ACT 50
次にみことが目覚めた時、傍らに柳が座し、その顔を静かに見下ろしていた。
「・・!?や、柳さん!?」
ガバッと起き上がったみことが、柳と向かい合う。
その身体からは紅蓮の炎も沸き立っておらず、いつもの紫色の瞳がみことを見つめ返していた。
だが・・・。
どこかが・・以前の柳と違う。
なにかが・・・。
ああ・・!とみことが柳の目元に手を伸ばす。
いつもは冷たく、どこか遠くを見ている風だった柳の瞳が・・少し『巽』のそれとよく似た優しい光を宿し、真っ直ぐにみことを見つめていた。
「・・・どうした?」
いつになく優しい声音で聞く柳が、伸ばされたみことの手を取った。
「・・え!?柳さん?!手が・・!!」
そのいつもは冷たい柳の手が・・!
みことと変わらぬ位に温かい温もりを宿していた!
驚いて柳を凝視するみことの顔を、柳がみことの手ごとあてがって包み込む。
「・・温かいか?」
問われたみことが言葉もなく頷き返す。
「・・ついさっき、鳳の分家の女を抱いてきた」
「え・・!?」
唐突に告げられた言葉に、みことが瞬きも忘れて柳を凝視した。
告げられた言葉の意味を理解すると同時に、みことの胸に何かが競りあがってくる。
どうしてそんな事を目の前で告げるのか?
『巽』によく似た光を宿したその瞳で・・!
「だから私はお前に触れられる・・・」
続けられた柳の言葉はどういう意味なのか・・?
茫然とするみことの唇に柳の唇が重なる。
「・・ん!?ぃやっ・・だ!」
弾かれたように全身で拒絶の意を表したみことを、柳が容易く組み敷いた。
「ぃやだ・・!はなし・・」
なおも逃れようと暴れるみことの耳元に、柳が問いかける。
「では、なぜあの時私を庇った・・?」
「なぜって・・そんなの、理由なんて・・!」
「お前が庇ったのは、私か?それとも『巽』か?」
その言葉にみことの身体が一瞬強張り、その動きを止める。
みことの顔を真上から覗き込んだ柳が、その真意を問うようにみことを見下ろしてくる。
「答えろ・・みこと・・!」
真剣な柳の声音にみことの胸が更に苦しくなる。
そんな決断を迫るくせに・・どうしてあんなことを目の前で告げるのか・・。
いや、告げられたからこそ、みことはどちらも選べない自分の気持ちに気が付いてしまった。
『巽』と同じように『柳』も守りたい・・!
あの時、そう、心から思ったのだ。
だから告げられた言葉にショックを受け、触れられることを無意識に拒絶した。
昨夜、真魚に言われた言葉がみことの中で渦巻いていく。
『どちらを選べという方がどうかしている・・。どちらも捨てられはせぬ・・どちらか片方を失くしても、人は生きてはいけないのだからな』
今のみことには、そうとしか言えない。
どちらかなど・・選ぶべきものではないのだ。
「・・・あなたは・・意地悪だ・・どうして・・そんな・・・」
そう言ったみことの瞳から堪えきれなくなった苦しさが、透明な涙となって零れ落ちる。
「・・・なぜ、泣く?お前を苦しめるのは私か?私が消えたらお前は泣かずに済むのか?」
その言葉にみことが必死に首を振る。
「違う・・!あなたが消えてしまったら、僕はもっと泣く!苦しいのは・・あなたの事を『巽』さんと同じくらい好きだから・・!選ぶなんて出来ないから・・!」
自分が身勝手なことを言っているのは分かっている。
でも、思うことは止められない。
その思いに気が付いてしまったら・・もう、気がつかない振りなど出来ないのだから。
「・・・私の事が・・好きだと・・?」
紫色の瞳を細め、柳が確認するように問いかける。
「身勝手だって、分かってます・・。でも、僕は『柳』さんも『巽』さんと同じように温めてあげたい。あなたのことも守りたいんです・・!」
「・・会いたいか?『巽』に?」
「・・・はい」
「『巽』の中にいる私にも・・?」
「え!?」
みことが驚いて間近にある柳の顔を見上げる。
どうしてその事を知っているのか?
