野良猫
ACT 27(光紀)
「美少年!無事か!?」
聞こえたその声に、戦慄が走ったはずの身体が一瞬、弛緩する。
…ゆう…すけさん、じゃ…ない…!
そう思うと同時に、握っていた銃を背後に隠して置いていた。
持っているのが分かったら、きっと取り上げられる…!
そう思ったから。
パチンッ!と、部屋の電気が灯されて、その眩しさに思わず顔を伏せた。
それと同時に聞こえてきた、一条さんの息を呑んだ気配。
「…くっ、なんてこった…!」
そんな言葉と共に駆け寄ってきた一条さんが、ふわり…と俺の身体に着ていた上着を着せ掛けた。
「大丈夫か!?」
着せ掛けた上着の上から一条さんが俺の身体に、慎重に手で触れる。
その感覚に、自分でもビックリするほど身体が過剰反応してビクンッ!と揺れた。
「とっ、すまん、俺だ、一条だ…分かるか?」
その言葉に、ゆっくりと顔を上げる。
身体は動くけれど、まだあまり上手く思うようには動かせない。
少し気を抜くと目の焦点がぶれる。
そこにあった一条さんの顔には、心配そうな表情と共に、やっぱり…どこか憐れみの色が感じられた。
それもそうだろう…。
顔を上げる時、初めて明るい光の元で見た自分の身体は、血のりと切り傷と精液と泥にまみれ、うっ血した痣と青痣だらけだった。
これだけ怪我を負っているのにほとんど痛みを感じないのだから、まだ、かなりクスリが残ってる。
薄闇の中で見た、まるで死んだ魚のように濁っていた塚田達の目…。
だらしなく開いた口元からたれていた涎…。
どれほどの時間、部屋にクスリを充満させていたのか…完全に正気を失っていた。
気絶していたとはいえ、俺もかなりの量を吸っているはずだ。
「…い…ちじょう…さん、ゆ…すけ、さん…は…?」
カラカラに渇ききっていた喉から、掠れて聞き取りにくい声を何とか絞り出す。
「祐介か?影司を追って行った。とにかく、ここを出よう、立てるか?」
そう言って腕を掴んだ一条さんを、俺は弱々しく制した。
「?おい…?」
「だめ…あいつ、ゆ…すけ…殺す…は…やく、お…って…!」
「は?影司がか!?」
「あ…いつ、ま…とも、じゃ…ない…から…!」
「!わ…かった!ここで大人しく待ってろよ!」
そう言って、一条さんが部屋を走り出て行く。
大きな一条さんの体に遮られていた視界が開き、目の前に広がった…血溜まりに沈む4つの死体の転がる光景。
「…っ、ぅ…ぐ…っ!」
込み上げてきた吐き気。
胃液が逆流して喉に強烈な酸味とひりつく痛みが駆け上がってくる。
同時に上がった心拍数に胸が苦しくなり、こめかみに感じる脈動がうるさいほど頭に響きはじめる。
…お…れが、この手で…!
甦ってきた骨に響いた衝撃が、全身に広がる震えに変わる。
…祐介にこれを…この汚れきった身体を…見られたら…!
そう思うだけで背筋に戦慄が走る。
嫌だった。
こんな姿を祐介に見られるのだけは。
自分がどんな目にあって。
何をしたのか。
それを知られることが。
それを知った祐介の瞳に写る自分を見ることが。
背後に隠しておいてあった銃を握った。
祐介さんはきっと大丈夫。
一条さんも居る。
あんな奴なんかに殺されたなんて、しない。
重い身体を引きずるようにして、起き上がった。
大丈夫。
一人で歩ける。
どうして動物が死ぬ時居なくなるのか…少し分かった気がした。
自分で自分の後始末をつける…そのためだ。
すぐ横にあった裏口から外へ出る。
歩くたび、足の間にヌルつく体液が伝う。
歩く足元がふわふわとして現実感がない。
どれだけ歩いただろう?
時間間隔も距離感覚もない。
でも、多分そんなに離れてない。
身体が重くて、ふらふらする。
早くなったり遅くなったり…不整脈を刻む心臓の音だけしか聞こえない。
いつの間にか木々が林立していた場所を抜け、ゴツゴツとした岩場に出ていたようで。
でこぼことした岩に足を取られて転がった。
その拍子に跳ねた小石が、カラカラ…と下に向かって転がるような音が響いた。
「…え?」
音のした方に視線を凝らして見てみると、その先は崖のようになっていた。
…ちょうどいい。
崖の手前にあった岩の上に座る。
ここで撃ったら、崖の下に転げ落ちる。
朝になるまで見つからずに済むかもしれない。
握った銃を、ドクドクとうるさく脈打つこめかみに押し付けた。
ふと…リョー君の、最後に俺の名前を呼んでくれた、あの声が甦る。
…約束、破ってゴメン
ようやく見つけた友達だったのにな…。
叶うなら、一緒にネコみたいな犬を探したかった。
塚田達を撃った感触を思い出しながら、引き金にかけた指先に力を込めた時、
「だめーーーー!!」
不意に、そんな、キーの高い女の声が響き渡った…と思った瞬間、小さな何かが俺に向かって飛びついてきた。
反射的に抱きとめて、けれど指先に込めていた力は解くことが出来ずに、飛びつかれた衝撃のままにその引き金を引いていた。
僅かに髪を掠め、漆黒の闇の彼方に向かって銃弾が飛ぶ。
軽い、渇いた銃声がこだまし、俺の身体は飛びついてきたモノもろとも、崖とは反対方向へと、岩から転がり落ちていた。
「だ…め!死んじゃ…だめなの!!」
やっぱり、キーの高い、女の…子、の声。
「え…や…っこ、ちゃ…ん?」
軋む身体を起こして、俺の胸に抱きついて泣きじゃくって居る、小さな女の子…を、改めて確認する。
間違いなく、一条さんのトコに居た、やっこちゃん!
