ACT 51
(『帰りたい・・!暖かいあの場所へ・・!』)
そう、みことが心の中で叫んだ時、その身体は風の一部となっていた。
前鬼が巻き起こした風に乗り、魔方陣によって開かれた時空の迷路にみことは迷い込んでいた。
上も下もなく、とどまることも出来ずにただ流されていく空間。
その中を、みことが風になって吹き抜けていく。
様々な方向へと、形もなく気まぐれに軌道を変える風の道。
その無数に流れる風の軌道の中に、唯一つ。
みことの知る温かな風が流れていた。
かすかに聞こえるピアノの旋律。
その音が、みことを迷うことなくその風へと導いて行く。
遙か彼方だったその旋律が・・
はっきりとみことの耳に届いた時・・!
眩しい光の中へ、みことが風となって吸い込まれていった。
見覚えのある庭先。
見覚えのある開け放たれた大きな窓。
そこから流れ出るピアノの旋律・・!
流れる風に乗って、みことがその窓の中へと入り込む。
巻き上げられた白いレースのカーテンの向こうに見えるピアノを弾く人影。
けれど。
とどまることを知らぬ風は、そのままみことを反対側の窓へと誘っていく。
(『た、巽さん・・!!』)
焦って伸ばしたその手がカーテンの裾を捕らえる事が出来なくて、外へと押し流される・・!
そう思った瞬間、
その反対側の窓の所で温かなものにその軌道を塞がれた。
「・・捕まえた」
耳元に落とされた焦がれ続けた声音。
幾度か濡らした記憶のある広い胸。
風になっているはずの身体を、包み込むようにその胸の中に封じる二つの腕。
例えようもなく温かくて。
これ以上ないほどの安らぎと心地良さを与えてくれる・・
一番帰りたい場所・・!
「おかえり・・みこと・・!」
巽の声に、その名を呼ばれた途端、巽の腕の中でみことの身体が元の生身の身体へと変化する。
「た・・つ・・みさん・・?」
恐る恐るその名を口にしたみことが、ほほに触れるその温もりに身を寄せる。
確かに聞こえる心臓の音・・伝わる体温・・その名を呼んだ途端、更にきつく抱きしめられたその腕の力強さ。
その確かな感触に、その拘束感に、みことのガラス玉のような銀色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「巽さん!たつみさん!!巽・・さん・・!!」
まるで壊れた古いレコードのように、みことが何度もその名を口にする。
何度も何度も心の中で呼び続けたその声を、心の中から吐き出すように・・!
ひとしきり、泣きながら気のすむまでその名を呼んでいたみことが・・ふと視界に入った巽の指先に目を見張る。
「巽さん!?その指・・!?」
巽の指先は、血が滲み、爪先も何本か割れていているように見えた。
すると巽がみことの視界を塞ぐように、深く胸の中へとその身体を封じ込める。
「・・お前が俺をずっと呼んでくれていたように、俺もピアノを弾いていた。お前の耳にこの音が届くように・・!」
ハッとみことが、まだまともに巽の顔を見ていないことに気がついて、その顔を仰ぎ見ようと身じろいだ。
けれど巽はそのみことの動きを封じるように、更に深く胸の中にみことを閉じ込めてそれを許そうとはしない。
「巽さん・・巽さん!?一体何日弾いてたんですか?!」
問うみことに巽の返事はない。
「巽さんってば!」
「・・・もう・・」
かすかに、震える声がみことの耳朶を震わせる。
「え・・?」
「もう・・どこにも・・行くな・・!」
その声が。
どんなにあの日、この家からみことを一人で行かせてしまったことを悔やんでいたか。
どれほどみことを呼んでいたか。
それが痛いほど、みことの胸に染み入ってくる。
どうして・・どうして巽が自分を呼んでくれるのだろうか・・?などと疑問に思ったりしたのだろう?