みことは一言だってそんな事を言ったことなどないのに!
驚いたみことを、柳が横抱きに抱え上げた。
「わ・・!?」
抱え上げられた身体を支えるように、みことが柳の首筋にしがみつく「や、柳さん!?どうして・・?!」
なぜその事を知っているのかと問うみことの視線を、フッと笑った柳がそらす。
「お前は帰るべき場所に帰らねばな・・・」
呟くように言った柳が、みことを抱えたまま庭へと降りる。
朔の夜の終わりを告げる朝日が白々と山並みを浮き上がらせつつあった。
「・・・聞こえぬか?」
柳が静かにみことに問う。
「・・え?」
その言葉に、みことが耳を澄ます。
吹きぬけた風に乗り・・かすかに・・はるかに遠い彼方から聞こえる何かの旋律。
「・・・これっ!?」
それがなんであるかに気がついたみことが、弾かれたように柳の腕から身を躍らせて地に降り立つ。
「うそ・・これって・・なんで・・!?」
驚愕の表情になったみことの耳に届いているもの。
それは・・『巽』が弾くピアノの旋律。
出合った時に・・初めて『巽』がみことのためにピアノを弾いてくれた時に、みことが歌った曲。
「翼を下さい」・・だ。
「・・『巽』がお前を呼んでいる・・」
切なげな柳の声がみことの頭上から注がれる。
「これが・・!?これが・・『巽』さんの呼び声!?」
風に乗り、かすかに・・かすかに聞こえる旋律。
必死に耳を澄ますみことを背後からゆったりと抱いた柳が、その耳元に囁きを落とす。
「一番帰りたい場所を思い出すがいい・・。そこに私も共に居る・・」
「一番帰りたい場所・・?」
背中に伝わる柳の暖かな温もり。
聞こえるピアノの呼び声。
そして・・一番帰りたい場所・・。
みことの中で、その場所が・・その呼び声が・・重なり合う。
(『帰りたい・・!帰りたい・・!温かいあの場所へ・・!!』)
柳の腕の中で、みことの周りに風が渦巻く。
旋律を運ぶ風を追い、呼び寄せるように。
ス・・とみことから離れた柳が、まだ闇色を残す木立から覗く二つの冴え冴えとした青い目に向かって言った。
「・・・待たせたな。連れて行くがいい・・朔の夜が明ける・・!」
バサ・・ッと飛び出した大ガラスが、みことの頭上で両翼を広げる。
その片翼から浮かび上がった「客神」の力・・ルーン文字で描かれた魔方陣がみことの頭上にその円を映し出した。
刹那、
大ガラスが大きく羽ばたき、渦巻く風を湧き起こしたかと思うと、みことの身体ごと浮かび上がらせ、共にその魔方陣の中へ吸い込まれて消えてしまった・・!
