ACT 49
しだれ柳模様の薄絹が、ふうわりと風の形を残して甘い香を運ぶ。
その香とほほを撫でる風の感触に、みことがゆっくりと目を開けた。
夕闇が迫っている。
薄闇の中、途絶えることなく秋虫たちがその音色を競い合っていた。
ふとその声に誘われるように・・風が流れるままに庭に視線が動く。
そのみことの視界に、いつもと違う人影が写りこんだ。
まるで周りの空気と溶け合うように・・あるがままに、ただ、そこに居る。
そんな・・そこに居るのが当たり前に思えてしまう奇妙な薄い影が、迫る夕闇にその影の輪郭すら曖昧にしていた。
「・・・やな・・ぎ・・さん?」
心の中ではこれは柳ではないと確信しながら、でも他に呼ぶ名のないみことが恐る恐る声をかけた。
「・・おお、目覚めたか」
そう言って振り向いたその顔は、薄闇の中、やはりその輪郭すら曖昧で・・覗く白い歯が笑っていることを知らしめる。
「身体が大事無いなら、こちらでいっぱいやらぬか?」
その声音と存在は、はっきり誰とも分からぬくせに、妙に人を安心させ、なぜだかホッと気持ちが和らぐ気配を漂わせていた。
ふと気が付くと、肩の傷の痛みも・・確か受けたはずの槍の傷の痛みもその跡さえもが消えている。
一瞬、狐につままれたような・・訝しげな表情になったみことが、その薄闇に溶け出してしまいそうな男の横に座り込んだ。
「どうだ?」
座った途端、差し出された小さな盃。
みれば、男とみことの間には小さな膳が置かれ、酒と肴がその上に載っている。
先ほどから漂っていた芳醇な香は、この酒の香だった
「え・・、あ、あの・・僕、お酒はまだ・・・」
こちらの世界ではどうかは知らないが、みことの居た世界ではみことはまだ酒を飲む年齢に達していない。
「そうか・・では仕方ない。この楽しみは先に取って置くこととするかな」
「え・・!?」
改めて男の顔を見れば・・どこかで見たことがあるような・・いや、会ったことがあるような・・懐かしささえ覚える奇妙な感覚。
けれど、目の前にあるその顔は、みことの知る誰とも似ても似つかない・・人をくったような笑みを浮かべていた。
「あ・・あの、あなたは・・?」
問いかけた途端、男の顔が破顔して豪快な笑い声を響かせた。
「わはははは・・!これは失態。名を名乗るのを忘れておった。私は真魚。別名では空海とも呼ばれておる」
「っ!?空海・・さん!?あなたが!?」
みことが銀色の瞳をめいいっぱい見開いて男の顔を凝視した。
精悍で色黒の逞しい顔つき・・どう見ても密教を極めた高潔な僧正とは思えない。
それに先ほどの人をくったような笑みや豪快な笑い声、僧侶の癖に悪びれることなく酒を飲むその態度は・・僧侶であることすら疑ってしまいたくなる。
けれど、みことを見つめ返すその漆黒の双眸の中に押し隠された強い意志を感じ取り・・みことが笑み返した。
「はじめまして。僕は・・」
言いかけたみことの口元が、押し当てられた真魚の指先で封じられる。
「名乗らずとも良い。お主はもともとここに居てはならぬ存在。その名を知り、呼ぶ者もまた私であってはならぬであろうからな・・」
「・・・!?」
まるで・・自分が綜馬としてみことと出会うことを知っているかのような表情とその言葉。
唖然とした顔つきになったみことに、真魚が問う。
「・・・傷はもう痛まぬか?」
「え・・!?」
その問いに、ハッと槍が突き刺さっていた胸に手を当てたみことが聞く。
「やっぱり夢じゃなかったんですね!あの、鬼はどうなったんですか!?柳さんは!?どうして・・僕は無傷なんです!?」
傷の痛みも傷跡もないことから、ひょっとして夢だったのか?
と思っていたみことが勢い込んで言い募る。
「鬼は桜によって封じられ、お主の傷もまた桜によって癒された。柳は・・成すべき事を為すためにここに居ない」
「桜によって・・?成すべきこと・・?」
「我らが先の事を知ってはならぬように、お主もまた語り継がれること以外、過去のことを知ることは叶わぬ。それが道理というものだ・・そうは思わぬか?」
「・・っ!だ、だけど・・!」
「知ってどうするのだ?」
そのためにここへ来たみことの憤りなど知らぬげに、真魚が静かに問いかける。
あの、柳と鬼が対峙した時交わされた会話は意識の半分なかったみことの耳には届いていない。
ただ聞こえたのは、柳が「『巽』が鬼の契約を受ける」と言い放ったことだけ。
「どうする・・って!知ってたらそれから守ることができるじゃないですか!」
「では、知らなければ守れないのか?」
「・・・え?」
思わぬ問いかけに、みことが一瞬まばたきを返す。
「何から守るかを追いかけていては、肝心の守るべきものを見失う・・そうではないのか?現に今、お主の守るべきものは何処に居る?」
「あ・・・」
真魚の言葉にみことが思わずうなだれる。
守ると言っておきながら、今の自分はどうだろう?