「やっこ、ちゃ…、声…が…?それ…に、どうし…ここ…に?」
口が聞けなかったはずなのに。
いったいどうして?
「お…かぁさん、止められ…なか…った、ダメ…なのに、撃っちゃ、ダメ…って、言いたかった…のに…、だから…!」
「え…、」
「死んじゃ…だめ、ぜったい…ダメ…なの…!」
「やっこ…ちゃ…ん…」
泣きじゃくりながら必死に言って、小さな身体が俺の身体を抱きしめる。
すごく、あたたかくて。
すごく、ちからづよい。
「…なんで…泣くの…?」
俺なんかのために。
何の関係もない、赤の他人なのに。
「いて…ほしいもん…!生きてて…欲しいもん…!」
なんだか、理不尽だと思った。
こっちはこんなに苦しいのに。
あの人に会うのが、こんなに怖いのに。
こんな自分を消してしまいたいのに。
そんなこと一切無視して。
そんな身勝手な理由で。
そんな小さな身体で。
俺を、引きとめる。
理由の要らない、ここに居ていい理由を…。
生きる理由を与えてくれる。
「…光紀!どこだ!?」
遠くから聞こえてきた声に、思わずやっこちゃんの小さな身体を抱きしめた。
まだあの人は、俺の名前を呼んでくれる。
俺の居場所を探してくれてる。
「…かえろ」
胸の中に抱き込んだやっこちゃんが身じろいで上向き、俺の目と視線を合わせて覗き込んでくる。
「え…?」
「よ…んでる、よ…帰ろ…」
「…っ、」
まるで俺の心の奥底を見透かすように、真っ直ぐに見つめてくる無垢な瞳。
やっこちゃんのその言葉に、泣きそうになった。
帰りたい場所。
会いたい人。
本当は、ずっと、そうしたかった。
「…うん」
そう言って立ち上がろうとした時、
「真柴!うしろ…っ!!」
緊迫した一条さんの叫び声が聞こえた。
「っ!?」
ハッと顔を上げ、声のした方に目を凝らす。
闇に慣れた視界の先に、祐介さん…!
だけどそのすぐ後から、影司とかいう男が駆け寄ってきていた。
その手に、闇の中でもはっきりとその存在を主張する、ナイフを持って…!
声を上げる間もなかった。
それがナイフだと分かった時には、もう、それは祐介さんの背中に埋め込まれていた。
「祐介、さ…!!」
掠れた声でその名を呼んだら、一瞬仰け反った祐介さんの顔が俺の方を向き、その瞳の中に俺の姿を捉えて、笑った。
「み…つき!良かった…無事で…、」
怖がる事なんて、なかった。
祐介さんは、以前と何一つ変わらない、憐れみも蔑みも微塵も感じられない優しい目のままで、俺を…!
なのに、次の瞬間、祐介の身体がガクン…と膝をついて落ちる。
それでも倒れこまないよう、両手を付いて体を支えて…見えた背中に突き刺さったままの、あってはならない、突起。
「…っ、え、いじ…!」
「あなたが、望んだんだ…!」
怒りを滲ませた声音を響かせつつ身体を起こした祐介さんが振り返った時、そいつは、次に足元にあった石を持ち上げて祐介さんに殴りかかろうとしていた。
「っ、やめろ!!」
無我夢中だった。
迷いなんて微塵もなかった。
お前なんかに祐介を殺させない。
望んだのは、お前の方じゃないか…!
明確に殺意を持って、引き金を引いた。
最後の一発…!
だけど。
放たれた銃弾はそいつが石を掲げ上げていた腕を掠めただけだった。
はずみで狙いがズレ、殴りかかった石は祐介の即頭部を掠めて肩に落ちる。
「く…ぅ…っ!」
呻き声と共に、その衝撃に祐介の身体が男の方へ傾いた。
そう、見えた。
でも、そうじゃなかった。
「…外れ。俺の勝ち…」
ニヤリ…と、闇の中でそいつの笑った口元が見え、その言葉だけがいやにはっきりとこだました。
同時に、祐介の腕を掴んだそいつの身体が、後ろに向かって飛ぶ。
切り立った崖の様になっていた、その下へ。
目の前で、祐介の身体がそいつに抱き抱えられるようにして、消える。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
分かりたくなかった。
「ゆ、うすけ…?嘘…だ、祐介ーー!!」
気がついたらその名を叫んで祐介が消えた、その下へ。
駆け寄った勢いそのままに飛び込もうとしていた。
「…バカヤロウッ!!」
そんな大声と共に、あいつに切られたらしき足を引き摺ったまま横っ飛びに飛びついてきた一条さんにそれを阻止され、後に弾き返された。
「…く…ぅっ、は…なして!祐介が…!」
「てめぇまで飛び込んでどうなるってんだ!?ああ!?」
「だ…って…!」
「死んでねぇ!!」
「え…」
目の前にあったいつも仁王像のように厳つい一条さんの顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「こんな…こんな事であいつが、死んでたまるかよ!!」
血を吐くような叫びに、俺はそれ以上継ぐ言葉を失った。