「・・これでいい。みことの居ない場所になど一人取り残されたくはない」
みことの残した一陣の風が、まるで名残を惜しむかのように・・柳の長い漆黒の髪を揺らし、天へとその風の軌跡を描いて消えた。
同時に朝日の眩しい日の光が昇り、辺りを明るく照らし出す。
その照らし出された庭の片隅に、身を縮こまらせた人影が一つあった。
「・・・聖、いつまでそこに隠れている気だ?」
柳の呼びかけに、ビクンとその影が跳ねる。
現われた聖は、いつもの観音像の様な柔和な表情を一変させ、殺気立っていた。
「・・柳様・・!どうして・・!?」
聖の殺気立った表情と、その問いに・・柳がク・・ッと自嘲気味に笑った。
「・・お前に私が抱く女を選ばせたことか?」
何の感情の一片も見せずに返されたその答えに、聖の身体が怒りで震える。
柳は聖に鳳の分家の中から、特に能力に優れ、その血の濃い女を選んで連れてくるように命じた。
その聖の目の前で、柳は女に聞いたのだ「私の子を生す気はあるか?」と。
柳の魔性の魅力に惹かれない人間は皆無に近い・・女は嬉々としてそれを受け入れた。
聖にとっても柳は、幼い頃から惹かれ続け、焦がれ続けてきた存在だった。
その柳が一夜限りの温もりを得るために誰かを抱くことがあっても・・それはただ単に人が生きる為に食べ物を摂取するのと同じ事だと分かっていた。
だから耐えることが出来た。
柳がその相手を愛しているわけでも、子を生すわけでもないと分かっていたから。
だが、今回は違う。
柳が自ら望んで子を生すために女を抱いたのだ。
しかもその相手を聖に選ばせて、聖自身の目の前でその事を知らしめて。
「どうして・・どうして、わざわざ私に・・?!」
問う聖の瞳から止めどなく涙が流れ落ちる。
ただ子を生したいのなら、わざわざこんなことをする必要もないはずだ。
それに・・!
先ほど不可思議な力で消えたみことの存在。
あの柳の態度と声を聞けば・・みことが柳にとって特別な存在だということは一目瞭然。
誰のものにもならないと信じていたからこそ耐えてこられたその思いが、その歯止めが聖の中で崩壊する。
問う聖に答えを返すこともなく無情に背を向けた柳に、聖が脇に刺していた刀を抜き去り、迷うことなくその体に突き立てた・・!
そのまま地に倒れ伏した柳の身体から、いつもは流れることもなく止まるはずの鮮血が・・地面にどす黒いシミを広げていく。
「ま・・さか!?どうして・・!?」
倒れ伏したまま動かぬ柳の身体を、聖が蒼白な表情で抱き起こす。
刺したところで柳の身体はすぐに治癒され、刺した自分を殺すはずだった。
自分のものになどなるはずもなく、殺すことも出来ない・・手の届かない人。
それが誰かの物になってしまうのを見るくらいなら・・せめてその人に殺されたいと。
そう思って聖は柳に自分の思いをぶつけたのだ。
そのはずなのに・・!
抱き起こした柳の傷からは、止めどもなく命が流れ出ていた・・。
「柳様・・!?これはいったい・・!?」
聖の声に、柳がフ・・と目を開け、そのほほに手を添えた。
「温かいだろう?これは契約によって得られた仮初めの人としての身体。人の感じる痛みとは・・こういうものなのだな・・」
今までありえなかったその柳の手の温かさに、その言葉の意味に、聖の顔が蒼白に変わる。
「そんな!!どうして・・!?」
「・・私がお前の思いを知らぬとでも?焦がれても側にいても手に入れられぬ思いの辛さ・・それをみことによって教えられた。だから・・・」
言葉を切った柳が、苦しげに息をつく。
「柳様!」
腕の中でだんだんとその温もりを失っていく柳の身体を、聖がそれをさせまいときつく抱き寄せる。
その耳元で、柳が途切れた言葉のその先を紡ぐ。
その紡がれた言葉に・・その意味に・・!
一瞬目を見開いた聖が言葉を失って、もう消えようとしている柳の瞳の輝きと視線を合わす。
「・・・お前が望むなら・・好きにするが良い・・・」
最後にそう言い残して・・柳の身体に宿っていた温もりが消えた。
その消えた温もりに・・永遠に閉じられたその紫色の瞳に・・触れることすら叶わなかったその身体に・・。
聖が一つ一つの形をなぞるように唇を這わしていく。
「・・・誰にも渡さない・・あなたの全ては私のものだ・・!」
その呟きが、柳の紡いだ最後の言葉への『答え』だった。