から血の気が引く。
もしも・・柳が鬼を封印することなく殺してしまったら、当然契約も交わされず・・『巽』も『聖治』も『綜馬』も・・ひいては高野山自体の存在すらないものに変わる可能性がある。
そして・・それは、みこと自身についてもいえることだ。
未来の世界で居ないはずの存在が、果たしてそのまま存続できるものなのか?
その保証はどこにもない・・・。
「・・まあ、いい。その鬼とやらに会ってみれば分かる事だ。ここで大人しく私が戻るのを待っているがいい」
そう言って、柳の姿がゴウッという一陣の風と共に掻き消えた。
「まって・・・っ!!」
柳に追いすがろうとしたみことの手が空を掻く。
「ど、どうしよう・・!このままだと契約の内容どころか、あの鬼を殺されちゃうかもしれない・・!」
焦ったみことが寝屋を飛び出し、庭先でキョロキョロと辺りを見渡す。
けれど、そこには風情のある庭の木々と晴れ渡った高い空、さえずり渡る鳥達の声以外なにもない。
「だ、だれかー!誰かいませんかー!?紫水さーん!聖さーん!!」
必死になって呼びかけてみるものの・・そこに誰もいるはずがなく、呼べば現われていた紫水も、さっき柳の命令で鬼の元へ行ってしまっている。
みことの呼びかけに答えるものなど誰一人として居ないのだ。
「どうしよう・・ここがどこかも分からないし・・。鬼が今居る場所もわからないのに・・!」
みことが途方に暮れた顔つきで澄み切った青空を見上げる。
そのあまりの眩しさに掲げた自分の手の平が、太陽の光に照らされてまるで透けているかのように見える。
その手の平に一瞬見入っていたみことが、ふと、小指の先に刻まれた「印」の存在に気が付いた。
「あ・・?これ、たしか・・前鬼がつけた「印」・・!」
こんなことになるきっかけの出来事が起こったあの朝。
確か後鬼がこう言っていた。
『・・これでみことは前鬼から逃げられないよ。妖魔は一度覚えた血の味は決して忘れない。みことが死ぬまで追って行ける・・』
ハッとその言葉を思い出したみことが、その小指の先に付けられた「印」をギュッと両手で握り込む。
「・・なん・・だよ・・!あんなこと言っておいて、全然追っかけてこないじゃないか・・!前鬼の・・ばかっ!!大嘘吐き!!!」
みことがどうする事も出来ない苛立ちをぶつけるように、高い空に向かって大声で叫ぶ。
・・・と、
『バサバサバサ・・・!』
という羽ばたきが聞こえてきたかと思うと、太陽光に光り輝くみことの銀髪目掛けて真っ黒な塊が急降下してきた・・!
「えっ!?な、なに!?うわあっ!!」
思わず頭を抱え込んで身を庇ったみことの上で、何かがバタバタバタ・・と一暴れしたかと思うと、フッと、その羽ばたきの音が止まった。
「・・・誰がバカで大嘘つきだって!?」
聞き覚えのある、超が付くほどの無愛想で不機嫌な声音。
「・・・う・・そ・・?」
にわかには信じられなくて・・みことが頭を抱え込んだまま身を硬くする。
期待して・・幻だったら・・幻聴だったら・・そう思うとすぐには顔を上げる事が出来ない。
「・・聞いているのか?俺をバカ呼ばわりした救いようのないオオバカものの半精霊!」
「っ!!前鬼!?」
その聞き間違えるはずも、都合のいい幻聴でもありえない口の悪さに、みことがは弾かれように顔を上げた。
目の前に、全身黒尽くめの痩躯の体に、この上ない不機嫌さを露わにした冴え冴えとしたサファイヤのような青い双眸。
「・・・なんだ?」
一瞬眉をひそめ、腕組みをしたまま、みことを微動だにせず見下ろしている。
今にもあふれそうな涙をその大きな瞳いっぱいに潤ませて、言葉が出ないまま前鬼を見上げているみことの顔に、前鬼が不意に顔を寄せた。
「・・腹が減っている時にはその程度の体液でも力になるか・・」
「・・へ!?」
瞬きをした拍子にこぼれ落ちた涙を、前鬼が余すことなく舐め取っていく。
「ちょ・・ちょっと、前鬼!?」
真っ赤になって、慌てて逃げを打つみことの顔を、前鬼がしっかりとうなじに手を廻し、固定している。
「ジッとしていろ。舐めにくい」
「な、舐めにくいって!?そういう問題じゃなく・・!」
「・・なんだ?もう涙は出ないのか?出るのなら出し惜しみせず流しておけ」
「で、でないよ!!もう出ないってば!!」
ゆで蛸のように真っ赤になって叫んだみことの顔を、前鬼があっさりと解放し、まだ物足らなさそうにみことを見下ろしている。
「ななな・・なんなの!?いったい!?」
驚いて、こみ上げてきつつあった自分の中の弱い感情をすっかり忘れ、みことが怒ったように問いただす。
「・・ふん。泣いている間などあるのか?それに、千年もの時空を飛んできたんだ。力が落ちて腹も減っている。人の姿を保てている事自体、奇跡に近い・・!」
「えっ・・?!」
ハッとして改めて前鬼を見つめたみことが、その疲労の色の濃く滲んだ表情に初めて気がついた。
確かに、千年もの時間を越えるのは並大抵の事ではないはずだ。
それに・・泣いている場合でもないことも。
「あの・・一つ聞いていい?さっき“この程度の体液でも力になる”・・とかって言ってたよね?それって・・それでお腹減ってるのが満たされるって事・・?」
「そうだ。妖魔にとっては人の流す体液は食料と同じだ。その体に流れる血も、涙も、唾液も、精液も・・その身体から放たれる“気”の力も身体自体もな!」
