ACT 10
『おかあさん!おかあさん・・!』
小さな白い手が、隣で寝ている母親らしき体を一生懸命に揺らす。
『・・・・ん・・なあに?みこと・・・?』
身じろぎしたみことの母親がその銀色の髪を優しく撫で、まだ眠そうな表情でぼんやりとみことを見上げている。
『あのね。あのね。今、すっごくキレイな夢を見たんだよ!お庭の桜の下でね、お母さんと二人で居たら・・お空にね、もの凄くキレイな・・・天使さんが居たの!』
銀色の大きな瞳をキラキラと輝かせて、興奮気味に夢の内容を語るみことを母親がゆっくりと体を起こして、その小さな体を抱きかかえた。
『そう・・その天使さん・・て、どんな天使さんだったの・・?』
ニッコリと微笑む母親は、艶やかな長い黒髪に黒曜石のような輝きを放つ大きな瞳・・まるで咲き誇る桜の花のような可憐な笑顔を浮かべている。
『あのね!すっごくキレイなの!髪の毛はお母さんみたいに真っ黒でサラサラ風になびいてて・・キレイなお顔できれいなお目めで・・・それでね、そのお目めが青いんだよ!!』
みことの最後の言葉に母親の顔つきが・・・一瞬厳しくなった。
『お・・かあさん・・?どう・・した・・の・・・?』
その変化を敏感に察知したみことが、不安そうに問いかける。
ギュッとみことの体を抱きしめた母親が、みことの耳もとで囁いた。
『そう・・・青い瞳の天使さん・・だったのね・・・。その天使さんのお顔、よく覚えてる・・?』
『うん!!すっごく覚えてる!!だって・・・本当にキレイだったもの・・・!!』
弾んだ声で言うみことを抱く母親の両手に・・・知らず力がこもる。
『・・・うん、じゃあ・・その天使さんのお顔をよく覚えておきなさい・・・。もう一度会った時に、すぐにその人だと気づけるように・・・!』
驚いたみことが腕を突っ張って体を反らし、母親の顔を真正面に見つめ返す。
『・・えっ!?あの天使さんに会えるの!?本当に!?いつ?いつ会えるの?!』
期待に胸を膨らましたかのような・・・みことの輝く笑顔に目を細めながら、母親が言った。
『いつか・・・必ず出会うわ。そして・・・その人は、みこと・・・あなたにとって大切な人になるかもしれない。だからそれまで大事に・・・大切に心の中にしまっておいて・・・』
『うんっ!!絶対忘れないよ!絶対・・・!僕の宝物にして心の中にしまっとくね!』
そう言って、嬉しそうに無邪気に笑うみことを、母親が再びギュッと抱きしめる。
その窮屈さに身じろぎしたみことが・・・その奇妙な現実感のある感覚に、ハッと目を開けた。
『・・・え・・?な・・に?手が・・痺れて動かせな・・・・!?』
薄暗くなった部屋の中で、みことはようやく目を覚まし・・・自分の手が掴んでいる物と、ほほに当たる温かな体温に息を呑む。
『・・・・ひっっ・・・!?』
悲鳴に近い叫び声を上げそうになり・・・慌ててその声を押し殺す。
(・・・な、な、な・・・なんで!?なんでーー!?)
顔を上げたそのすぐ目の前に、巽の寝顔があって・・・その胸の中に抱き込まれる格好で寝ていたらしき自分・・・に、どうしてそうなったのか思い出すのに時間がかかった。
その思い出すまでの時間、みことはただ呆然と巽の寝顔を凝視していた。
『・・・・やっぱり、あの時の・・・天使さん・・?だよね・・・?』
先ほど見ていた、幸せだった頃の夢を思い返して・・・みことが母親の言った言葉を小さく呟く。
『・・・必ず出会う・・・大切になるかもしれない人・・・・!』
その相手が・・・今、こうして目の前にいる。
その意味を確かめるかのように、再びみことが巽の胸に顔を埋め・・・その体温と規則正しい心臓の音にその身を委ねる。
(・・・・何で・・・こんなに落ち着けるんだろう・・・?)