今ここに巽は居ない・・みことは守ることが出来ないばかりか、その存在さえ見失っているのと同じ状態だ。
「でも・・だって・・!こうする以外に・・!」
込み上げて来た情けなさに言葉を詰まらせたみことに、真魚がソッと手を伸ばし、その顔を上向けた。
「お主は花の咲く直前の桜のつぼみと同じだ。その花が開いた時、その桜を手折るのは・・その罪を担うのは誰なのだろうな?」
まるで遙か遠い昔を思い出すかのように・・真魚の瞳が細められる。けれどその瞳に後悔の色はない。
既にその罪に対して背負うべき業を・・何を為すべきかを知る者の、揺らがぬ瞳。
「それ・・どういう意味なんですか?」
困惑の顔つきになったみことが、手酌で酒を盃に満たす真魚の横顔を見つめる。
早秋の暮れは早い。
薄闇から既に闇色へとその色を移した夜空には、月影すらもなかった。
「・・今宵は朔であったか・・」
盃を飲み干した真魚が、みことの問いには答えずに、朔夜に煌き始めた星の瞬きを追う。
「・・月は変わらず天空にある。ただそれが隠れておるだけのこと・・。月も太陽も互いに全く異質なものなれど、互いに影響しあい、また、人にとっても共になくてはならないもの・・・」
その言葉に、ハッとみことが朔夜を見上げる。
天空いっぱいに輝く星星・・
それもまた、今は見えないけれど太陽の輝きを受けているからこそ。
「どちらを選べという方がどうかしている・・。どちらも捨てられはせぬ・・どちらか片方を失くしても、人は生きてはいけないのだからな」
「空海・・さん・・?」
それはまるで『巽』と『柳』の間で揺れ動くみことの心を見透かしたかのような『答え』
銀色の瞳をあらん限りに見開いて見つめるみことに気が付いているのかいないのか・・真魚は盃に酒を満たしてはゆっくりと味わうように口に運ぶ。
「・・・だが、二つが重なれば人にとって闇になる。それぞれは輝くものであっても、別たれたままでは人にとっては闇の存在になりうるもの・・・この朔夜のように」
気が付けば・・真魚がいつしかみことを静かに見つめ返していた。
「・・・見失うな」
一言、真魚がみことに向かって言い放つ。
その途端、みことの視界がぐらりと揺らぎ・・そのまま意識が遠のいていった・・。
よろめいたみことの身体を、真魚がその腕に受け止める。
「・・・すまぬな。言ってやれるのはこれぐらいのこと・・」
呟いた真魚が、みことを元の寝所に横たえた。
その寝顔をジッと見つめ、静かに呟きを落とす。
「先の世で、私が迷惑を掛ける事となろうが・・「見届ける者」として、それが果たさねばならぬ柳との約束。すまぬな・・・」
そう言って庭へと降りた真魚が、ふとその足を止めてその地を蹴った。
庭にある木立の一角に止まっていた一羽の大ガラスの目の前に、真魚がフワッと浮き上がる。
バサッバサッ・・!!
驚いたように大ガラスが飛び立ったが・・
その大ガラスの方翼をむんずと捕らえた真魚が、力任せにその大ガラスを引き寄せた。
「まあ、そう暴れるな。礼の一言も言わせてくれぬか?「客神」の妖魔よ」
その真魚の言葉に、ばたつかせていた羽を静め・・それでも威嚇の体勢を崩さずに真魚を青いガラス球のような目で睨みつけている。
「お主があの者をあの場に連れて来てくれたおかげで、柳を鬼にくれてやらずにすんだ。ありがとう・・」
一瞬、大ガラスの青い瞳が大きくなる。
「ついでにもう一つ。あの場で私を助けなかったのは・・その先にこうなることを知っての事か?」
見つめる真魚の瞳の中で、大ガラスの目元がかすかに笑ったように見えた・・・。
「・・・なれば、この場でお前を殺しておいた方が、この地にとって有利やもしれぬ・・か?」
掴んでいた大ガラスの方翼を握る真魚の手に、力がこもる。
が。
その掴んだ方翼に浮かびあがった・・まるで曼荼羅のような奇妙な円形の絵文字に気が付いた真魚がハッとその手を離した。
途端に大ガラスがバサッ!と身をひるがえして闇の中へと溶け込んでいく。
「カラス!せめて柳に別れのひと時くらいは与えてやれ・・!」
叫んだ真魚の声が届いたかどうか・・・ただ、カラスの羽ばたきの音だけが朔の夜にこだましていた。