「や、やっぱ、その・・人間を食べちゃうのが一番手っ取り早いってこと?」
恐らくは自分のために千年もの時間を越えてきてくれたのであろう前鬼の疲労を、どうにかできないものか・・とみことが聞く。
「まあ、そうだが・・効率という意味では、“気”の力で取り込んだ方が消化も早くて手っ取り早い・・」
「“気”の力で?それってどうするの?」
真剣な表情で聞くみことに、前鬼がニヤ・・と意味ありげな笑みを向けた。
「・・たいていの場合、人と交わるか・・口移しだな」
「え・・?ええっ!?」
そういえば・・柳にキスされた時、高まって持て余した熱さを口移しで柳へ注ぎ込んだ事を思い出し・・真っ赤になったみことが思わず後ずさる。
「・・なんだ、知らなかったのか?で?それを聞いてどうする気だ?」
後ずさったみことの方へ手をついてその顔を覗き込み、身を乗り出した前鬼が不敵な笑みを浮かべて聞く。
「ど、どうするって言われても・・!」
真近にある前鬼の青い双眸が、飢えた獣のように底光りしている。
聞いた自分を心底恨んだみことだったが、もう後の祭りだ。
うろたえて、視線を彷徨わせるみことに・・前鬼が不意に顔を伏せ、肩を震わせて笑い始めた。
「ククク・・ッ!だからお前はバカだというんだ。人の“気”は情が絡まねば腹を満たすものにはならん」
その態度に、完璧にからかわれたのだという事に気が付いたみことが、今度は怒りで真っ赤になって言い募る。
「か、からかうなんてひどいじゃないか!こっちは真剣に聞いてるのに!」
「・・ばかめ。さっき言った事に嘘はない」
「え・・?」
先ほどとは打って変わって静かな声音になった前鬼が、冴え冴えとした青い瞳であきれたようにみことを見下ろしている。
「・・とりあえず、「印」を付けた指を貸せ。血を吸えば少しは腹も満たされるだろう」
「あ、う、うん」
それぐらいなら・・というか、それぐらいしか出来る事がないと判断したみことが、素直に小指を差し出した。
「あの・・さっき言った事って、ほんとに本当の事・・?」
未だに冗談なのか本気なのか・・どう取ればいいのか分からない風なみことが聞く。
「・・・嘘を言ってなんになる?それに・・・」
「それに?」
首をかしげたみことから視線をそらし、前鬼がみことの指先に歯を立てながら言った。
「お前は巽のものだからな・・・」
「え・・!?って、いたっ!!」
指先に鋭い歯を立てられ、血を吸われる感覚は・・かなりの痛みをもたらす。
その上今回は、以前「印」をつけるだけだった時と違い、血を吸う時間もその量も多いのだから・・。
ギュッと歯と目を食いしばって痛みに耐えていたみことの指先から、スッとその痛みが消える。
ホッとして目を開けると、前鬼の怪訝な表情があった。
「な・・に?」
「お前・・他の誰かから“気”を与えられたか?」
「・・うっ!?」
図星な問いに、みことが言葉に詰まる。
以前のみことの血の味を覚えている前鬼だけに、他の者の“気”が混じっていることに気づいて当然だ。
「・・・誰だ?」
いつになく真剣な表情になった前鬼がみことを見据える。
「あ・・あの、柳さんっていう多分、巽さんの中に居る人に・・・」
「巽の中に居る奴!?・・・あいつか!あいつがこの時空に居るのか?」
その前鬼の問いかけに、みことがハッと自分の本来の目的を思い出す。
「そ、そうだった!前鬼!あの、千年桜の下に封印されてた鬼の事覚えてる!?その鬼の所へ連れてってくれない?今この時代にあの鬼が居るんだよ!だから・・!」
前鬼の胸元を掴みかからんばかりの勢いで聞くみことに、前鬼が静かに問いかける。
「行ってどうする?お前がここに居る以上、その契約は交わされる。そして契約は交わしたもの同士にしか分かりえない代物だ。お前に出来ることは何もない!」
「そんな・・!そんなのってないよ!じゃあ、何のために僕はここへ来たの!?僕は巽さんの肩についた傷・・巽さんが肩代わりしたって言う契約から巽さんを守りたいんだ!何とかしてそれを知りたいんだよ!お願い!何も出来ないかどうか・・行ってみないと分からないでしょう?!」
必死になって言い募るみことに、前鬼が大きなため息を落とす。
「・・・お前はつくづくバカだな。そのせいでお前の存在自体が危うい物になる可能性もあるんだぞ?それを承知の上で言ってるのか?」
「僕は消えたりしない・・!巽さんだって消させたりするもんか!絶対大丈夫!だから、お願い!!」
何の根拠も保証もないくせに・・みことがまるで自分自身に言い聞かせるかのように言う。
「それが人の情か。まあ、どうなろうと俺の知った事ではないしな・・。お前が自分で願ったんだ。後悔するなよ?」
“自分で願った”という言葉にみことの心臓がキュッと苦しくなる。
『お前の願いが私をこうさせた・・』そんな柳の言葉が脳裏を駆け巡る。
それでも・・!
巽を守りたいという願いをあきらめる事など出来ない。
「・・・しないよ!僕は絶対あきらめない・・!」
キッと前鬼を見つめ返したみことの瞳に迷いはなくなっていた。
「・・いいだろう。だが言っておく。お前を連れて飛べば恐らく俺は人の姿を保てるだけの力を失う。何が起こっても助力は期待するな」
「うん、わかった・・!」
頷いたみことの身体を抱き抱えた前鬼の姿が、フィッ・・と掻き消えた。