巽の心臓の音と、春の陽だまりのように暖かいその場所に・・・今まで感じた事のない、なんともいえない至福感を味わい・・みことは戸惑っていた。
幼い頃に心に刻み付けたその人に・・・いつか必ず会えると、そう信じ・・・いつしかそれがみことの心の支えになっていた。
父と母を亡くしたあの日の事を・・・覚えていたはずなのに、まるで記憶の引き出しに鍵を掛けていたかのように・・・どうやって亡くなっていったのかを思い出せずにいた・・・。
それだけでなく、父と母に関する記憶そのものがおぼろげで・・・ただ、その時見た夢の事だけを鮮明に覚えていたのだ。
だから・・・
みことはどんなに辛い事があっても、唯一はっきりと記憶に甦る母の言葉・・・「いつか・・必ず出会うわ」その言葉を信じて、出会えるまでは・・・!と耐えてきた。
そして・・・その人に本当に出会い、今、目の前にその顔があって、生きている証の心音と温かな体温を感じている。
その事が、何にも勝る安堵感と安らぎをみことに与えていた・・・。
(・・・・・ずっと、ここにこうしていたい・・・ずっと、この人の側に・・・・!)
突然湧き上がってきた強い衝動に、みことが焦りを覚える。
これが本当に自分の感情なのか・・・!?と、恐れをなすほどの強い願望・・・!!
それは、みことにとって初めての・・・渇望とも呼べる心からの願いだった。
そんな自分のあまりに身勝手すぎる願望に驚き、慌てて起き上がろうとした途端、覚醒した巽の鋭い切れ長の灰青色の瞳にぶつかった。
その・・・相手の心を見透かすような澄んだ瞳に、先ほどの自分の願望を知られたのでは!?という考えが一瞬よぎり・・・みことの心臓がドクンッ・・!と一気に跳ね上がる。
『う・・わっ!!ご、ごめんなさい・・!もう二度とあんな事考えません!本当にごめんなさい・・・!』
今にも飛び出しそうなほどドキドキと早鐘を打つ心臓の音が聞こえはしないかと、真っ赤になってただゴメンナサイと繰り返す。
『・・・あんな事・・・!?』
怪訝そうに眉間にシワを寄せた巽の様子に・・・みことがホウ・・ッと胸をなでおろし・・・
『あ・・・いえ、あの・・その・・・随分長い間・・・あなたの胸を借りちゃってたみたいだから・・・・』
消え入りそうな声でそう言って、真っ赤になってうつむいた。
『・・・確かにな・・・!』
少し不機嫌そうな声で答えた巽が、うーー・・っ!と、体を伸ばし、小さなため息をもらす。
『・・・我ながら情けないな・・・まったく・・!』
そう言いながら立ち上がり、強張った体のあちこちの筋肉を伸ばしている。
その言葉に、みことが更にも増して恐縮し・・・ただでさえ華奢な体をちぢこまらせて何度も謝る。
『ごめんなさい・・ごめんなさい・・・!何がどうなったんだか・・・自分でもよく分からなくて・・・』
今にも泣きそうな声音で・・・うつむいたまま言うみことの前に屈みこんだ巽が、その顔を上向かせた。
『そんなに謝ってばかりいられたら、こっちが謝れないだろう・・!?お前に掛けられていた呪を承諾なしに解いてしまった・・・。まさか・・・あんな事が封じられていたとは思ってもいなかったから・・・本当にすまなかった・・・』
申し訳なさそうに謝る巽に、みことが慌てて首を振る。
『そんな・・・!そんなことありません!僕・・・僕は・・・本当は自分であの記憶を封じ込めてた気がするんです・・・。お父さんとお母さんに置いて行かれた事を認めたくなくて・・・独りぼっちになってしまった事を認めてしまうのが恐くて・・・だから・・・!』
いったん言葉を切ったみことが、一大決心をしたかのように巽を見上げた。
『・・・だから、あなたにあの場所で抱きしめてもらえて・・・本当に嬉しかった・・!ありのままの自分を認めてもらえた気がしたから・・・』
そのみことの真っ直ぐな視線に、思わず巽が視線をそらす。
『あれは・・・俺自身が耐えられなかったんだ・・・!俺も、あんな風に大事な人達を・・・自分の力の及ばない所で亡くしてしまったから・・・だから・・・お前に礼を言われるようなことじゃない・・・!』
一瞬浮かんだ巽の苦痛の表情に、ハッと息を呑んだみことだったが・・・それでも湧き上がって来た言葉を押えられなかった。
『それでも・・・それでも、僕は嬉しかったんです!本当にありがとうございました!』
そう言って、満面の笑みを浮かべたみことの笑顔は・・・今までの笑顔とは全く違う、巽が夢で見た幼い頃そのままの輝くような、見ている者まで微笑んでしまいそうな無邪気な笑顔で・・・。