どうして、巽が呼んでいてくれているはずだと・・信じられなかったのか。
指に血が滲むほど弾き続けた巽のピアノの音は、きっともっと早くみことの下へ届いていたはずだ。
その呼び声に気づかなかったのは・・みことがそれを信じていなかったから。
柳にその声を気づかされるまで・・いや、気づいてもそれが巽の呼び声だといわれるまで、本気で信じられなかった。
・・・『・・見失うな』・・・
みことの心の奥底に刻み付けられた真魚の声が、みことの中でこだまする。
「なにか」から守るのではない。
「なにを」守るのか。
その守るべきものを信じられなくて、一体「なにを」守れるというのか。
今なら分かる。
今、巽がなぜ、みことに顔を見せようとしないのか。
みことが深く抱き込まれていた巽の首筋に、ゆっくりと腕を伸ばしてその耳元に囁きかける
「・・・怖がらないで」
ビクンと巽の肩が震えた。
「聞いてください・・。もう一つ守りたいものが出来ました。僕は、巽さんと、巽さんの中にいる柳さん・・両方守りたい。巽さんも柳さんも大好きです」
みことの言葉に、巽の腕からゆっくりと力が抜け・・みことに寄りかかるように膝をついた。
それでもまだ視線を合わせるのを恐れるように、巽は俯いて顔を上げようとはしない。
みことは首に廻していた手を解き、俯いたままの巽のほほにその手をあてがい・・その顔を上向かせようとしたが、巽がその手を捕らえて制止した。
「・・・どうして・・そんな事が言えるんだ・・!?」
「だって・・僕が守りたいのは、今こうしてここに居る、この世にたった一人の人だから・・」
みことが俯いたままの巽の頭に額を重ねて祈るように言葉を続ける。
「だから・・怖がらないで下さい。僕がいつでも側にいます。側にいて、巽さんも柳さんも守らせてください・・」
みことがゆっくりと巽の顔を上向ける。
もう、巽もそれに抗おうとはしなかった。
ようやく見ることが出来た巽の灰青色の瞳から、一筋の涙が伝う。
「・・本当は・・お前を手放すべきだと思ってた・・。これ以上、危険な目に合わすくらいなら・・その方が・・!」
本当は・・みことの顔を見たら言うつもりだった。
その腕の中にみことを捕らえるまで、巽の心はそう、決意していたのだ。
けれど。
その腕の中で捕らえた温もりが・・自分の名を呼び続けるその声が・・。
その決心をいとも容易く打ち砕く。
・・・『もう・・どこにも・・行くな・・!』
ずっと言ってはならないと思っていたはずの言葉が、堪え切れなくなって流れ出ていた。
その自分の身勝手さが・・怖くなった。
今ならまだその言葉を取り消せる。
みことの顔を見たら、もう、自分の側から離れろと、そう、言わなければ・・!
そう思えば思うほど・・みことの顔を見ることが出来なくなっていた。
それなのに・・!
みことはあっさりとそんな自分の気持ちを見透かしてしまう。
巽の身勝手な願いを、いとも容易く自分の願いに変えてしまう。
言わなければならない言葉を、言う必要のない言葉へと変えてしまう。
「そんなこと、させません」
言い切ったみことが、巽の灰青色の瞳を覗き込む。
「・・巽さんは僕のためにここにいるんですから」
巽の身勝手さを自分の身勝手さにすりかえて、その瞳にたまった涙に唇を寄せる。
「みこと・・!?」
それはまるで神聖な儀式のようだった。
高い窓から降り注ぐ柔らかい陽の日差し。
その陽射しに照らされる銀髪に浮かんだ輝く天使の環。
吹き抜ける風が白いカーテンを翼のようにふうわりと形作る。
ひざまずく巽の瞳から流れた苦しさを、みことが全て自分の中へ取り込んでしまう。
そして
「お誕生日おめでとうございます。僕は、巽さんに会うために生まれてきたんです。だから・・その日はこの先ずっと、一緒にお祝いさせてください」
その言葉を刻み付けるように唇に落とされた天使のキス。
破ることを許さない天使の笑み。
巽にとって、これ以上ないほどの最高の誕生日プレゼントだった。