その笑顔に巽が返す言葉を失って・・・久しく忘れていた素直な感情が知らないうちに口から流れ出ていた。
『・・・俺は・・・その笑顔がもう一度見たかったのかもしれないな・・・』
『え・・・!?』
みことが疑問を口にする間もなく、巽の顔つきが一瞬にして強張って・・・窓の外の日の暮れかけた山並みを見据えた。
その巽の視線につられて窓の方へ振り返ったみことの背後から、突然聞き慣れない声が降り注ぐ。
『・・・結界が破られましたね・・・・』
驚いて声の主を見上げたみことの目の前に、緑色の瞳をまるで微笑んでいるかのように細めた黒ずくめの一人の男が立っていた。
『だ・・誰!?』
今まで誰もいなかったはずのその場所にいきなり現れた男に、みことが目を見張る
『後鬼か・・!前鬼は!?』
山並みから視線を外さないまま、巽が恐ろしく真剣な声音で聞く。
『もう綜馬くんのフォローに・・・』
『綜馬は?!結界が破られたのならただではすまない・・・!』
『破られる瞬間、前鬼が残していた妖気で二重に結界を張ったから・・ダメージは最小限・・・・』
後鬼が手の平を掲げ、ス・・ッとその上を切りつけるようにもう一方の指先でなぞり、綜馬が負ったのであろう傷跡を再現する。
『行くぞ・・っ!』
後鬼の方へ向き直った巽の視線に答えるように後鬼が頷き、その体に手をまわす。
『あ・・あの・・・っ!?』
完全に無視された形になったみことが、訳が分からずに問いかけた。
『鬼が動き始めた・・!恐らくはお前に掛けられていた八瀬の呪が解かれた影響だろう・・・お前はここから動くな!分かったな!?』
巽の言葉の鋭さと、有無を言わせぬ迫力に・・・みことが息を詰めて頷き返す。
そのみことの様子を確かめた途端、巽と後鬼の姿が一陣の風と共に掻き消えた・・・!
『う・・・そ!?』
突然魔法のように消えてしまった二人が居た場所を、みことが呆然と見つめている。
そして・・・巽が見据えていた山並みに視線を移し、ハッと目を見張った。
かつて自分が住んでいた場所のある山の一角から、邪気をはらんだ黒い影・・のようなものが渦巻いて広がろうとしている事に気がついたのだ。
『なに・・・?あれ?あんな物、今まで見たことな・・い・・・!?』
言いかけたみことの表情がみるみるうちに強張っていく。
『・・・ううん・・・違う・・!見たこと・・ある・・!小さい頃・・・お母さんと一緒に居た時に・・・・あれは・・あの時は、お母さんが僕を助けてくれた・・・!』
まるで走馬灯のように、今まで封じられておぼろげにしか思い出せなかった幼い頃の思い出が・・・一気にみことの脳裏を駆け抜けていく。
幼い頃、何度もあんな風な黒い影を見た。
それは街中を行く人たちから立ち上っていたり、ある一箇所に吹き溜まりのように固まり、蠢く軟体動物のようであったり・・・形も大きさも様々であった・・・。
それは、時として幼いみことめがけて襲いかかり・・・その度に・・・!
思い出したみことの胸の辺りがじんわりと暖かくなる。
胸に手を当てると・・・そこから淡い桜色の輝きが放たれ・・・その輝きがみことの全身に広がっていく。
銀色の髪がその輝きを受けて・・・まるでオーロラのように輝き、全身から湧き上がるオーラのような気の流れに揺れている。
『そ・・・うだ・・こんな風に体が熱くなって・・・それから・・・・?』
その先に自分がどうやってその黒い影に対抗していたのか・・・それが・・・まるで思い出せない。
ただ・・・
『覚えていてね・・・みこと・・・人の心が生んだ物は人によってしか救えないの。だから・・・あなたは滅するのではなく、救う事を・・・!あなたになら出来るはず・・・・』
そう言った母親の言葉だけが甦る。
『救う・・・・?あ・・っ!そういえば・・・この桜の下に居る人も可哀想な人だって・・・言ってた・・・』
呟いた途端、みことの頭の中に自分を呼んでいるかのような微かな声がこだまする。
『・・・だ・・・れ!?』
今にも消え入りそうなその声は、まるで助けを求めているかのように・・・悲しく切ない響きを感じさせた。
『・・・・行かなきゃ・・・!呼んでる・・・僕の事・・・呼んでる・・!!』
放たれていた桜色の輝きを瞬時に収めたみことが、何かに誘われるかのように・・・自分の自転車に飛び乗っていた・・・。
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